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忘れ得ぬこと

 何年か前、確か震災の後だったから五年くらい前になるだろうか。新聞を読んでいて、週刊誌の広告に、「帝銀事件、平沢貞通の養子の孤独死」と載っていた。

 ああ、この人もなくなったのかと、時間の経過のむごさを思った。

 わたしが、戦後の日本の混乱期に起きた下山事件と並ぶ怪事件「帝銀事件」を知ったのは高校生の時、横溝正史の『悪魔が来りて笛を吹く』と横溝正史のエッセイからだった。(下山事件を知ったのは中学生だったか、高校生だったか、とにかく帝銀事件を知るより前だった。それも手塚治虫の『奇子(あやこ)』からだ)

 帝銀事件を知って、その驚きを祖母に話した。しばらく経ってから、祖母が新聞記事を見せてくれた。これが帝銀事件で犯人として捕まった人の記事だよと。

 帝銀事件の犯人として死刑を宣告された平沢貞通の死亡記事だった。平沢貞通は死刑に処されたのではなく、長い年月を拘置所で過し、医療刑務所で病死したのだ。享年九十五。無罪を訴え、それを支援する会があり、度重なる再審請求が行われたが、却下され続けた。

 平沢貞通の養子となった夫婦が再審請求を行ったが、本人が亡くなり、その家族が引き継ぐのは認められないと却下されたと、そのニュースも昭和のうちに耳にした。

 その養子だった人物が亡くなった。それも誰にも看取られず。

 震災前のある日に本屋に行き、『国家に殺された画家  帝銀事件・平沢貞通の運命』(新風舎文庫)を見付けた。この本の著者は片島紀男と平沢武彦との共著になっていた。この平沢武彦が、平沢貞通の支援者だった森川哲郎の息子で、平沢貞通の養子になった人物だった。

『国家に殺された画家  帝銀事件・平沢貞通の運命』を購読し、平沢貞通は冤罪だったのではないのかと、深く感じた。勿論、この本は平沢貞通は無罪、冤罪である立場から書かれているからでもあるが、それだけではない。大正時代、飼い犬が狂犬病になった為に、家族で狂犬病の予防注射を受けて、平沢貞通一人に副反応が出てコルサコフ病になったとある。当時のワクチンのレベルだったからの話ではあるが、コルサコフ病で、記憶力や集中力の低下が出て、画家である平沢の仕事に差支えが出るほどだったという。

 名を知られるようになり、養う家族がいる中、それは家父長としてかなりの重圧、そして周囲から侮られてはならないと焦り、話を合わせたり、嘘を吐いたりすることもあっただろう。

 戦時中は多くの画家の例にもれず、戦意高揚の為の絵を描き、もしかしたら春画を描く、名のある画家としては隠しておきたい仕事に手を染めたかも知れない。

 戦争が終わった混乱期の中起こった帝銀事件、画家に過ぎない平沢貞通が容疑者として囚われ、裁判で犯人とされて、死刑判決を受けた。

 果たして、一介の画家、それも精神状態にかなりの波がある人物に、青酸化合物を手に入れ、大胆にして残酷、詐術で人々に毒物を飲ませて、人々が次々に倒れていく場所で強盗を働く、そんな計画を立て、実行に移す真似ができるだろうか。

 今でこそ帝銀事件は謎が多い、何かの陰謀だろう憶測を呼んでいるが、当時はもう平沢貞通が犯人とされて、平沢の多くの絵画は買い取った人々が隠したり焼却したりと、行方が解らなくなったそうだ。

 支援者の一人の息子が死刑囚の養子となり、無罪を訴え続けながら、自宅で一人で亡くなった事実は、未だ解明せざる謎が幾つも存在していると、闇から手を掴んでくるかのような錯覚に捕らわれそうになる。

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