幕間:嫉妬の受難・焔《ほのお》-2
詰め込みました。
次回、終章です。
──肉。
肉、肉、肉……。
新鮮で、みずみずしくて、ほとばしるような、肉……。
僕は、なんで肉が欲しいんだっけ?
僕は、なんであの味が忘れられないんだっけ?
僕は、なんでお腹を空かしているんだっけ?
僕は、僕は、僕は……。あ。
イキノイイ、オニクダ──
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
無数の触手が、目の前の獲物へと伸びる。
小さな女の子と、若々しい女を担いだ引き締まっていそうな男。
その形相は必死で、一歩一歩踏み締める地面が少しだけ抉れるほど、力強く遁走する。
だが、いくら日頃から肉体を鍛え、才能も相まって他より頭一つ抜けた戦闘能力を有していたのだとしても、女性二人を担いだ状態で彼の化け物から逃げる事は不可能に近い。
現に口端から泡を吹き、己の体力と筋力と精神力の限界すら突破し、脳に掛かっているリミッターすら外れた所謂《火事場の馬鹿力》を発揮していたにも関わらず、虚しくも触手は彼等に追い付き、敢え無く巻き付いてしまう。
「がっ!? く、そォがぁッ!!」
ヒルドールは二人の女性を抱えている現状、両手が塞がっている。
だが彼は触手に巻き取られながらも可能な限り身体を前傾に落とし、腰に佩ていた剣を自重で地面に落下させるとそれを足でもって思い切り踏み付ける。
すると剣は弾かれたように回転しながら真上へと跳ね上がり、ヒルドールの眼前にまで到達すると宙を舞う剣の柄に噛み付き、口に咥えた。
「ぐぅぅ、り゛ぁぁッッ!!」
そしてあろう事かそのまま全身を千切れんばかりに捻り、自身に巻き付く触手に向かって刃を一閃。
切り裂かれた触手は異臭を放つ鮮血を撒き散らしながら力無くヒルドール達から離れ、その隙に再び彼は全力で駆け出す。
「ああぁぁ……。あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁっっっ!!」
痛みによるものとは違う。宛ら目の前からご馳走を取り上げられた幼子の如き叫声を上げる「暴食の魔王」に、ヒルドールは血走った目で睥睨する。
「うるへぇんだよ、チキショウがッッ!!」
剣を咥えながらの全力疾走は、更なる負担を彼に強いる。
全身は軋み、筋肉が自壊する音と感触が脳に走り、空っぽの体力を自身を貪り捻出して走り続けた。
恐らくこのまま逃げ果せたところで自身は碌な目に遭わないだろう。
運が良ければ寿命を削って走り抜いた代償が後々に響き数日動けなくなるだけで済む。
だがアールヴは人族を仇敵とする種族の掌中。あちらこちらにエルフの兵士が居り、この騒ぎを聞き付け幾つかの部隊がコチラにやって来ているかもしれない。
そんな兵士達に体力を使い果たした自分が見付かれば間違いなく殺される。情け容赦無く、あっさりとだ。
ユーリとハンナも無事では済まないだろう。人族に深く関わってしまった同族を放っておくほど、彼等は温厚でも間抜けでもない。
この先に待っているのは間違いなく地獄。余程の幸運でも無い限り、それは決定的であった。
しかし……しかしそれでもだ。
そんな未来がこの先待っていたのだとしても、あの化け物──「暴食の魔王」に食われるより何百何千倍もマシ。そう、ヒルドールは本能から悟っていた。
アレに食われる事は恐らく、数多ある死に方の中でも最悪中の最悪だろう。
悍ましく、醜く、ただ食欲のみが原動力の根源的でいて冒涜的なあらゆる生命の天敵……。それに喰われる事を想像するだけで自刃して先に命を断ちたくなるような衝動に駆られる。
恐怖、嫌悪、絶望……。アレはそれを調味料に咀嚼を楽しむ最悪の化け物だ。
故に、ヒルドールは己が命を消費してでも走り続ける。自分はともかく、この二人にそんな思いなどさせてはいけない。
「がァァァァァァァァッッッ!!」
死力を尽くし、足を押し進める。
もう何分走っただろうか。
僅か数分か、はたまた一時間以上か。
ヒルドールは一度も振り返る事無く、走った。
走って走って走って走って……。遂に何もかもが出尽くす。
動力を失った人形のように前触れなく前傾姿勢で倒れると、彼は一切の受け身も取れずにそのまま地面に身体中を擦り付ける。全身は擦り傷まみれだろう。
当然、そんな彼が抱えていたユーリとハンナも投げ出されてしまった。
