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記憶と記録

 毎月第一土曜日は錫 蒔隆さんが主催されている『三十と一夜の短篇』に参加し、短篇を発表しております。毎回「お題」が示され、その「お題」に添って短篇を考えます。次回十月二日の発表日のお題は「記録」です。

 どだな話にすっぺかなと思いつつ、図書館で借りた本を読んでギャッ! となりました。うわあ、「追憶」の甘さが「記録」に打ちのめされる小説でした。

『終わりの感覚』、著者はジュリアン・バーンズ、翻訳は土屋政雄、新潮社からの発行です。この本はネットの紹介から知って、手に取りました。バーンズはイギリスのこの作品でブッカー賞を受賞しました。翻訳家はカズオ・イシグロ作品でお馴染みの方ですね。


『学校のことにはあまり関心がない。ノスタルジアなど覚えようもないが、すべては学校で始まったことだから、いくつかの出来事には簡単に触れておく必要があるだろう。その出来事がやがて水増しされてエピソードになりおぼろな記憶になり、時の経過による変形を受けながら、事実になった。出来事そのものにはもう確信が持てなくても、少なくともそれが残した印象を忠実に語ることはできる。というか、私には、せいぜいそのくらいのことしかできない。』


 記憶やそれに作用する時間に関しての呟きがあり、「私」ことアントニー・ウェブスターこと通称トニーの長い語りが始まります。

 悪ぶって教師に反論してみたり、知識を披露するように小難しい議論をしてみたり、友人たちとの楽しい高校時代、友人の一人にエイドリアン・フィンがいました。エイドリアンは文学や歴史に独特の鋭さを見せ、教師も感心しています。そんな中、学校である生徒が亡くなります。死の原因を教師は生徒たちに知らせません。しかし、噂が流れました。ロブソンというその生徒はガールフレンドを妊娠させ、自殺したのだと。女の子と付き合いの経験のない男の子たちは、どんな相手だったのだろうと、ロブソンと親しくなかったこともあって、そちらが気になります。

 やがて主人公トニーはブリストル大学に、エイドリアンはケンブリッジ大学に、ほかの友人たちも別の大学、就職と進路が別れていきます。トニーはエイドリアンと文通を続けました。トニーは大学でベロニカ・メアリ・エリザベス・フォードという名のガールフレンドができました。腕を組んだりキスをしたりはあったけれど、1960年代に青春を送った大学生にしては大人しく、最後の一線は越えずにいました。夏休み中にベロニカの実家にお邪魔させてもらったのですが、そこで彼の女の父や兄ジャックの態度に失望しつつ、母親には好感を抱きました。ベロニカはトニーを実家に連れて行っておきながら、ほったらかしで、父と兄と朝の散歩に出掛け、残されたトニーに「ベロニカに好き放題させてはだめよ」とお母さんがこっそりと言います。

 その後高校時代の友人たちにベロニカを紹介し、交際が続くように思えましたが、別れ、偶然パブで再会して、一回だけベロニカと寝て、結局元の鞘には収まらず、仲は完全に終了。ベロニカの母から別れたと聞いて残念という内容の手紙をもらい、大学の最終学年の時にエイドリアンからベロニカとの交際を許して欲しいと手紙が届きました。

 ベロニカは兄と同じ大学に進んだヤツを選んだんだとか、エイドリアンと会おうとすると彼の女と一緒なのかとか、許すも何ももう付き合っているんだろうとか、もっと整った文章で煩悶しつつ、返事を書きます。大学を出て、トニーはアメリカに長期の旅行に出掛けます。半年ほどアルバイトで食いつなぎながらの冒険をして帰国すると、エイドリアンが自殺していたと知らされます。葬儀は身内だけで済まされていました。遺書には哲学的な言葉が並び、真の意図は読めません。

 時は流れ、トニーは老境に達しました。就職し、マーガレットと結婚し、一女儲けた後離婚し、その後もマーガレットとは友人付き合いを続けています。ほかの学友たちとも消息は続いています。ボランティアをしながら一人悠々自適の暮らしをしている所に、「故ミセス・セーラ・フォードの遺産に関して」と書かれた法律事務所からの手紙が届きます。誰? ベロニカの母親です。ベロニカの母親が亡くなって、遺産五百ポンドと遺品を送りたい旨を伝えています。遺品はエイドリアンの日記です。

 一体何故?

