四苦八苦中
それなりに年末年始の準備を進めたり、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た後に自宅にある楽曲やyoutubeを一通り視聴して、ミーハー気分が落ち着き、さて執筆をしましょうとしているのですが、なかなか進みません。
連載物の『君影草』の新章に取り掛かる前に一月五日土曜日の『三十と一夜の短篇第33回』の下書きをある程度しておこうとしているのですが、これが上手くネタを思い付かないので、ノートやパソコンを前にして油汗を流しています。
前回の『三十と一夜の短篇第32回』のお題が「家」でした。
「家」と頂戴しまして、頭を捻って思い付いたネタの一つが米沢藩の「七家騒動」なのですが、これは題材が難しい。なにしろ上杉鷹山が若き藩主時代に譜代家臣からガンガンと責め立てられての君主押し込め(強制的若隠居)の危機一髪だった出来事。とても書き切れません。
で、今回のお題が「辛苦」。年がら年中辛酸であるので、一体何を書いたらいいのかと、逆に迷っております。
上杉鷹山公も「辛苦」の一生だったなあと、家にある「米沢市史 近世編2」なぞをパラパラと捲っております。
上杉鷹山、実は養子です。上杉家って結構養子で家系を繋いでおりました。上杉謙信が生涯不犯の身で実子がないので、養子が二人。姉の仙桃院の子の景勝と、もう一人北条家から。きちんとどちらが跡目と決めないうちに謙信が亡くなってしまったので、「御館の乱」で一騒動。景勝が当主になります。で、景勝が関ケ原で西軍側だったので、会津百二十万石が三十万石に減らされますが、家臣を減らしませんでした。景勝の子定勝が後を継ぎ、定勝の次が綱勝。しかし、綱勝が子どものないまま若死に。綱勝の姉妹の一人が吉良上野介に嫁いでいて、男児が生まれたばかり。綱勝の岳父で会津藩主の保科正之が、その男児を末期養子にとなんとか幕府に認めさせて、上杉家は存続できるも、不手際ありと、十五万石に減封。(跡継ぎを養子に出した吉良家は上杉家を継いだ綱憲の二男を養子にする。赤穂浪士の討ち入りで、実父と二男は落命と幽閉の憂き目に遭う)
綱憲は贅沢だったと言われています。綱憲の次は子の吉憲、その次は吉憲の子宗憲、宗憲が若死にした為に弟の宗房、宗房も早死にしたので、そのまた弟の重定が藩主となりました。
上杉家は十五万石になっても、上杉謙信の家系や百二十万石の威風を誇り、家臣の数も多い。
上杉鷹山公が登場するまでの経過、上杉家が何故貧乏か、必ず語られる内容です。
藩主になった重定もまた贅沢であったと言われています。しかし、重定、なかなか男児に恵まれなかったので、九州高鍋藩の秋月種美の二男直松を養子にします。直松の祖母が上杉家の出身、その縁を辿っています。
ただ直松が養子に決まったら、定重の側室に男児が誕生しますが、養子が決定していましたので、そのまま上杉藩邸に来て、直丸と名前を変えて、将来の藩主としての教育を受けていきます。
重定の側室との間の子どもが無事に育ちそうな年齢になったらば、ほかの養子のクチを探して欲しいとか言っても良かったのに、そんなこともなく、直丸は元服して、治憲と名乗り、やがて家督を継ぎます。
治憲、木綿を纏い、食事は一汁一菜、自ら率先して倹約し、藩内にも倹約、開墾、商品作物の栽培の奨励など、頑張っていきます。
そんな最中の、譜代家臣からの大家の藩主らしくない、無茶な改革で藩政を乱すなと訴状を出されてしまいます。これが「七家騒動」。
重定が藩主の時代に、重定の小姓であった森平右衛門が藩政改革に乗り出していたのですが、どうも上手くいかなかったのと、私服を肥やしている、一族を贔屓していると譜代家臣たちから糾弾され、誅殺されています。重定、亡妻の実家の尾張徳川家に領地返上したいと相談までしていたそうです。
治憲が家臣たちから囲まれ、睨まれている中、家臣が治憲の服を引っ張りました。身分制度がはっきりしている時代には咎めなければならない無礼。そして、重定は治憲が家臣たちに詰め寄られていると聞き、隠居所から駆け付けて、家臣たちに憤り、治憲の味方をして、その場は収まりました。家臣たちには厳罰が下ります。
重定、改革の必要に気付いていても、自分にはその器量がない、だからそれができる人材を信頼して任せようという人だったようです。
治憲はよくできた人物です。はっきりと史料に、現役の藩主である治憲の生活費よりも隠居の重定の生活費の方が遙かに多かったと記されています。親には孝養を尽くす儒教精神から、文句は付けなかった模様です。
治憲改革の途中の三十五歳で重定の実子の一人治広に藩主の座を譲ります。治広は実父よりも養父に似て、贅沢をせずに頑張りました。治憲、治広二代で、米沢藩の借金は無くなり、きちんとした食料を蓄え、天明の大飢饉の際にもほとんど餓死者を出さずに済みました。
治憲、後に鷹山と号します。
鷹山の、「伝国の辞」や「成せば成る 成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬことなりけり」よりも、「受けつぎて 国のつかさの身となれば 忘るまじきは 民の父母」が好きです。
しかし、史料を読むにつけて、鷹山公、立派過ぎて、血の通った人間としての声を探れません。
近世史は専門じゃないし、鷹山の小説はもっと偉い先生が書いているのだからと、逃げます。森平右衛門の存在を知ったのは、今回の収穫。
さて、『三十と一夜の短篇』の33回と『君影草』の続きっと。
参考
『米沢市史 近世編2』
『山形の歴史ものがたり』 山形県社会科研究会編




