天童散策
秋、良人と二人で出掛ける機会が多いです。先月の初めには旅行に行きましたし、この前は姑も一緒に鳴子の間歇泉を見に行きました。現在の大崎市、旧玉造郡鳴子町の鬼首温泉にあります。
昔、長男が高校生時分、鳴子でスキーをすると学校で出掛ける際に、わたしは横溝正史の小説の話をわざわざ出して、「鬼首村で連続殺人事件が」と、ビビらせて遊びました。
NHKBSドラマ『八つ墓村』を解決した吉岡秀隆金田一耕助、磯川警部に誘われて亀の湯に行くなら、次は『悪魔の手毬唄』制作なのか、これは某民放へのエールなのか、挑戦なのか、気になるところです。
あ、今回は鬼首温泉ではなくて、山形県の天童市です。良人からドライブに行こうと誘われて、天童市に行きました。
良人が天童にある広重美術館に興味を持って、是非にというのでの、ドライブコース。
「どうして天童と広重に関係があるのかなあと思って」
むむ、それは山形のわたしの実家に行くとたまに話題に出るのですけどねえ。
「天童の織田藩の藩士と広重がお友だちで、絵を描いてもらって金策に使わせてもらったの。織田藩は二万石で貧乏でお城もなかった」
「えっ、美術館の側に天童城址ってあるよ」
「えええっ! 江戸時代、天童の織田氏は城無しの陣屋の殿様」
「俺は織田氏の城なんて言っていない。ただ地図に城跡ってある」
「ああ、じゃあ江戸時代のじゃなくて、最上義光に攻め滅ぼされた天童氏の戦国時代までのお城の跡なんだ」
「とにかく行けば解る」
と、あまり感心できない会話をしながら、天童に向かいました。まず最初に広重美術館にまいりました。
入場料を払い、受け付けの方から、
「展示室は一階と二階にあります。展示室に入ると灯が点きます」
と説明を受けました。
展示室の説明にわたしが良人に語った内容が詳しく書かれており、「天童広重」と呼ばれるまでになっていたそうです。そこまでは知りませんでした。歌川広重と天童藩士が狂歌のお仲間で、藩医とも親しかった縁で、金策の為の強制的に借り上げしなくてはならなかった豪農や商人にお礼として広重の絵を下げ渡していました。それが「天童広重」。版画じゃなくて肉筆画です。
開国で外国人のジャポニズムや浮世絵ブームがあり、日本でも当然愛好するコレクターがおり、戦災や震災で、元の持ち主の手から離れた広重の絵が多いとあります。
挿絵の入った狂歌の本があり、貼り付くようにして読んでいました。
露草を青、紅花を赤に使っている絵は退色し易いので、お客がいない時は灯を消しておく設備なんですね。展示室に入ったらぱっと明るくなりましたが、それでも調整してあり、やや光が弱かったです。
広重ブルーは浮世絵に詳しい方々には常識なのでしょうが、わたしは初めて知りました。露草や藍は布を染めるだけじゃなくて、絵の具にも使われていたんですね。日本画というと絹地に岩絵の具しか知らなかったけれど、錦絵、浮世絵となるとまた違うんですね。
十八世紀になって海外からプルシアン・ブルーが入ってきて、それを絵の具に使用し始めた、プルシアン・ブルー、プロシアの青、プロシアの首都ベルリンから、「ベロ藍」と呼ばれ、広重ブルーがなんたらかんたら……、世界って思わぬところで繋がっているのですね。
有名な「東海道五十三次」や「六十余州名所図」、などなど見て、眼福でした。
美術鑑賞を終えて、近くに城跡がと良人が言うので、そちらに行きました。
自動車で向かうと山を登り、あり? 舞鶴山公園じゃないですか。やっぱり中世の城郭で、織田氏の城ではないのです。
車を停めて、公園内を見渡し、看板を見ると、やっぱりそうですね。舞鶴山とは鶴が翼を広げたような山だからそう名付けられたと教えられましたが、飛行機も無い時代にどうして山の形が解ったのかと疑問でしたが、今回初めて登って疑問が氷解しました。
主郭があって、その主郭の両翼にまた郭が作られているから鶴に例えられたのではないかと、わたしなりに納得しました。
天童の隣の山形市に住んでいたから、わざわざ行かない名所の一つだったのですが、夫のお陰で、いい勉強になりました。有難う。
中世の城郭後なのに、戊辰戦争で非業の死を遂げた吉田大八の像がありました。これも知りませんでした。見て良かったです。吉田大八の無念の死は語り草です。
人間将棋の会場でもある場所を見学し、ぐるりと回って、城跡を後にしました。




