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最後の四十七士  作者: ロッド
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薩州島津家

(・・・ここも城なのであろうか?)


 武家屋敷の建ち並ぶ場所を通り過ぎ、小山のような場所に釈真と吉右衛門は来ていた。

 吉右衛門が看破した通り、その小山はかつて上高城と呼ばれ亀ヶ城の支城であった。

 ここからも亀ヶ城の城郭が見えている。


(・・・これは、墓?)


 山を登ってすぐに墓が並ぶ一角があった。

 いずれの墓の前にも花が供えられている。


「・・・薩州島津家、歴代ご当主の墓じゃ」


「薩州・・・島津家?」


 薩州島津家。

 島津宗家第八代当主、島津久豊の次男用久が興した分家である。

 用久は薩摩守を称したので薩州島津家、と呼称された。

 因みに三男の季久は豊州家(豊後守を称していた)。

 四男の有久は羽州家(出羽守を称していた)。

 五男の豊久は伯州家(伯耆守を称していた)を興している。


 この薩州島津家、一時は島津宗家を上回りかねない勢力を保持していた。

 二代国久は島津宗家に叛旗を翻している。

 五代実久は島津忠良・貴久親子と島津宗家の座を巡り大いに争っている。

 ただどちらも結局は講和し、島津宗家に従う形になった。

 但しその島津宗家を継いだ貴久だが島津家の分家である伊作家の出である。

 島津貴久は島津宗家を継いだ、と言うより称したと言うべきであろう。

 否、島津忠良・貴久親子は実力で勝ち取った、と言うべきかもしれない。

 後に薩州島津家七代目当主の忠辰が島津義弘と対立したのもこの辺りが原因であるかもしれない。



(・・・これは?)


 薩州島津家の墓参りを終えた釈真と吉右衛門が更に山を登るとまたしても墓があった。

 ほぼ小山の頂上だが森に囲まれており薄暗かった。


「山田民部有栄(うえい)公・・・いや、山田入道昌厳(しょうがん)公の墓じゃな」


「島津家縁故の方なので?」


「ここ出水郷の地頭じゃったんでな」


「・・・成る程」


「島津家のご家老様でもあった」


 そう言うと釈真は念仏を唱え始めた。

 手を合わせながら吉右衛門は違和感を感じていた。

 家老であったのならば島津家の重鎮なのは分かる。

 何故、薩州島津家の墓よりも高台にあるのだろうか?

 そこが少し気になっていた。

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