田辺聖子の古典案内
先日、仙台市内の大型書店に行った時に、レジの側に田辺聖子の『私本・源氏物語』(文春文庫)が平積みになっていました。田辺聖子の訃報も聞いたばかりでしたし、追悼のポップがあったような無かったような……。しかし、なんで『私本・源氏物語』? 田辺聖子の文庫化された作品で、代表作と呼ばれるような本はほかにあるんじゃないの。なんでやねん、と何故か関西弁で、心中で呟いておりました。
『私本・源氏物語』は『源氏物語』のパロディと申しましょうか、コメディ仕立ての小説です。光源氏をウチのタイショーと呼ぶ家来たちの一人が語り手になって、光源氏の我が儘や女癖を面白おかしく綴っております。
『源氏物語』、国文学者や小説家、それぞれ解釈や好きなキャラクターが出てくるのですが、『私本・源氏物語』を読んでいると、田辺聖子がああ、この登場人物が好きなんだなと感じ取れる文章など現れてきます。
『新源氏物語』は須磨から都に帰ってきて、末摘花に再会する辺りまでしか読んでなかったような記憶です。しかし、『私本・源氏物語』は続編も読みました。続編は姫君たちがそれぞれ語っています。須磨から帰ってきて、まだまだモテるつもりの光源氏、十代の姫君たちからはすっかりオジサン扱いされています。女三の宮さん、平気で紫の上と比較するのを言うなと、心中ムカついていました。
ほかにも田辺聖子作品は読んでおります。自宅には百人一首の解説や『文車日記 わたしの古典散歩』(新潮社)があります。実家に『むかし・あけぼの 小説枕草子』を置いてきちゃって行方不明、冲方丁の『はなとゆめ』より読み応えがあって面白かったのになあ(※個人の感想です)と、残念です。でも分厚い本だから、見付かったよと持ってこられても置く場所がありません。
『文車日記 わたしの古典散歩』で『万葉集』を知り、文学史に出てこない古典文学を知り、読書欲を刺激してくれました。
マイナーな古典だと、角川のソフィア文庫にもなくて、日本古典ナントカなんて全集か、国文学者の本格的な研究本とかで、取っ付きにくいのですが、田辺聖子の文章で読むと、すっとその作品世界が想像され、読んでみたいと思わせる魅力を感じました。
『更級日記』の作者と違って、わたしは「まめまめしい」ものが好きなんですけど、本に無心に向かう喜びは幾つになっても味わえます。




