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違う視点の提供

 随分昔のこと、カズオ・イシグロがノーベル文学賞受賞するよりも前、誰の文章だったか、何処で目にしたのかは忘れたのですが、カズオ・イシグロの『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)についての評論で、ミステリでもないのに、「信用できない語り手」と述べていました。

『日の名残り』は既に読んでいましたが、細部を覚えていなかったので、一人称の小説だったかしら、それならそんな部分もあるのでしょうねえ止まりでした。『遠い山なみの光』(小野寺健訳、ハヤカワepi文庫)にしても、語り手が語らない時代が大きな河のように物語を横切っている印象の作品です。

 全てのイシグロ作品を読んでいませんが、読了した本は、多くの言葉を尽くしながら、語られない背後があり、行間を読む以上の謎が控えていると感じさせます。『忘れられた巨人』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)など、その最もたる作品でしょう。

 最近、北村紗衣のエッセイ『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)を読みました。シェイクスピア作品、フェミニズムについて研究している若手の学者さんだそうです。映画や文学作品を中心にフェミニズム、或いは価値観が年齢や性別で違っていると簡単に解説をしてくれます。その中に、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』がありました。その章のタイトルが『隠れたるレズビアンと生殖』。

 は?

 以下『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』から引用します。


『イシグロは読者に最初から完全な情報を与えず、少しずつ開示していくことで期待を高めたり、不穏な雰囲気を醸し出したりすることに長けた作家です。場合によってはいわゆる「信頼できない語り手」、つまりなんらかの事情でウソをついたり、秘密を持っていたりする語り手を使って読者を混乱させたり、最後まですべての謎を解かなったりすることにあります。『わたしを離さないで』では、このイシグロの意地悪な語りが炸裂します。』


 話の終盤、語り手であり、主人公であるキャシーが共にヘールシャムで育ったトミーを連れて、ある人物の許を訪れます。キャシーたちが「マダム」と呼んでいる女性の家です。北村紗衣はこの「マダム」ことマリ・クロードと、ヘールシャムの教師エミリ先生がレズビアンのカップルだと指摘します。

 また引用します。


『ふたりの関係はあまり明示的に書かれておらず、さらに日本語版の訳書ではエミリ先生がマダムを二度ほど「ダーリン」(‘darling’、原書二五二頁)と呼ぶ箇所がはっきり訳出されていないので、よくわかりにくいかもしれません。ふたりが長年同志として活動して今は同居しているという事実と、エミリ先生の口調以外に、ふたりの間の愛情について詳しく知る手がかりは提供されていません。』


 翻訳によって原書の意味がとらえにくくなる、それは何度か経験していますが、原書であらゆる世界の本を読めるほど、外国語に堪能ではありません。ですから、外国語に精通している学者や文学者からのこういった指摘は新鮮な驚きと喜びが入り混じります。

 キャシーたち、クローンは恋愛感情を持ち、性交渉も持ちますが、不妊であると設定されています。以前わたしが別のエッセイで疑問を呈したように、これはクローン技術の限界なのか、クローンが勝手に増えたら困るとの人間側からの何らかの措置なのか、作品の中では不明です。(クローン人間を誕生させておきながら、デザイナーベビーを拒否するような言説は出てきます。ここら辺を上手く読み取っていかなければならないのでしょう)

 生殖できないクローンであるキャシーたち、そのキャシーたちに教育を施してきたエミリ先生やマダムの二人。どちらも子孫を残せないと設定された存在であると強調されていると、論じられています。どちらも抑圧され、社会から見て見ぬふり、無いように扱われる。エミリ先生とマダムのカップルの扱いがステレオタイプ、男性作者の視点と言えるのか、それとも少数者にも感情があり、人生があるとクローン以外の存在を加えて訴える物語なのか。

『わたしを離さないで』を再読したくなってきました。

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