しかし幸いか、この二人は上手い具合に周囲の茂みがクッションとなり、ヒルドールのように無防備に身体を傷付けずに済む。
そしてその茂みに投げ出された衝撃により、二人は殆ど同時に目を覚ました。重い扉でも開くかのように、徐に瞼が開かれていく。
「お、おじ、ちゃん……ぐっ!?」
「『わたし、たちは……がっ!?』」
最初に二人を襲ったのは、痛み。
気絶してしまった原因でもある衝撃による激痛は目を覚ますと同時に覚醒し、身悶えたくなる衝動に駆られる。
だが、そんな事はどうでもいい。
痛みなど、いつかは引いて無くなる。そんなものに構っている暇などない。
今何よりも重要なのは、目の前で倒れ伏し、ピクリとも動く気配のない命の恩人である。
「おじ、ちゃん……。おじちゃんッ!!」
必死に叫び、呼び掛けるユーリ。
幸いに意識はまだあるようで彼女のそんな声に反応を見せるが、それも僅かに指や唇を動かす程度。立ち上がって再び逃げるなど、到底不可能である。
「おじちゃん……っ。おじ──ッ!?」
そんなヒルドールに、何かが降る。
それは粘性があり、薄汚く濁り異臭が鼻腔を刺す液体。
触れる事が躊躇われ嫌悪感を刺激するその液体は、彼の着用している鎧に触れると白色の煙を上げ始め、金属や革製である筈の防具をアッサリと溶解させる。
「あ……あ、あぁ……」
「『ば、ば、け……』」
──気が付けぬ程の隠密性を有していたのか、はたまた目の前の絶望に対し脳が勝手に認識を拒んだのかは定かではない。
ただ、ユーリとハンナの二人はそんな認識する事を本能的に拒んだ大元──ヒルドールの直上にて大口から強酸の唾液を垂らす「暴食の魔王」に、全身の身の毛がよだつ。
「ああああぁぁぁぁ?」
人間の脚力など、高が知れている。
例え優秀な兵士であろうと、才気に溢れていようと。
例え身と命を削りながら走ろうと、限界を突破しながら逃げ出そうと。
世界中を脅かし、寧ろ一転して戦争の減少にすら貢献している真なる化け物に敵う筈がない。通用する、ワケなどないのだ。
そんな簡単に逃げられるのならば、世界は彼の魔王を警戒などしていない。
「ああ、ああぁぁ……。ああぁぁぁ……」
悲嘆の塊のような絶叫ばかり上げていた「暴食の魔王」の声音に、僅かばかりだが喜色が滲む。
短い時間だったとはいえ一度捕らえた獲物を獲り逃がしてしまった……。謂わば食べ損ねたのだ。
それが今は、再び自身の目の前に……。今度は一切の微動だせず、食べ易い程に身を晒した状態で落ちている。
人相など一縷も理解出来ない化け物の顔も、喜色満面に色付くというもの。漸くの食事に、魔王は思わず更なる唾液を滴らせる。
「ああああぁぁ……。ああぁぁぁ……」
魔王の触手が、伏すヒルドールに迫り、絡み付く。
今度は逃さぬよう先程よりも多く、そして反抗されても一切の傷を負わぬよう外皮を《硬皮》によって頑強にし、力強く巻き付けた。
「ぎぃっ、がぁぁっ……っ!!」
触手の力は先の比ではないほど凄まじく、巻き付かれた手足や胴を強く締め付け、鎧ごと容易に何本もの骨をへし折り、内臓を圧迫。
折れた骨が内臓を傷付け、ヒルドールは迫り上がって来た血を咳き込みながら吐き出した。
「お、おじちゃんッ!!」
持ち上げられ口に運ばれようとしたヒルドールの手を、ユーリは咄嗟に掴んだ。
「ユぅ……ユーリぃ……っ!?」
度重なる激痛の嵐で意識が飛びそうになるヒルドールは、己を助けんとする最愛を見遣る。
彼女の表情は複雑だ。
「暴食の魔王」と対面した計り知れない恐怖。
未だ治らない身体の痛み。極限の疲労から来る強い倦怠感。
そして己に降り掛かる数々の災難に対する果てしない虚無感……。あらゆる負の要素を煮詰めたような絶望の表情。
しかし、今感じているどんな絶望よりも、何よりも。
ユーリただひたすらに、ヒルドールを失う……。それだけが怖かった。許容出来なかった。
「おじ……おじちゃん……っ!!」
「ば……か、オマエ……。逃げ──」
「ヤダッ!! おじちゃんと離れたくないッ!!」
「──ッ!! だ、けど、このまま、じゃ……」
ヒルドールの身体が、彼の手を掴むユーリごと持ち上がる。
当然だ。鍛え抜かれた男の肉体を容易く押し潰すような膂力を発揮する魔王の触手に、齢五つの少女が引き戻せるワケがない。
何なら魔王からしてみれば何の抵抗もなく、寧ろオマケに活きの良い柔らかい肉まで付いてくる。それだけでしかない。
「ああ、ああぁぁぁ……」
