19話 後ろを振り向いてはならぬ。
屋根に雨がぶつかる音だけが部屋に響く――
「んぅ……」
喉からこぼれる吐息の音に、無意識に振り向きそうになった頭を、意識的に全力で固定する。今、振り返るとこれまでの努力がすべて無になる。顔は180度反対側だ。厳守しろ。
耳だけはそちらに向けて、顔は反対側に固定したまま声を掛ける。
「アリス、起きた――」
「あれ、裸……?」
その言葉に、カチンと体が固まる。
「どうして……?」
しっかりしろ。お前はまずいことはやっていないぞ。
「服が濡れていてそのままだと風邪を引くからって、脱がしたのは俺じゃない! ミラが――って、センパイと周囲を見てくるって出て行ったから、今はここにいないけど。ミラが脱がして、俺は、見張りを兼ねて、いや見張りとしてここにいる。ここから一歩も動いていないし、そっちを見てもいない」
ぐだぐだな説明だったが、俺は起こったことはすべて言ったし、何一つ嘘をついていない。正しく説明した。本当だ。
本当に、本当なのに、なぜ俺はこんなにも自信がないのだろう。
アリスがどんな顔をしているのかを見られないから余計に心臓に悪い。
「あの……」
「なに……?」
何と罵られるのかを不安に思いながら、アリスの断罪の言葉を待つ。
「ここは?」
「大渓谷のそばにあった民家。誰も居なかったから借りたんだけど、ここがどこかよく分からない」
「大渓谷?」
アリスがそうつぶやいてからしばらく無言が続く。
「えっ? あなたたちどうしてここに居るの?」
アリスはやっと気がついたのかそう声を発した。
「俺たちは、ルイス・レザリントに送ってもらった。アリスが危険だって聞いて――」
「リルメージュ!」
突然聞こえたアリスの悲鳴のような叫び声と、ベッドから立ち上がる音に、俺は振り向いた。
タオルで肩から下を隠したアリスが、必死に何かを探すように周囲を探っている。
「アリス。落ち着け」
「リルメージュが、私を守ろうと!」
一カ所に固められたスクロールを見つけて、それに手を伸ばそうとしていたアリスの手を、駆けよって掴んだ。
「アリス!」
スクロールに手を届かせようと必死に俺の腕に抵抗しようとする力を感じる。しばらく引っ張り合いをしていると力が弱まって、アリスがこちらを見上げた。
涙で濡れたその頬と、固く結ばれた唇。
「アリス。今は休もう」
「リルメージュ……」
アリスの視線は俺を通り越して、別の誰かの名を呼んでから、アリスは膝を抱えるようにしゃがみ込んだ。
ちらりと見えるアリスの白い背中――その中に浮かび上がる肩の傷跡が、目に焼き付いた。
泣いて、膝を抱えたアリス。そしてその前に立つ俺。
状況としてはそれだけでもまずいのに、今のアリスは、タオルで前を隠しただけというとんでもない格好だ。言い逃れのできない状況に、大きく下がってから後ろを向く。固い地面にすとんと腰を下ろした。
「アリス。リルメージュって?」
ずいぶん待ってから、「ともだち」と涙で引きつるような声が返ってきた。
俺は間に合ったつもりだったけど、間に合わなかったのか――
アリスに謝った方がいいのか、アリスを慰めた方がいいのかわからなくて、結局どちらもできずに俺はただ地面を見つめいていた。
「アリス。俺、これからはずっとここに居る」
ルイスがここに送ってくれたときに『今日だけ』と言っていたし、またこんなことがあるのは俺は嫌だ。あんなものに、アリス一人だけで立ち向かわせるのが、俺は嫌だ。
学院は退学だけど、そんなことはまぁどうでもいい。団長に頼んで騎士団に入れてもらってもいいし、家に戻って兄貴の補佐をしてもいい。できることはいくらでもある。
「一緒に戦うよ」
もう振り向いたらダメな気がして、アリスに背を向けたまま天井を見上げた。
「リルメージュがいないから、私も帰りたくてももう帰れない……」
返ってきたその言葉に、
「じゃあ、一緒にここで――」
そのとき、カタンと物音がして、剣を持って立ち上がる。少し開いた扉の向こうからセンパイとミラがひょっこり顔を出した。
「ミラ。俺たちは盛大に邪魔をしたようだぞ」
「すみません……」
