視線
吉右衛門が善光寺で寝起きするようになって半月が経過していた。
日々の生活にどうにか慣れ、釈真和尚と世間話をする程度には打ち解けていた。
「和尚様は訛り言葉はお使いにならないので?」
「使えるが山右衛門殿がおられるから合わせておる」
「・・・はあ」
「与五郎殿もじゃよ。関所で詮議の際、訛り言葉ではどうにもならぬ故、な」
「確かに」
「拙僧はな、京の都と江戸でも修行しておった」
「・・・ほう」
「与五郎様を始め関所の武士達も江戸屋敷で勤番しておった者ばかりじゃ」
少なくとも釈真和尚とは疑問に思っていた事を問うてみる程度にはなったと思えた。
だからこそ、吉右衛門は自らの出自を話しておきたくなっていた。
「和尚様、拙者は・・・」
「山右衛門殿よ。今はまだ語らずともよいではないか」
「・・・はあ」
(・・・それにしても不思議なものじゃ)
吉右衛門が見る風景は確かに故郷の赤穂と違っている。
それでいてどこにでもあるような田園風景。
なのに今の吉右衛門にはこの世ではないような気がしていた。
そしてそこに住む人々もまた、不思議な者に見えているのであった。
例えば子供達。
赤穂と変わらない、そう見えるが何かが違う。
武士の子であろうと、農民の子であろうと関係なく、剣を学ぶ。
農民の子であれば農作業を手伝うのが普通だ。
そもそも一揆の可能性を考慮するならば絶対に有り得ない。
そんな子供達もどこかおかしい。
腹が空けば食べるものを海で、川で、山で調達してくる。
海や川で魚を獲ることは珍しくないと思うが・・・
山で木の実を集めるだけではない。
蛇を捕まえ皮を剥いで焼き、食べ歩くのも珍しくなかった。
それだけに留まらない。
子供達だけで鹿を獲るのである。
しかも罠を使うのでなく、弓矢と刀を使って、である。
例えば農民達。
脇差しか短刀を帯刀している者をしばしば見掛ける。
足軽か、とも思えたが異なるようであった。
皆、農作業に従事していたからだ。
無論、これは吉右衛門が知らなかっただけである。
兵農分離は江戸時代に入ってより徹底され、武士以外には武装する権利がなかった。
だが、食糧自給率の低い地域では江戸時代を通じて兵農分離が進んでいなかった地域もあった。
薩摩藩もその一つであったのである。
そして武士達。
これが最も不思議であった。
吉右衛門を見る目が、違う。
どこかおかしかった。
不審者を見る目付きではなかった。
それはどこか、あこがれの対象を見る、そんな目であったのだ。
ただ、吉右衛門は常に釈真と共に行動していた。
(儂ではなく釈真様を見ていたのやも知れぬ・・・)
吉右衛門はそう思うようにした。




