25.決断(前編)
トビーのドッペルゲンガー現象パニックから我に返った私は、急いで蒼の元へ向かった。
蒼はすでに来ていて、先に練習を始めている。
重い扉を素早く押し開け、音漏れしないようきちんとドアノブを下げた。
「ごめんね、遅くなって」
「いや、大丈夫。こっちこそ急に無理言ってごめん。……何かあった?」
そんなに分かりやすく顔に出ちゃってるのかな。
「大したことじゃないの、私の勘違いかも。練習終わったら、ちゃんと話すね」
「ん。分かった」
タイムリミットは一時間。無駄話をしてる暇はない。
早歩きでアップライトピアノの前に向かい、すでに譜面台に置いてある楽譜を手に取る。
ラフマニノフのヴォカリーズか。うわぁ、楽しみ!
「ごめん、ちょっと譜読みの時間くれる? 5分でいいから」
「了解」
蒼は短く答えると、そのまま黙って待っていてくれる。
こういうところも、すごく好き。オンオフの切り替えがしっかりしてるとこ。
調号、テンポ、強弱、記号を確認しながら、譜面の音を追っていく。
大体のイメージは掴めたので、さっそく譜面を見ながら軽く弾いてみた。途中怪しい部分は幾つかあったけど、実際に合わせてるうちにこなれてくるでしょ。
「よし、いいよー」
「じゃあ、とりあえず頭から」
「はい」
ピアノの和音からすぐチェロが重なる。
装飾音は省いてる。弓の返しが不安定な部分もある。だけど、未熟な部分が逆に新鮮だった。完成前の蒼の音を聴くのは初めてで、なんだかドキドキしてしまう。
私も途中で何度か音を外してしまった。
ピアノとチェロの主旋律が入れ替わる部分の引渡しもちぐはぐ。
それでも何とか止まらず、最後まで弾ききる。
終わった瞬間、蒼が目をあげ、二人で顔を見合わせ噴き出した。
「ひどいな、これ。俺、マジでやばい」
「いやいや、私も負けてなかったよ。ラフマニノフがここにいたら、ピアノに頭打ちつけたね」
「俺の弓を取り上げて折ったかも」
ひとしきり笑った後、今度はテンポを落として、正確な演奏を目指すことにする。
「よっしゃ、いきますか!」
グーパーを繰り返してから、おもむろに鍵盤に指を置く。
それから、合図を送ろうと蒼を見た。
彼は何故か、心底満足そうな表情を浮かべていた。綺麗なアーモンド形の瞳が煌き、私を魅了する。
今のへっぽこ伴奏のどこに、そこまで蒼を喜ばせるものがあったんだろう。
「どうしたの?」不思議に思って尋ねると、蒼はゆるく首を振った。
「なんでもない。ただ――幸せ過ぎて、クラクラするだけ」
なんと大げさな!
「そういうことは、完成してから言ってよ」と口を尖らせた私を見て、蒼はますます嬉しげに微笑んだ。
そしてそこから蒼による、息継ぎなしのスーパー繰り返しタイムが始まった。
「いまのとこ、もっかい良い?」「ごめん、ちょっと止まって。ここ練習させて」「もっとクレッシェンドかけていいよ」「そこは溜めて。うん、気持ちゆっくりめ」
私はその度、こくりと頷き、蒼の要求に応えていった。
分かる、分かるよ! 自分の中にある理想の音まで近づきたいその気持ち!
普段は飄々として見えるけど、蒼も音楽に対してすごくストイックだったんだな。……じゃなきゃ、ここまで上手くはなれないか。納得。
真剣にチェロを奏でる蒼は、とびきりカッコよかった。
ときめきが加速し、胸が苦しくなる。
彼の新しい一面を発見するたび、こうして『好き』は深まっていく。底はまだ見えない。どこまで好きになったら終わりがくるんだろう。
練習室に次の予約者がやってくる5分前、ようやく蒼は弓を止めた。
「こんなもんかな。どうだった?」
「良いと思う! すごいね、こんな短時間で」
「ある程度は自分でも練習してたから。でもやっぱ、ピアノと合わせるとなると違うな。助かった」
チェロ本体を乾拭きし、弓を緩めて楽器ケースにしまいながら、蒼は晴れ晴れとした表情を浮かべた。どうやら納得がいったらしい。
「全然いいよー。むしろ役得? 遠慮しないで、いつでも言ってね」
「練習に付き合うのって面倒だろ。真白は俺に甘すぎ」
「好きな人を甘やかして、何が悪いの」
クスクス笑いながら答えると、蒼は真っ赤になって「嬉しいけど、この状況でそういうの、ホント勘弁して」と呟いた。
ちぇっ。本当のことなのにな。
蒼は楽器を部屋に置きに行き、それから談話室へ戻ってきた。
自動販売機のアイスコーヒーを奢って貰いました。伴奏のお礼だって。えへへ。
二人並んで空いてるソファーに座り、他愛もない話をする。
ちらほらと他の寮生もやってきたけど、蒼を見るとすぐに回れ右してどっかへ行っちゃうもんだから、広い談話室には私と蒼しかいなくなった。
「さっき言ってた、勘違いで驚いた話ってなに?」
あ、そうだ。もうすっかり忘れてた。
「それがさ――」
蒼は笑ったりせずに、最後まで話を聞いてくれた。
「――それでビックリして、絶叫しちゃって。そういえば、理事長の慌てた顔、初めて見たよ。あんな顔するところを見ると、やっぱり別人だったのかなぁ。でもホントそっくりだったんだよ。格好まで一緒なの」
「双子って話は聞いたことないし、怖いな、それ」
「でしょ!? 怖いよね!」