ただ幸いに、魔王の触手は徐だ。
「暴食の魔王」という名は伊達ではなく、あらゆる〝食〟に対して極めて強欲を発揮する。
今の彼は少しだけ苦労して捕まえた獲物を雑に頬張り砕くのではなく、宛らテーブルマナーでも真似るように口に運ぶまでの時間を堪能。
手中のご馳走を最大限美味に味わう為、その挙動は遅々としていた。
それ故に、一足早く間に合った。
「──!? これ……痛み……傷がっ!」
ヒルドールの全身から痛みが引く。
それどころか身体中の傷という傷が立ち所に癒えていき、内臓や骨も締め付けられている関係上全快とまではいかないが、致命傷一歩手前にまで回復し始める。
「な、にが──ッ!!」
原因を探って見回したヒルドールの視界に、ハンナが映る。
魔王を目の前にし半ば心神喪失に追い込まれていた彼女であったが、自身より遥かに幼いユーリがヒルドールに駆け寄った姿を目の当たりにし、何とか立て直したのだ。
そして自身の今出来る事を考えた。
一刻を争う数秒の間に、限界まで頭を回転させて考えた。
『私に……私にしか出来ない、事をッ!!』
そうして至った最適解……。己が〝聖母〟と過大評価された精神性とそれを成せる唯一の術……《回復魔法》を。
「は、ハンナ、さんッ!!」
「『は、早くそこから抜け出してッ!! 私が、回復させてあげられてる間にッ!!』」
とはいえ、ハンナの魔法の才能は平凡。魔力の総量もここ最近の多忙で多少成長しているものの特別多いわけでもない。
外傷ならば巻き付いているだけの今ならば一度癒せば済みはする。
だが持続的な骨折や内臓の損傷、そこから発する激痛を和らげるには彼女ではあらゆる面で力不足であり、そう長くは癒し続けていられない。
そしてそんな自身の不甲斐なさを叫ぶハンナにエルフ語を解さないヒルドールは眉を顰めながらも、やる事を直感的に悟る。
「抜け出し──って、固くて、どうにも……」
「……」
「ゆ、ユーリ……? とりあえず危ないから、一旦離して──」
「……なんで」
「え?」
「なんで、アタシを遠ざけるの?」
俯いていたユーリが顔を上げると、その目には暗闇が染みていた。
「な」
「アタシが役立たずだから? ただぶら下がるだけで、何も出来ないから?」
「そ、そんな事言ってな──ってか、今はそんな場合じゃ──」
「アタシはあの人より役立たず……。あの人よりあの人よりあの人より……」
「ゆ、ユーリ?」
「アタシは……。アタシ……違うっ、イヤだッ!!」
少女の顔が、歪む。
私欲に塗れ、感情の制御を手放し、心胆から湧き出るドス黒いものに全てを委ねた、そんな少女とはかけ離れた醜く歪んだ表情に……。
「──ッ!?」
「アタシが……アタシが役に立つんだッ!! あんな人じゃなくてアタシがッ!! おじちゃんの一番に役に立つんだッ!!」
『──うふふふふふ。見ぃつけた……』
「……ああぁぁぁ?」
口腔に収まる直前。魔王は思わず怪訝な声を漏らす。
それが同胞の気配を察知して出したものなのか、はたまた自身の力が抜ける感覚への戸惑いだったのかは定かではない。
だが、そんな戸惑いの直後に訪れた衝撃──頑なに締め付け、もう二度と逃さぬと強く決意した筈の触手の拘束が緩み始め、折角のご馳走が逃げようとしている状況に、先の怪訝などアッサリ吹き飛ぶ。
「ああぁぁぁッ! あ゛ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
再び上げる、悲痛な叫声。
鼓膜を汚し破らんばかりの声音と声量にヒルドール達は苦悶の表情を浮かべるが、今は聴力を失う事に係っている場合ではない。
何故か力が弱まった今ならば、このまま逃げられる可能性も極小ではあるが先程よりは上がっているだろう。
今三人は、それに賭けるしかないのだ。
「あ゛ああぁぁぁッッ!!」
無数の触手が、三人を襲う。
「はっ! バカの一つ覚えだなぁっ!」
ハンナのおかげで限界突破した体力も多少は回復していたヒルドールは、再び二人を抱えて走り出した。
だが彼とて理解している。このまま同じように限界を越えて身体を酷使したところで追い付かれるのが関の山だ。
自分達があの化け物から逃げ切るには、もっと他の方法で奴の気を逸らさなければならない。
(くっ……。ちぃと心苦しいが、コッチに来てるだろうエルフを囮に使うしかねぇっ! 奴に特別俺達にこだわる理由が無い限りは有効な筈だっ!)