『じゃあ、一緒にここで』――止められなかったら俺は何を言うつもりだったんだと、今更気がついて顔が赤くなる。そのまま、扉を閉じようとする二人を慌てて止めた。
「センパイ待って! さっきのはそう言う意味じゃなくて!」
「じゃあどういう意味なんだ」
「えっと、あの。あー……」
俺を見つめて聖母のように微笑んでいた二人が視線を交わした。
「ミラ」
「はい。兄様」
再び二人が扉に手を向けるので、扉に駆け寄る。
「センパイ、ミラ! 外、雨だから! 雨! 中に入ろう。なっ?」
追いすがって必死に頭を下げると、二人はやっとやれやれと言った顔でこちらに戻ってきてくれた。
「兄様も後ろを向いてください!」
「いや、ミラ別に俺は――」
センパイが苦笑しながら同意を求めるようにこちらを見て、俺の視線に気がついたのか顔が引きつった。静かに俺の横に座って、俺と同じようにアリスに背中を向ける。ダメに決まっているだろう。
センパイと二人して同じ方向を見つめながら声を掛ける。
「センパイどうだった? 誰かいた?」
「民家はちらほらとあるのだが、誰もいない。ライラント領は本当に国境の守備を放棄しているらしい」
「そっか……」
国境守備の放棄――センパイとアリスの話を聞いて、それでも信じられない部分があった。だけど、本当にアリスにすべて押しつけて、騎士団は任務を放棄しているのか。
「デューイ。保存食を見つけたから持ってきた。美味くはないとは思うが食べた方がいいだろう」
「俺が準備するよ。二人はどう食べるかもよく分からないだろう?」
そう言って立ち上がる。保存食はまずいが、まずいなりにマシにする食べ方がある。極力アリスの方は見ないようにして、民家に置いてあった鍋に湯を沸かせて、袋から出した保存食を突っ込んだ。そのまま、どろどろになるまでかき混ぜる。
あのままでは固くて歯が立たない。だけどこれで食べられるようにはなる。
「はい」
器によそったそれを見て、センパイとミラは嫌そうな顔をした。
「アリスの分はここに置いておくぞ」
後ろを向きながら、心なしアリスの近くに器とスプーンを置いてから、元いた場所に戻って席につく。
「食べた方がいいぞ」
そう二人に告げてから、心を無にしてスプーンですくって口に入れて、口を動かす。俺の様子をじっと見ていたセンパイたちは、俺のまねをするように食べ始めた。
「味がしない」
「普段センパイたちが食べてる、あんなにいろんな味のする食べ物の方が珍しいんだって」
俺にとっては寮の料理でさえ、初めて食べたときは結構衝撃的だった。
ただ、腹を満たすだけの食事を終えてから、立ち上がって辛そうに食べているミラに声を掛ける。
「ミラ。アリスにもちゃんと食べるように言っておいてくれ。俺は寝床の準備をする」
「わかりました」
一つしかないベッドはもちろんお姫様たちのものだから俺とセンパイは床だ。少し床の掃除をしてから、元々この民家にあった毛布を床に広げる。
「センパイはここを使ってくれ。俺は入り口で寝る」
「あぁ、済まない。だが俺はしばらくやることがあるから、灯りは付けておくぞ」
テーブルの前に座って、紙とペンを持ったセンパイが何かをやっている。テーブルの上にぼんやりと点る灯りを見つめながら、民家の扉にもたれ掛かって剣を抱えて、俺は浅い眠りについた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物音に剣を握りながら目を開くと、センパイが疲れた様子でこちらに歩いてくるところだった。
「デューイ起きろ」
「なに?」
センパイに返事をしてから窓の外を見上げるとまだ周囲は薄暗かった。寝たような気がするけど、寝てからあまり時間が経っていないのかもしれない。夜明けまではもうしばらくかかるだろう。
「帰るぞ」
「いや、帰るって。どうやって」
俺たちには帰るための足がない。壁にもたれかかりながら、出発は夜明けでいいだろうと寝ぼけ眼でセンパイに笑いかけると、センパイは机の上にあったスクロールを拾って、俺の前で広げた。
「日が昇りきると使えなくなるらしい。その前に試す」
試す……? その言葉に壁にもたれ掛かるのをやめて身を起こす。センパイが広げたスクロールをじっと見た。