 しかし遺品はベロニカが所有し、渡そうとしません。トニーは法律事務所を通じてベロニカと接触しようとします。トニーはエイドリアンの生きた証を得たい、そして死を選んだ理由を知りたいと強く願い、諦められません。ベロニカへの連絡手段を何とか得て、メールを送ります。「血の報酬」とだけの返信メール、法律事務所を介しての日記の断片と思われるエイドリアンの筆跡の文章のコピー。それだけでは満足できず、トニーはしつこくメールを送り続け、根負けしたと思われるベロニカはトニーに会います。エイドリアンの日記は燃やしたと言い、一通の手紙を渡し、さっさと去っていきます。渡された手紙はトニーのものでした。エイドリアンからベロニカとの交際を許して欲しいと知らされた、返事です。

 エリートを捕まえていい気になっている女だよ、彼の女のお母さんに彼の女のことを訊いてみなよ、とか、勢いに任せて書いています。まあ、別れた女性と友人とを許せない気持ちから出た若気の至りともいうべき内容で、傍から見ればこんな手紙取っておかないで燃やしてしまえばよかったのにとしか言えません。

 掴みどころがないというか、思わせぶりでベロニカは本心を覗かせない女性で、愛し、頼りにするような熱烈さを感じませんでした。彼の女の父も兄も自分を見下していたように思えます。

 四十年も経ってまた謎掛けをしようというのかと、トニーはベロニカに問い続けずにはいられません。ベロニカは車にトニーを乗せ、ある場所に着くと路上駐車します。福祉施設の入所者らしき人たちが介護者と外出しているような光景に出くわします。ベロニカは車を降り、かれらと言葉を交わします。ベロニカは何も説明しません。トニーは何かを悟ります。その答え合わせをしようと質問をしても、「あなたはわかっていない。もうわかろうとしないで」

 しかし被介護者の一人は確かに……。

 トニーの記憶とベロニカの辿ってきた過去は重なり合う部分もありますが、全く違う事実となって積み重なってきた方が多いのです。ベロニカには許せない、裏切られたと感じる辛さの方が大きくて、トニーを恨まざるを得ないのでしょう。また彼の女の兄ジャックの我関せずの態度は元々のようですが、フォード家で起きた事件でそれが増したのでしょう。

 あくまでトニーの一人称の小説なので、エイドリアンやベロニカがどう思っていたのが正確な語りはないのです。ベロニカの若い頃の性格が一種の不思議ちゃんで、トニーからしたら不安にさせるガールフレンドでした。

 トニーからの嫌味たらたらの返事がエイドリアンやベロニカ、そしてミセス・セーラ・フォードの人生を一転させていたのだとしたら……。

 曖昧になり、思い出す度書き直され、忘れるべきは忘れ去られる記憶と、都合の悪い類もはっきりと残されている記録。それが突き合わされた時、どんな苦い事実が存在しているのか……。

「記録」と「事実」の怖さを語る逸品でございます。

『三十と一夜の短篇』にはこれまで戯曲やエッセイ、岩崎都麻絵名義を発表してきましたが、流石に書評で参加はちょっとなあ、と思いますし、これはこれでとんでもない作品を読了したと、今書かずにいられなかったので。

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― 新着の感想 ―
[一言] ジュリアン バーンズ未読です。 恵美子さんの書評だけで、めちゃくちゃ面白そうでした。「記憶」がキーワードはカズオ イシグロを連想させました。つんどくの山を横目に、うーん読みたくなった! 密林…
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