第九話「前進」
「ではお二方、こちらの問題を解いてみて下さい」
家庭教師はそう言って問題の書かれた用紙を手渡してきた。
問題は彼女が考えた独自のものらしく、三パターンほど内容が変化する。
この問題用紙も、家庭教師が着ている洋服も、きっと明確な意志を持って選んだのだろう。
しかし人の意思決定は驚くほど曖昧だ。
ほんの些細な思いつきや気分でいくらでも変化する。
他人の人生を俯瞰して見ることのできる私だからこそ気付けることだ。
……嬉しくも何ともないが。
家庭教師からこの日に出される問題のは種類はすべて網羅している。
もう問題を見なくても回答できるほどだ。
こんなはずではなかった。
こんなところでつまづくはずではなかった。
完全に――
「計算外だ」
口を突いて出てしまった言葉に反応したのは、オズワルドだ。
我儘、尊大、世間知らず、女好きの上に泣き虫の称号まで得てしまっている。
やり直しの初期段階で彼への好感度はゼロだったが、この数回でさらにマイナス方向へ限界突破してしまった。
「なんだ? 分からないところがあるのか? だったら僕が教えてやろう!」
オズワルドが得意げに私の問題用紙を覗き込もうと首を伸ばしてきた。
「だいじょーぶです、気にかけていただいてありがとうございます」
その首を掴んで引っこ抜きたい衝動と戦いつつ、にぱ、と微笑みを返す。
するとオズワルドは盛大に舌打ちをした。
「チッ、この僕に教わるという名誉を断るとは」
舌打ちしたいのはこっちだ。
オーガに変身しそうな表情筋をなだめつつ、平静を装う。
「オズワルド様。ソフィーナ様が気になるのは分かりますが、ご自身の問題に集中してください」
「ぐぬ……」
「ソフィーナ様、分からなければいつでも言って下さいね」
「はい。ありがとうございます」
現在、私は一緒に勉強を始めた三日目に差し掛かっているところ。
明日、オズワルドはこの勉強会から逃げ出す。
幾度となく失敗を繰り返したが、対策は十分に練ってきた。
今度こそ、今度こそ成功させてみせる。
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そして翌日。
アレックスとの会話を飛ばし、オズワルドを見つけ出し、一緒に城下町へ繰り出す。
広場で小銭をぶちまけ、誘拐犯に連れ去られる。
ここまでは様式だ。
「う……」
頭の痛みを堪えながら、冷たい床の上で目を覚ます。
避けられると分かっている攻撃を何度も食らうのも、もはや慣れっこだ。
いつもの水車小屋であることを確認する。
容易に変化するものが大半の中、こうして変化しないものもある。
それらを分けるものは、本人の意志の強さだ。
おそらく誘拐犯たちは、あらかじめこの場所で隠れることを決めていたのだろう。
何はともあれ、今はオズワルドだ。
「さて、やるか」
自分の縄を解き、傍に置かれていた木箱を慎重に運ぶ。
これらは後ほど使用するが、オズワルドが起き上がる前に所定の位置に置いておかなければならない。
手足だけを縛られたオズワルドに猿ぐつわをかけ、揺り起こす。
その際、抱き起こすような真似はしない。
あくまでもオズワルド自ら起き上がるまで待つ。
「むぐぅ……むん!?」
喋れないこと。
そして手足を縛られていることに気付いたオズワルドが暴れ出す。
「ほはへ! はんほふほひは!」
オズワルドは何故か私がやったという勘違いを起こし、鋭い目付きで睨んでくる。
耳が慣れてしまい、何を言っているのかも分かる。
……それほどの回数をやり直しているという事実に、少し悲しくなってきた。
「落ち着いてくださいオズワルド様。わたしがやったんじゃないです」
「ふほほふへ! ほはほはひははへへはいははいは!」
「わたしは縄がゆるかったんです。ほら」
自分も同じ境遇だったことを証明するため、私を縛っていた縄を見せる。
「むぬうう、ふっふふははほほへ!」
「しー。あまり騒がしくすると気づかれちゃいます」
「……はひひ?」
ここで誘拐犯と言うとオズワルドはパニックを起こす。
これまでぬくぬくと育ってきた彼にとって「誘拐」という単語はあまりに刺激が強すぎるのだ。
