忠臣蔵
現代において赤穂浪士討ち入り事件は仮名手本忠臣蔵として広く知られている。
事件発生直後から大衆演芸の歌舞伎や浄瑠璃、狂言、狂歌、講談など、様々な形で取り上げられた。
そして幕府はその度に上演禁止措置を取っている。
仮名手本忠臣蔵は事件の四十七年後に人形浄瑠璃が大阪で上演された。
続いて同年に歌舞伎が江戸で上演されている。
民衆から事件の記憶が薄れるまで、それ程の年月を必要としたのである。
それでも忠臣蔵は絶大な人気を誇り、一つのジャンルとして確立した。
幕府としては頭の痛い事態であっただろう。
その内容はある意味、痛烈な幕府批判になるのだから。
無論、幕府の目を意識して時代設定や登場人物を変えて上演されたがそれでも聴衆には分かってしまう。
どうしても、伝わってしまうのである。
仮名手本忠臣蔵は全部で十一段、全てを上演すると十二時間以上に及ぶ大作である。
後に人気がない段は省略されるようになり、人気がある段や場が抜粋されて上演されるようになった。
道行旅路の花聟(略称「道行」、通称「落人」)のお軽と勘平の場面などはその最たるものだろう。
上方(大阪)と江戸でも上演傾向は違っていた。
和事・世話物を好んだ上方。
荒事を好んだ江戸。
商人の町と武士の町。
粋と粋。
そういった差はあったが、共通する点もある。
両者共に情報の発信地、そして流行の発信地となっていたのである。
殊に江戸は情報発信の中心にならざるを得なかった。
江戸幕府は参勤交代制を大名に課して財政圧迫を強いていたからである。
現代には比ぶべくもないが、江戸で起きた事件は地方に拡散するのは必定であった。
無論、薩摩藩にも伝わっていた。
現代のようなインフラが整備されていない当時にあって、である。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りがどれ程大きな事件であったのか窺い知れるというものである。
民衆は数十年経過しても、そして現代に至るまで、様々な形でこの事件を語り継いできた。
今も胸を打つのは大石内蔵助を始めとする浪士達の苦難の数々であり、武士の本懐を遂げた仇討ちである。
戦国の世が終わり、江戸時代となり、騒乱は止んだ。
その一方で武士道の何たるかを実感する機会のない時代でもあった。
そこにこの仇討ちである。
当時の民衆が拍手喝采して赤穂浪士を称賛するのも当然であった。
現代になっても赤穂浪士討ち入りを題材にした作品が様々な形で世に出ている。
史実でありながら、否、史実であるが故にその魅力は時が移り変わっても色褪せていない。
当時の熱狂が如何なるものであったのかは想像を絶するものであっただろう。




