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ソウキとタズークは公的には三年前の事件から行方不明のままとされている。
その為、リナの王宮での立場は、イェロン・オーバの遠縁の娘というものだ。
貴族の子女が行儀見習いとして王宮に預けられるにしても、リナの年齢では幼すぎる感があったが、オーバの研究棟での惨状は有名らしく、リナが小間使いのように世話を始めても誰も不審には思わないようだ。
オーバと過ごす時間の他、リナはシュナに頼み込んで、こちらの女中見習いのような仕事をさせてもらっていた。
服装もドレスではなく、シュナと同じような動きやすい、前掛け付きの裾の広がった紺のワンピースを貸してもらっている。
最初、仕事を願い出た時には、タズークからリナの事を任されていたシュナは簡単には頷いてくれなかった。
タズークはリナの事を姫のように扱うようにと言い置いていったらしい。
シュナから聞かされた時には思わず赤面してしまった。
タズークの気持ちは嬉しかったが、そんな生活を受け入れるには抵抗がありすぎて無理だ。
リナは一所懸命に、このままずっとソウキやタズークの世話になるにはいかない事、生活できるように仕事を見つけるつもりでいる事、その為に必要な事を学びたいと正直に説明した。
優しいシュナは「リナ様が働く必要はないんですよ。若様もイーザ様もリナ様がお傍から離れていく事を望んでらっしゃらないと思います」と言ってくれたが、リナは彼らに甘えすぎている気がして何かしないではいられない気分だった。
何度も頼み込んで、困った顔をさせてしまったが、ようやく諦めたように了承してくれた。
研究者が泊まり込む事も多い研究棟には、小さな炊事場がある。
そこがリナの主な働き場となった。
シュナから水の汲み方、火の起こし方、食材の名前から料理に使用する調味料の種類など、少しずつ教えてもらった。
料理は専門の調理人が担当する為、シュナ自身もあまり経験が無かったらしい。
立場上、目立ってはいけないと言われたリナは王宮の厨房への出入りも許されず、シュナはリナの為に通っては、学んだ事を教えてくれた。新しい事を覚えるのは何でも楽しいですねと明るく笑って。
親身になって世話をしてくれるシュナは、リナにとってかけがえの無い大切な存在になっていた。
そんなある日だった。
加減を見誤って火に炙られそうになったリナを庇い、シュナが腕に酷い火傷を負った。
「シュナ!」
大急ぎで冷たい水を汲み上げて手拭で冷やしたが、「大丈夫ですよ」と心配させまいと微笑むシュナの顔は苦痛にか引き攣っていた。
―――オーバ様! オーバ様なら良い薬を持っているかも!
泣きそうになりながら、リナはいつも通っている道を全速力で走る。
心の中は後悔でいっぱいで、あんなに酷い怪我を負わせてしまったシュナの事が心配で、泣いている場合ではないのに涙が溢れてくる。
やっと着いたオーバの執務室では、しかし、主は不在だった。
その現実に茫然としてしまったが、そんな時間も勿体無い。
研究棟には他にも研究者たちが多く集まっている。
リナは助けを求めてすぐさま踵を返した。
「何をしている」
聞き覚えのある低い声が降り掛かったのは走り出してすぐ後。
振り返れば、いかつい隻眼の武人が不審げにこちらを見据えていた。
初めて王宮を訪れた時に会った、剣呑な気配を漂わせていた恐い、男の人。
そんな事は今のリナには些細な事で、思わず飛びついていた。
「お願い! シュナを助けてください!」
「…シュナ?」
「酷い火傷、なんです…! お願いします! 私に出来る事なら何でもしますから、シュナを助けて!」
必死で目の前の相手の衣にしがみついた。
眉をひそめて沈黙した男は、振り払うようにリナの手を服から引き剥がす。
見放されたと絶望を感じた次の瞬間、リナは荷物のように男の肩に抱え上げられていた。
「何処だ?」
