政治的に正しい言葉(ポリティカル・コレクトネス)って何?
小学生の一年生の頃の夏休みの宿題で、休み中にどんな本を読んだか、原稿用紙ではなくて、大きめの読書カードに書いて提出というのがありました。自分がどんな本を読んで宿題を終えたかは忘れてしまいました。読書カードは教室の後ろの壁面に一斉に掲示になりましたので、同級生がどんな本を読んだか見てみました。女の子は『ヘレン・ケラー』が多かったのを覚えています。
こんなに何人も読んでいるのだから、どんな内容なのかなと、学校の図書室に行って『ヘレン・ケラー』を読みました。学校にあったのは、修理を重ねに重ねたような古い伝記でした。それを手に取って、学校で冒頭を読み、時間が遅くなりそうなので、借りて家に帰りました。
ヘレン・ケラーの伝記は、だいたい「三重苦の天使」とサブタイトルが付きます。わたしの借りてきた本には、その三重苦の内容を、現在では使っていけない言葉で説明されていました。昭和五十一年のことです。わたしは冒頭部分を読んでいたので、帰宅して、家にいる祖母に、知らない言葉を本を読んで覚えたと教えました。
大正生まれの祖母は、「そういう言葉は使っちゃいけません」と言いました。
幼いながら昔使われていても、現在使用してはならない言葉があると知ったのでした。
その後横溝正史の「金田一耕助」シリーズがブームになって、映像化になりました。よく知られるのが『獄門島』のキーワードが放送禁止用語であることです。市川崑監督の映画ではキーワードが出ましたが、テレビシリーズでは言い換えられたり、そもそもその場面を出さなかったりしていました。平成二十八年、BSNHKで長谷川博己を金田一耕助役にしての『獄門島』では、キーワードも座敷牢もそのまま出されていました。これは地上波でないからなのかどうか、わたしには事情が解かりません。
今では使われない言葉、不適切である為に言いかえられている言葉、さして長くもない生活の歴史の中で思い付く言葉が多々あります。
それで良かったと思う言葉もあれば、わたしは意識が低かったのかと考えさせられる言葉もあります。
英語で人間を表す単語が“man”であると子どもの頃習いましたが、現在はどうなのでしょう? “human”や“person”なのでしょうか?
“man”を「人間」とすると、男性だけが人間のようじゃないかと批判が出てきて、政治的な正しさを鑑みて、“person”を使用するようになってきていると聞き、なあるほどとは思いました。安達正勝の『ナポレオンを創った女たち』(集英社新書)で、フランス革命で人権宣言が議会から提出されましたが、この宣言で「人」を表す言葉が男性を指す単語で“homme”なので、男権宣言じゃないかと述べています。革命が起きた時は男女双方が参加していましたが、法の整備の段階になると女性を締め出し、女性は良妻賢母であるのが務めだと家庭に戻そうとし始めた、所謂「ナポレオン法典」は女性の権利が男性より制限されているのを明文化したものであるとの解説なのです。(本の内容として、ナポレオンは母を始め、女性の影響を強く受けた文学青年であった傾向も解説されています)
言葉は言霊が宿り、天地を動かし、鬼神をも操るもの。不適切かどうか、不愉快に感ずる人がいないかと考えなければなりませんが、かといって何もかも規制したら何も言えなくなります。わたしだって誰かを傷付け、誰かからの言葉で涙を流したのですから。