少し大きめのスクロール。他のスクロールでは文字で埋まっている中央部分が、このスクロールでは空欄になっている。どこか、つい最近見たようなそのスクロールの前で首を傾けた。
「試すって、それ何?」
「門のスクロール」
門のスクロール。まだ動きが鈍い頭で考える――まさか。
「センパイ。まさかあの一瞬で――」
「俺の前で、5秒以上もスクロールを広げて見せてくれるとは、ルイス・レザリントとは良いやつだな」
うわぁと俺は深く息を吐き出してから下を向いた。
「あのさ。それバレたら怒られるんじゃないか?」
「目の前でスクロールを広げたら、真似されました、か? 誰が信じるんだ、そんなこと。そんな可能性よりも、普通はライラント領のスクロールを俺たちがもらい受けたと考えるだろう。とにかく、まだ使える物かもわからん。だから先に試してみたいのだが――」
センパイはそう言って、斜め後ろに視線をやった。なぜか珍しく何かをためらっている様子のセンパイに、俺もその視線の先を確認するために立ち上がる。
そして見えたのは、ベッドからはみ出たなまめかしい一本の白い脚。
バッと下を向いてから、体の向きを変えて背を向ける。アリスかミラかどっちのものかはわからないが、とにかくあれは見てはいけないものだ。
「アリスティアに使い方を聞きたいのだが、近づいて起こしていいと思うか?」
「だめだろ!?」
服がめくれているのか――それとも、アリスがまだ服を着ていな――
「センパイ。外に出よう」
「なぜだ」
「いいから」
センパイの視線を引きはがすように腕を引っ張って二人して外に出る。そして、中が見えない程度にほんのわずかだけ扉を開いて、外からノックした。
「アリス。ミラ」
隙間から、二人を起こすために声を掛ける。何度か声を掛けると、「あれぇ、おはようございます……」と寝ぼけたミラの声が返ってきた。
「ミラ。アリスも起こしてくれ。準備ができるまで俺たちは外で待っている」
「はい」
ミラの「アリス様、アリス様」とアリスを起こす声が聞こえてきたので、扉を閉めた。
無事に、平和的に任務を達成できたことに満足感を感じながら後ろを振り向くと、センパイが険しい顔で俺を待っていた。
「デューイ。門のスクロールの準備をしたいのだが、入ってはだめなのか」
「だめだ」
俺がそう答えるのがわかっていたのか、センパイは諦めたように肩を落としてから近くの木の下まで移動し、腕を組んでもたれかかった。
扉に背を向けていた俺は、中から聞こえてきたわずかな物音に、邪気を振り払うように腰の剣を抜いて一心不乱に前後に振った。
扉が開く音と、
「おはよう」
その声に振り返る。
「おはよう。アリス」
アリスは俺と目があって、気まずそうに下を向いた。
「あの――」
「アリスティア」
顔を上げて何かを言おうとしたアリスとセンパイの言葉が被さる。アリスと一緒にセンパイの方を向いた。
「門のスクロールについて質問なんだが、あれは出て行く場所を好きに選べるのか?」
急な質問にアリスも驚いていたが、慣れた様子でよどみなく答える。
「それは無理よ。あれはあらかじめ繋いでおいた場所にしか行くことができないわ」
「繋ぐ?」
「門のスクロールには、それ専用の出口が必要なの。門のスクロールとは別のスクロールがあって――」
「あぁ、あれか」
何か思いついたらしいセンパイが、俺たちの隣を通り抜けて、民家の扉に手を掛ける。
「ロデリック、今はミラが――」
センパイが何のためらいもなく扉を開けた向こうで、「きゃぁ」と可愛い悲鳴が上がった。センパイは何も気にせず扉を潜る。
「聞こえていないな。あれは」
きっと自分が目的とするもの以外は、見えてもいない。
「そうね」
隣のアリスも同意してくれた。しばらく二人で閉まった扉を見ていたが、静かになったので前を向く。
「あの……」
アリスが俺に声を掛けてきたので「ん?」と隣を向くと、アリスは言い難そうに下を向いた。何だろうとアリスの言葉を待っていると、しばらくしてから、アリスが突然バッと顔を上げた。
「ありがとう」
「えっ?」
「昨日は助けてくれて感謝しているわ。昨日は……お礼を言えなかったから」
「えっ、いいって」
