搾取されたのは何か
ピーター・グリーナウェイ監督の映画『ベイビー・オブ・マコン』の内容に触れます。気持ちの悪い話が嫌いな方はご遠慮ください。
この春、映画を観に行きたいなあと思っても、新型コロナの流行があって遠慮していました。やや警戒が薄れた五月末と六月初めに、『最高の花婿 アンコール』と『ミッドサマー』を観に行きました。その際に見た予告編やチラシなどでまた映画館に行きたいなあと、財布の中身などと相談していましたらば、また用心した方がいいような具合になり、行っていません。『カセットテープ・ダイアリーズ』や『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』、『コリーニ事件』に興味そそられましたが、円盤化や何かでのテレビ放送を待つことにしました。
さて、『ミッドサマー』はR指定が入って、性的な部分や残酷な場面が出てきます。後味の悪い、グロテスクな映画と口コミされていますし、わたしもまた怖いと感想を抱きました。
そういえばもっと気持ち悪い映画を観たよなあ、と昔レンタルビデオで観た映画を思い出したのでした。その気持ち悪い映画はピーター・グリーナウェイ監督の『ベイビー・オブ・マコン』。『ミッドサマー』と違って画面は暗く、絶えず神経を刺激するような苛立たしさがありました。
舞台は――と言っても映画は舞台劇を鑑賞している恰好になっています。観客は王侯らしい人から庶民までいます。王侯らしい男性の姿が鬘に化粧なので、ルネサンスより後市民革命の時代より前、だいたい十七世紀くらいかと読み取れます。
ブランコに乗ったミイラかゾンビみたいな男優の舞台口上で、マコンという街は不毛と不妊に長く悩まされている、しかし今陣痛に苦しむ女がいると述べます。そして陣痛にうめく決して若くはない女性と産婆が出てきます。そして男の子が生まれます。産婦の娘、という女優が出てきて赤ん坊を抱いてあやしていると、身なりの良い婦人が通り掛かり、この赤ちゃんにあやかって子に恵まれますようにと話し掛けました。
娘は金儲けができる、弟を自分が処女懐胎で産んだ我が子、聖なる子どもだと言って、お布施を得ようと思い付きます。
思い付きは当たり、娘は我が子として弟を腕に抱き、信者に祝福を与え、沢山の財産を得ていきます。産婆は娘の片棒を担いで話を合わせ、両親は秘密を守る為に閉じ込められます。
これを見ていて面白くないのは当然教会です。劇中も、役として劇に参加している教会の高位のお坊さんは冒瀆ではないかと睨んでおり、お坊さんの息子(どうも舞台の観客の様子からしてカトリック圏のようなのに、聖職者に息子がいる!)は処女懐胎なんて有り得ないと科学信奉者のようで、頭から疑っています。
劇中の娘も娘役の女優も実は玉の輿狙いなのが解ってきます。オハナシの中で娘は本当に処女であると申し立て、家畜小屋で坊さんの息子に確かめてみてと、誘惑します。息子も誘惑に乗ってみせます。ところが赤ん坊が娘に話し掛けます。実際赤ん坊が喋っているのではなくて、後ろで脚本を持った男優が代わりに喋っています。
「処女の身で子を産んだといって崇められているのだから、失ったら聖性の拠り所がなくなるからやめろ」
二人は構わないで裸。しかし、家畜小屋の牛が出てきて、角で坊さんの息子を突き殺してしまいます。息子は血だらけで死に、大騒ぎになって、娘は取り押さえられ、聖母の資格がないと、坊さんが赤ん坊を取り上げます。
今度は坊さんが赤ん坊を金儲けに使います。娘はお布施の代償に我が子からの祝福を与えていましたが、坊さんはドライに赤ん坊の血や涙やらを渡すのです。祝福なんてその場限りのものに比べて、信者の手に残りますが赤ん坊はその分消耗するに決まっています。
娘は赤ん坊が寝ている所に忍び込み、枕を使って死なせます。これが演技なのか、本気なのか、わたしは観ていてよく解らなかったです。
舞台の上に立ってのかぶりつきで、王侯はその場面に涙します。側にいる貴族の女性が言います。
「これは音楽付きの芝居です」
「予が死んだ時も芝居に過ぎぬと言うのか」
もう一人の女性が言います。
「音楽が付いているだけでも感謝すべきです」
奇跡の赤ん坊が殺された、とまた関係者が集まり、娘に裁きを与えようとしますが、処女を死刑にできない決まりがありました。そこで王侯が坊さんに耳打ちします。処女を奪ってから死刑にすればよい。その進言に従って娘を多くの男性の手に任せようとします。娘は悲鳴を上げて、そこで芝居は終わりと娘役の女優は素に戻ります。しかし警吏役の男性が坊さんの言を信じてやってきた男性たちを止めません。娘役の悲鳴が響き続けます。
やがて芝居の終わりを告げ、女優は凌辱を受けて亡くなり、舞台に横たわった三人の姿が並びます。坊さんの息子、娘役の女優、血塗れの二人に対して、眠るように綺麗な顔をした奇跡の赤ん坊。
お芝居の出来事ではなく、本当に人が命を落としたと見せています。
しかし観客は区別が付いていないのか、公開処刑が当たり前で見世物の一種だった時代の延長線なのか、一切嘆いておらず、むしろ赤ん坊の聖遺物を得ようと競売状態になり、赤ん坊はバラバラに切り離されてしまいます。
え? 本当に子どもは死んでいた? 芝居の邪魔にならないようにお酒か薬で眠らされていたんじゃないの? 死んていたとしてもいきなりなんてことを、映画を鑑賞している人間の心理は置いてけぼりです。
幕が上がった時のミイラみたいな口上役が再び現れ、マコンは再び不毛と不妊の街となったと述べます。そして口上役は帽子を取り、芝居を観ていた観客たちも立ち上がり、振り返ってそれぞれ帽子や鬘を取り、本当の観客、つまり我々映画の鑑賞者に向かってお辞儀をします。
これで映画は終わります。
コレハナニモカモツクリゴト。
美しさも何もあったもんじゃありません。家畜小屋の場面は明るく光が差していましたが、ほかは暗い画面です。醜さや卑しさ、愚かしさを強調する登場人物ばかり出てきます。
観るんじゃなかったと、思いつつ、最後まで観てしまいました。
『ベイビー・オブ・マコン』を観ようと思ったのは佐藤健志の評論で、この映画が児童搾取を主題に描かれていると紹介されていたからです。
何が搾取されているのか、再度述べなくてもお解りになると思います。娘も教会も、子どもを利用して金儲けをしていました。娘役はついには自身を奪われました。
何を媒体にして金銭に換えるのか、作り事と現実の区別は付くのか付かないのか、どこまで自身が娯楽に参加していいものなのか、グロテスクで暴力的な画面と共に、精神的にきつい主題を抱えています。
面白いから、好きだから、お金を払っているから、だから骨までしゃぶり尽くして楽しまなくっちゃ損しちゃうじゃない?
そう思いますか?
人間、興奮して感情的になろうとも、どこで踏みとどまるか、試されているような気がして、げっそりしたのは確かです。
ピーター・グリーナウェイの作品で観たのは『ベイビー・オブ・マコン』だけです。『英国式庭園殺人事件』、『コックと泥棒、その妻と愛人』、シェイクスピアの『あらし』から想を得た『プロスペローの本』、平安時代の随筆じゃなくてカリグラフィーが主題の『ピーター・グリーナウェイの枕草子』は観てません。