ストレスのせいだと先輩に宥められ、一度は納得しかけたけど、やっぱり変だ。
あんなリアルな幻覚見るほど追い詰められてはいない、と思いたい。
「災難だったな、可哀想に。理事長には俺も気をつけとく。何かあったら、すぐ相談して」
蒼があんまり真摯に心配してくれるもんだから、全てを打ち明けてしまいたい気持ちがむくむくと湧いてきた。
自分が転生者だってこと。
紺ちゃんも同じで、しかも前世の姉であること。
理事長に似た声が時々聞こえること。
突拍子もないオカルト話を全部。今まで抱えてきたもの、全部。
迷ってる気持ちがまた顔に出たんだろう、蒼は私の手を取り、ぎゅっと握った。
「他にもあるんだな。俺にも言えないこと?」
「……言っても信じてもらえないこと」
「そんなの、言ってみないと分かんないだろ?」
どうしよう。
紺ちゃんがここにいたら相談できるのに、彼女は遠い海の向こうで、帰ってくるのはまだまだ先だ。
彼女の学内コンクールに賭ける尋常じゃない意気込みとか、気になることは沢山あって、それを誰かに打ち明けられたら……とは思うけど、でも『転生』だよ? 普通は『頭、大丈夫?』で終わりだよね。
しかも蒼は、前世ではゲームの攻略キャラだった。うん、そこが一番言いにくい。
「嫌われたくないし、引かれたくない」
「ありえない」
間髪入れず蒼は答え、そして首を傾け、俯く私の顔を覗き込んできた。
「頼む。俺が真白をどれだけ好きか、証明させて?」
大好きな瞳にまっすぐ射抜かれ、私はとうとう心の白旗を上げた。
もういいや。全部言っちゃえ。
隠し事したくないというのは建前で、甘えたいというのが本音。
いつから立場は逆転してたんだろう。蒼の憧れの人で居続けなきゃ、ってずっと気を張ってたはずなのに、いつから。
癒してあげたいと願ってたはずなのに、許され癒されていたのは私の方だった。どんな真白でもいい、と蒼が言葉にし続けてくれたからだ。
「口では上手く説明できないかもしれないし、誰かに聞かれるのも嫌だし、手紙にしてもいい?」
「いいよ。真白に信用して貰えて、めちゃくちゃ嬉しい」
「後悔しても知らないからね」
不安で何度も念を押す私に、蒼は素早く口づけ「絶対だからな」と囁いた。
「じ、じゃあ、さっそく書いてくるね」
不意打ちに恥ずかしくなった私は駆け足で部屋に戻り、扉を閉じてそこにずるずるともたれ掛かった。
甘いリップ音と、色っぽい蒼の表情。
打ち消そうとしても浮かんでくるさっきのキスが、甘酸っぱい感情を巻き起こす。
今、ペンを手に取ったら「好き」しか書けない気がして、気持ちが落ち着くまでその場で悶えることにした。
一人ニヤつきながら足をバタつかせてる、この状況。
誰かに見られたら、今度こそ病院に連れていかれるな。
――『ありえないと思うでしょうが、これは本当の話です。少なくとも私たちは、そう思っています』
そんな書き出しで綴り始めた手紙は、全部で10枚になった。
分厚過ぎて、無理やり押し込んだ封筒はパンパンだ。
夕食を済ませ、食堂から出たところで蒼に手渡し「これを読んでも、まだ私の傍に居てくれるなら、明日電話を下さい」とお願いした。
まるで告白するみたいなシチュエーションで、心臓はバクバクうるさいし、変な汗はかくしで、大変なことになる。
緊張でガチガチに固まった私を見て、蒼は驚いたみたいだったけど「絶対、電話するから」と約束してくれた。
部屋に帰った後しばらく、私は呆然としていた。何も手につかない。
書いちゃった。渡しちゃったよ!
ナハトの前に座り、Cの音を鳴らしては、余韻が消えたらもう一度鍵盤を押す、という作業を繰り返す。
もう読んだかな? どう思ったかな? ああ、気になる!
宿題に煮詰まった涼ちゃんが途中でやってきて、肩を揺さぶってくれなかったら、朝までそうしていたかも。
私がおかしい、という噂はアッという間に女子寮に広まり、部屋のドアノブには沢山の差し入れ袋がぶら下がることになった。
リラックス効果のある飴、安眠のお茶、ストレスを減らすポプリ、とかそういうの。
いつの間に買ってきたんだろう。……もしかして、自分用に買っといたやつ?
ありがたいけど、音楽学校の闇を垣間見た気分。
お風呂でも色んな人に「ゆっくりつかるんだよ」と声をかけられた。みんなも! みんなもだよ!
一睡も出来ないかと思ったけど、朝方うとうとと眠ってしまい、結果、大幅に寝坊した。
差し入れ効果、凄過ぎでしょ。
携帯の呼び出し音で目が覚めたよ。時計を見ると、もう10時。ああ、朝食、食べそびれた。
鳴り止まない携帯を寝ぼけ眼で取りに行き、耳に押し当てる。
「もしもし」
――『ましろ? 大丈夫か?』
聞こえてきたのは蒼の声で、そこでようやく頭が覚醒した。昨日の出来事が瞬時に蘇り、気が動転する。
「だ、だいじょうぶ! 寝坊しちゃっただけ!」
――『なんだ。食堂にもこないから、何かあったのかと思った』
「ごめん、心配させて」
ひたすら謝っていると、窓を叩く音がする。
――『開けて、真白』
まさかと思いながらカーテンを開け、磨ガラスを開ける。
窓の外に立っていたのは、私服姿の蒼でした。