場所を聞かれて、研究棟の炊事場だと指を差して示すと、セイドは「つかまっていろ」と言い、颯爽と駆け出した。
思いがけない展開に涙も止まってしまう。
その後、セイドはシュナの状態を診ると、王宮の医務室まで彼女を連れて行ってくれた。
幸いにも手当てが早かったおかげで遠からず治るだろうとの話に、リナは安堵してその場に座り込んでいた。
*****
気がつけばいつの間にか、セイドの姿は無かった。
礼すら述べていなかった事に気がつき、リナは次に会った時にはちゃんと言わないとと心に刻む。
シュナは手当てを受けて、医務室で休む事になった。
これから傷の所為で熱が上がるだろうと医者に言われ、自分が側にいれば気遣いを忘れないシュナは充分に休めないだろうと思ったリナは一人、宛がわれた部屋まで戻る事にした。
心配やら焦燥やら感情が激しく乱れた所為か、全身が重くだるい心地がする。
医務室のある区画には初めて訪れた為、道を間違えないように慎重に歩いていると、背後に覚えのある気配がした。
「リナ」
振り返れば、やはりそこには黒のドレス姿のミヤがいた。
「大変だったわね、リナ」
ミヤは不思議な事にリナの事情に詳しい。
先ほど起こったシュナの件も既に知っているのか、気遣わしげな顔をしてミヤが近寄ってくる。
「リナが怪我をしなくて良かった。火傷って焼け爛れた傷が醜くて、なかなか治りにくいものね」
「…」
無造作に言われた言葉に胸が痛む。
シュナは自分を庇ってそんな酷い傷を負うはめになったのだから。もう少し自分が注意を払っていればと、自責の黒い染みが広がっていく。
「あたしならそんな傷、すぐに治せるけどね」
ハッと顔を上げると、目が合ったミヤは嫣然と微笑んでみせた。
「…本当に?」
「あら、あたしが嘘を吐いた事がある?」
「…」
ここは自分が暮らしていた世界とは違う。
魔術も魔物も存在する世界だ。
そういう事もあるのかもしれないと思った。
「ミヤ、シュナの傷、治してくれる?」
意を決して頼んでみると、あっさりとミヤは「いいわよ」と言った。
「ただし」
「…」
滑るようにミヤはリナのすぐ側まで近寄ると、白く滑らかな両手でリナの顔を掬い上げた。
「あたしね、リナの事がずっと羨ましかったの」
同じくらいの背丈だと思っていたのに、ミヤの方が上回っていたのか、上から重なるように覗き込まれる。
「!」
あまりの近さに―――蜜のようにとろりとした声音に、リナは蜘蛛の糸に絡められた蝶のように動けなくなる。
「あたしが魔物だってリナには教えたわよね。異界を渡ってこちらに来たモノがそう呼ばれるという事も。
ね、それって、リナだってそうじゃない。違う?」
「…」
「あたしとリナの何が違うのかしら、ねぇ?」
まるで、誰かに訴えかけるような切実な響きが込められていて、目を逸らせなかった。
魔物。
初対面の王に刃を突きつけられた事を否応なく思い出す。
誰かに危害を加えるつもりなど無かったとしても、リナを悪しき『魔物』と考える人たちがいるのだという事を。
「あたし、リナになりたいわ。ね、いいでしょ?」
軽やかに、何気ない口調で、続けられる。
「そんなの、できる筈が」
「あら、ずっとは無理かもしれないけど、一日くらいはいいじゃない。ねぇ、お願い、リナ」
何処か微妙にリナの返答にずれた答え。
その不調和にさらに重ねるように、ミヤは彼女の耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「お願いよ、リナ。一日だけでいいから。そしたら、シュナって子の傷を治してあげる」
一日だけ。それだけなら。
それにシュナの傷が本当に治るなら、それくらい何でもない事だろう。
―――そう考えてしまったリナは後でこの選択をどれほど悔やむか、まだ知らない。
何故、彼女が限られた人間しか知らないリナの本当の素姓を知っているのかも、目隠しされたかのように思い至る事は無かった。
賽の目は動き出す。何時だって、自分の思うままに出る目などペテンでしか有り得ない。