気にするなと腕を振る。感謝の言葉を告げられるには、俺は昨日の夜――色々と見てしまった気がする。アリスも蒸し返されたくはないと思うから、それ以上ありがとうなんて言葉を一方的に受け取らずに済むように、大したことではないと対応する。
俺の前で、少し小さくなって俯いているアリス。そのアリスの左腕に、ひっかき傷のような傷跡が見えた。
「その傷、どうしたんだ?」
アリスは傷が見えていることに今初めて気がついたのか、右手で左袖を強く引っ張った。だけど、服の袖が短いからか、傷跡すべてを覆い隠すことはできなかった。
「獣型の魔物にやられたの」
「獣か……」
剣と違って獣に付けられた傷跡は、傷口が歪なために治るのに時間が掛かる。その上、治ったあとも、傷跡が引きつる感じがしてかゆくなる。
あの薬まだ残ってたかなと寮の自分の部屋を思い出していると、アリスはくるりと後ろを向いて、民家に戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
外に出てきたセンパイはアリスに話を聞きながら嬉々として準備を始めている。俺は木にもたれ掛かりながら、ぼけーっと二人の様子を眺めていた。そうしていると、のろのろとミラが民家の扉から出てくるのが見えた。
「ミラ。おはよう」
「おはようございます」
ミラが髪のはねを気にして頭を撫でつけながら、こちらに来て俺の隣に立った。
「さっき悲鳴が聞こえたけど大丈夫だったのか?」
俺の言葉にミラは何かを思いだしたのかむっと口をゆがめた。
「大丈夫でしたよ。兄様にとっては私の体など目に入らないご様子で」
あの人は……と頭を掻く。ミラに何か言おうと目を向けると、ミラは珍しく機嫌が悪そうな目でこちらを見上げていた。
「デューイ様。アリス様は柔らかかったですよー」
ミラが無表情に変わった俺の顔を、にやにやしながら観察している。
「ミラ。俺に何を言わせたいんだ?」
ミラはへへーと笑ってから、前を向いた。
「デューイ」
そのときセンパイに呼ばれたので、何やらごそごそと地面に設置しているアリスとセンパイの下に行く。
「デューイ。ここで力を使ってくれ」
「大丈夫なのか?」
「これは、大丈夫だ」
これはって何だ。でもまぁ、アリスも頷いているから、これは大丈夫らしい。しゃがんで地面に置かれたスクロールに手を伸ばす。
「始めるぞ」
二人が大きく下がるのを、悲しく思いながら見届けてから、スクロールに魔素を送った。
スクロールから浮かび上がった魔方陣。それが大きく広がって地面に張り付いた。センパイが地面からスクロールを回収しても、黄金に輝く魔方陣はその場に残っている。
「これ、昨日ルイスが送ってくれた先にあったやつだ」
ルイスが発動させた門の魔方陣に飛び込んだ先には、レザリント侯爵家の配下の人が待っていた。その足元にあったのがこれだ。
「まぁ、そうだが。大きさが違うな」
見た感じ直径が3倍くらいはある。
「まぁいい。デューイ、今度はこちらだ」
まぁいいものなのか……? そう思いながら、それ以上は考えないようにして、丸まったスクロールを受け取る。それを広げて中身に軽く目を通してから、アリスの方を向いた。
「アリス。何か使い方にコツとかある?」
「ごめんなさい。私は自分で使ってみたことはないの」
コツを聞いたって、俺がちゃんとできることもないか。アリスに「わかった」と笑いかけてから、スクロールを左手に持った。
声をかけてから左手に力を込めると、左手にやけに濃い金色の魔方陣が浮かび上がった。少し不思議に思いながらも、杖で触れようと俺が杖を持ち上げた直後、魔方陣が大きく広がって――視界が途切れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
視力が戻ると同時に、俺の方を驚いた顔で見つめるイヴァンと目があう。
「はっ?」
「デューイ。捕らえろ」
センパイの鋭い命令が俺の耳に届く。それに俺の体が反応して、混乱して口を開いているイヴァンを素早く足を掛けて転ばしたあと、心臓を押さえつけるように後ろから乗りかかって膝で押さえた。
「動くな」
そう言いながら、イヴァンの首を右手で掴む。
「よし、いいぞ」