同様に「捕まる」「殺される」なども厳禁だ。
置かれている状況に関しては、オズワルドが自分でその答えに辿り着けばパニックは阻止できる。
「わかりません。けれど外に知らない大人がいて、わたしたちが逃げないように見張っているんです」
「……………………。ほひひむへ、ふふはひはへは?」
「……そう、かもしれません」
他人がパニックになると自分が冷静になるという話がある。
私が取り乱せば、オズワルドは落ち着くのではないか――前々回はそれを試した。
結果、パニックが伝染して余計に阿鼻叫喚の図になったことは言うまでもない。
オズワルドに他人を慮る能力がないことを再確認できただけ良しとする。
「とりあえずケガの手当てをしますね。じっとしてください」
先に拘束を解くと、痛みで大きな声を出してしまう。
なのでこの状態のままで治療を行う。
「ふひぁーっ」
「ガマンしてください。男の子でしょう?」
治療が終わり、少し様子を伺う。
涙目になっているが、パニックにはなっていない。
よし。
まだ拘束はそのままにしておく。
この後の会話で無意識に大きな声を出してしまい、気付かれるためだ。
幸いなことに会話に支障は無い。
「オズワルド様。脱出しましょう」
「ほうはへ?」
「あれを見てください」
私は先程積んでおいた木箱を指差す。
木箱の上、手を伸ばすせばギリギリ届くところに換気用の天窓がある。
子供の大きさなら通れる穴だ。
「あそこを通れば外に出られます」
「はんはははひほほほひほほへふは!」
「じゃあ、あっちにしますか?」
私は水車を回すための水路を指差す。
自分だけが誘拐された時はあそこを通って外に逃げていた。
オズワルドもあの場所を通ってくれるのが一番楽なのだが、我が儘な王子様はぶんぶんと首を横に振る。
「はんはひははひほほほ、ほほへふはへはいはほ!」
「でしたらあっちの天窓を通るしかないですね」
「……」
「ここにこのまま居続ける、なんて言わないでくださいね。敵はなにをしてくるか分かりませんし……」
「……! ははっは、ほほへはひひんはほ!」
私が殴られた額を指差すと、オズワルドは治療時の痛みを思い出したのか顔を青ざめさせる。
必要以上に怖がらせてはならないが、ある程度は恐怖を感じてもらわなければならない。
この案配が非常に難しい。
「では、いまから縄をときます。くれぐれも声を出さないようにしてください。やくそくできますか?」
「ふん」
「おへんじは?」
「……ははっは」
最後に念押ししてから、ようやく拘束を解く。
ここまでは前回の失敗を全て防げている。
問題は次だ。
「ではオズワルド様。こちらから外に出て下さい」
「待て、僕を先に行かせるのか?」
「わたしは手が届かないので……。こっちの水路を使います」
天窓はオズワルドの身長でギリギリ届く場所にある。
当然、彼より低い私では届かない。
「き、危険はないか?」
「大丈夫です。この縄を持ってください」
私たちが縛られていた縄を繋ぎ合わせ、天窓の傍にある棚に括り付けてから端の方をオズワルドに手渡す。
棚は頑丈な作りになっているので、子供の体重なら余裕で支えられる。
縄の長さは少々心許ないが、さすがにこれなら大丈夫だろう。
「本当に外に危険はないか? 僕を騙したりしていないだろうな?」
「不安でしたら、わたしが先に水路から外へ出ていましょうか?」
「バカ! こんな場所に僕を置いてけぼりにするつもりか!?」
「……」
理不尽極まりないとはこのことだ。
しかしちゃんと言いつけは守っていて、オズワルドにしてはかなり声量を絞っている。
一歩前進できていることを実感しつつ、脱出を促す。
「わたしもすぐに出るので大丈夫です。信じられませんか?」
手を、ぎゅ、と握り締める。
他人のぬくもりに触れたおかげか、少し取り乱し気味のオズワルドが落ち着きを見せた。
「……わかった」
「ありがとうございます。では先にどうぞ」
「僕が登ったらすぐに外に移動しろよ!? 絶対だぞ! 嘘だったら婚約破棄するからな!」
……泣き虫のついでに怖がりの称号も付け加えつつ、私はオズワルドを見送った。




