ジェンダーの問題なのかなあ
岩崎都麻絵「難しいテーマの映画を観たんじゃないですか?」
惠美子「ん~、どうなんでしょう。一応『最後の決闘裁判』はエンタメでしょう? レンタルで観た『SNS 少女たちの10日間』はチェコのドキュメンタリー映画で、夏あたり話題になってましたよね」
都「『SNS 少女たちの10日間』に批判の記事があったわよね? 幼く見える成人した女優を十二歳と偽らせさて、SNSのアカウントを作り、どんな人がどんなふうに接触してくるかの実験なんだけど。まずこれがSNS利用者をだましている、接触した利用者のプライバシーとかナントカカントカ」
惠「女優のアカウントに接触してくる男性が釣りとかフェイクなら悪趣味な映画と断じていいと思いますけど、実際ヘンな男性ばかりが接触しようとしてきたんでしょう? ラストに製作者側が接触してきた男性の家に押し掛けるのはやり過ぎの感がありますが、最初から観ている者には、SNSに登録する少女の育ちや家庭環境が悪いと決めつける男性に対して憤りを感じます」
都「その押し掛けを正義の押し付けと評しているのよ」
惠「世の中様々な意見の人がいるとは解っているのですが、気分のいいものではないですね。
たとえ映画の制作側が偽りを仕掛けてたのが悪かったとして、それでも十二歳の女性がSNSに登録した途端に複数の人間、同世代や女性ではなく(多分存在していたのだろうけど文字が読めないので解らなかった)、年長の男性がばあっと連絡してきて、チャットをしてみたら、いきなり「服を脱いで」と言ったり、興奮状態の男性器を映してみたりするのって、おかしなことじゃないのかしら? パソコンやスマートフォンを操作して対応しているのは十二歳じゃなくても、二十歳そこそこの女性たちです。そして性的な会話やプレイをしようなんて条件の提示は全くしていない。女性側の拒否も同意も確認する気がない」
都「そこが面倒なところ。映画の主題を説明したら観るのをやめる人もいるでしょう。最後まで観るのが辛かった映画よ。異性から性的対象と見られて不快や恐怖を感じた事のある人なら共感できる辛さ。解らない人には一生解らないかも知れない。
暗い気分はやめましょ。ちょっと前になっちゃったけど、コント番組のセクスィー部長や映画『マジック・マイク』のステージパフォーマンスを思い出して明るくなりましょ」
惠「『マジック・マイク』、男性ストリッパーの話ね」
都「そ、話の内容はともかく、観客の女性たちと歓声をあげて、こちらもきゃあきゃあいっちゃいそう」
惠「はは、それも好きな人と嫌いな人と別れそうね」
都「映画の中でも大学の女子寮に出張でストリップパフォーマンスを繰り広げて、女子たちが大歓声で喜んでいるのに、別の部屋で男子寮かボーイフレンドかの面々が心配そうな、嫉妬しているような顔をして覗いていたわね。主人公たち男性ストリッパーを軽蔑、警戒していた。
あんたの旦那もああいうのは好きじゃないとはっきり言っていた。登場人物たちがゲイっぽいとも」
惠「あれはちょっと悪かったわ。
女性も男性の肉体美を楽しんだり、疑似恋愛をお金で買ったりする。男性には面白くもなんともない。アメリカ映画だからって楽しくないんでしょうね。男性が鏡に向かってパフォーマンスの練習している、それも真後ろでオーナー(男性)が体をぴったり密着させて指導する場面、こちらは面白かったんだけど、良人は冗談にしても面白くないと感じたかも」
都「ヘテロセクシャルの男性のホモソーシャル、ホモフォビアっての、あたしはよく解らないのよ」
惠「わたしだって正確には解らない。今更前の世紀の中頃まであった女性に性欲はないなんて信じている人いないと思うけれど、男性と女性の性欲は同じではない、非対称」
都「『最後の決闘裁判』もそんな感じではあるわね。アダム・ドライバーの役は性的同意なんて存在知らないような男性だった」
惠「いや、そもそもその時代にそんな言葉も概念もないでしょ」
都「そうかも知れないけど、一応宮廷風恋愛とか、騎士道恋愛とか語られた中世フランスだからさ」
惠「宮廷風恋愛って言ったって、精神的なものだけで済むわけじゃないみたいだから」
都「ああら、まあ。トリスタンとイゾルデは両刃の剣を間に刺して眠るんじゃなかったの?」
惠「いいえ、マルク王とイゾルデ王妃、トリスタンの寝台の周りにマルク王は砂だか粉だかをまいていたけれど、トリスタンはジャンプしてイゾルデの寝台に行ったのよ」
都「なんだそりゃ」
惠「昔読んだ岩波文庫の『トリスタン・イズー物語』(ベディエ編 佐藤輝夫訳)で、確かそうだったはず。ほかにもいろいろと……」
都「聞きたくない!」
惠「永遠の二十八歳が純情ぶらなくてもいいのよ」