「えっ、はっ何で?」
悪い、イヴァン。実は俺も、状況がさっぱりわかっていない。
何か後ろでごそごそしていたセンパイに太い紐を渡されたので、それでイヴァンの手首を後ろ手に締め上げてから、椅子に座らせた。
「デューイ! 離せ!」
「悪い」
俺にキレているイヴァンに申し訳なく答えてから、後ろを確認する。静かだったが、アリスとミラもちゃんとその場に居た。
「そう言えば、ここはどこだ?」
さっきは外だったのにいつの間にか室内だ。古い作りの小さな部屋。
「恐らく学院だ。そうだろう? イヴァン・オストレル」
イヴァンがセンパイを睨んでから、嫌々そうに頷いた。
「ルイス・レザリントは?」
「坊ちゃまはここにはいない。お前らどうやってここに来た」
センパイはイヴァンの質問には答えずに、椅子に座ったイヴァンを静かに見下ろしてから、その左腰にあるスクロールをすっと抜き取った。
「返せ!」
「やはり、出口側のスクロールは間違ってはいない」
一通り中身の確認をしたセンパイは、スクロールを元通りに丸めてイヴァンの腰に戻した。そして「じゃあなぜだ……」と、目の前のイヴァンの怒鳴り声などまるで聞こえていないように考え込んでいる。
「イヴァン・オストレル」
センパイが考えるのを止めてイヴァンを見下ろす。その瞬間、なぜかイヴァンがぴたっと黙った。
「この質問に答えれば解放してやろう――門のスクロールは使ったことはあるか?」
「ない」
イヴァンとしばらく真面目に見つめ合っていたセンパイは、急に俺を振り返り不気味なほど爽やかに笑った。
「デューイ。イヴァン・オストレルの髪を丸刈りにしていいぞ」
「え? 丸刈り?」
なぜ丸刈り?
「待て! 待てって!」
イヴァンが決死の表情で叫んでいるのを聞きながら、背中からナイフを抜く。さすがにこのナイフでは、綺麗に丸刈りは無理だ。できる範囲でいいのかと確認すると、センパイが頷いた。イヴァンの座っている椅子がガタガタと大きく揺れている――
「デューイ、待ってくれ! あの、あるって言ったら……どうする?」
「イヴァン、嘘をつくときは表情を変えてはだめだ」
センパイはそう言ってから、「使い方を教えてくれ」とイヴァンを見つめて子どものような顔をして笑っていた。
「門のスクロールは、いっぱい出口設置してあったときは、魔素の量を変えて出口を選ぶ――遠いとこはたくさん魔素を突っ込んで、近くのときは少しって感じだな。結構おおざっぱだから、慣れれば難しくはないけど、遠くの場所と繋ぐときはオレなんかは結構疲れる」
出口を選ぶには魔素の量を変える。魔素の量を変える……?
「ロデリック。デューイに魔素の調整なんて無理よ」
「あぁそうだな。だが逆に考えれば、ここで何の調整もせずに門のスクロールを使えば、あの場所あたりに出られるということだ。ここからの往復には支障がないとわかっただけでもひとまずは良しとしよう」
そうねとアリスが頷いている。誰も俺には期待していなかった。
「アリスティアが使えるようにスクロールを改造することも視野に入れておくか……」
そうつぶやきながら部屋を出て行こうとするセンパイを慌てて呼び止める。
「センパイ、イヴァンは?」
「あぁ、もう解放していいぞ。助かった」
考えごとをしながら、そのまま出て行ってしまったセンパイと、その後を小走りについていくミラを呆れて見送ってから、ナイフでイヴァンの手を縛っていた縄を切った。イヴァンは立ち上がって手首をほぐしながら俺を睨んでいる。
「おい、デューイ」
「悪い」
とぼけて笑っていると、アリスが俺の横に立った。
「イヴァン・オストレル。感謝するわ」
イヴァンは俺の隣に立ったアリスの顔を、静かな目で見つめている。
「ライラント侯爵令嬢。オレなんかに礼を言って良いのか?」
「今の私にはなにもないの。礼ぐらいいくらでも差し上げるわ」
アリスはそう堂々と言ってから、扉に向かった。
そのまま出て行くのかと思ったら、アリスは扉の前で立ち止まってこちらを振り返る。
「行きましょう」
「じゃあな、イヴァン。またな」
手を上げた俺に、イヴァンが『くたばりやがれ。このくそやろう』と口だけを大きく動かして答えた。