ヒルドールは心を鬼にし、エルフを身代わりにして逃げ切る算段を付けた。
恐らく、ハンナからは軽蔑されるだろう。
珍しく人族に友好的な人を失望させてしまう事になるかもしれない。
ユーリからも、もしかしたら信頼を失うかもしれない。簡単に切り捨てる人間だと、判断されてしまうかもしれない。
けれども今はそんな道徳を優先している場合ではない。自分達の命が懸かっているのだ。
今ここで無惨にも食い殺されるくらいならば、後々に一生残る後悔をした方がマシだ。
命さえあれば、何度だってやり直せるのだから。
「ユーリ、ハンナっ! お前達には悪いがこの先に居るかもしれないエルフの兵士を犠牲に──」
言い訳のような言葉を吐いている最中だった。
「──ッッ!?」
突如、自分達の上空から幾つもの影が差す。
その影たちは次第に輪郭を露わにさせながら三人に向け落下してきており、目端でそれを捉えたヒルドールと抱えられているユーリとハンナは悪寒を感じながら空を見上げた。
そして──
「ユーリッ! ハンナッ! 伏せろッッ!!」
「「──ッ!?」」
殆ど放り投げるような形でヒルドールは二人を地面に置くと、目一杯に二人を抱き寄せながら覆い被さる。
そして数秒もしない後、ヒルドールは絶叫した。
「ぐ、がァァァァァァァァッッッ!!?」
「お、おじちゃんッ!!」
「『ヒルドールさんっ!?』」
二人から心配の声が上がるが、彼はそれどころではない。
「ぎィィィィッッ、ぐゥゥゥゥッッッ……!!」
先程の触手による締め付けの痛みなど、可愛いものだった。
骨が折れ、内臓が傷付くより遥かに強い激痛が今、彼を苛んでいたのだ。
金属製の鎧を容易く貫通し、悠々と肉体まで到達するだけの鋭利さを誇るそれが豪雨のようにヒルドールの背中に降り注いでいるが、それだけならばここまでの激痛にはならないだろう。ヒルドールならば、いくら受け止めても持ち直す事が出来る。
そう、それは普通の飛び道具ではなかった。
「『な、何、これ……』」
「ギザギザした、歯?」
それは、夥しい数の乳白色をした鋭い剣歯だった。
側面にノコギリのような無数の返し刃が林立し、加えてその表面からは極めて毒々しい液体が染み出している。
それ等がヒルドールの身体に深々と突き刺さる事で身体中に無数の穴を開けながら傷口と体内を液体が侵し、得も言われぬ激痛を齎していた。
「ぐ、ゥゥゥゥ……」
ヒルドールの背中から嫌な臭いの煙が昇る。
剣歯から染み出した液体──それは単なる激痛を起こす毒ではなく、強力な酸性を誇る〝胃液〟から精製された溶解液だった。
ヒルドールは今、そんな万物を溶かし尽くす「暴食の魔王」の溶解液に晒されている。
「おじちゃん退いてッ!! このままじゃおじちゃん死んじゃうッ!!」
「ゔゥゥゥゥ……。だ、い、じゅうぶ、だァァ……」
絞り出すように強がるが、彼の顔色は一切血の気を感じさせない蒼白。
背中は爛れるどころではなく最早抉れ、一部では皮膚や肉がズリ落ち、背骨や肋骨の一部が露出し始めていた。
「『ヒルドールさんッ!!』」
そんな彼にハンナは《回復魔法》を試みていた。
しかし魔王の溶解液は容易に彼女の魔術の効果を上回り、治した側からそれを打ち消す以上に溶けていく。
彼の身体が今もなお原型を留めているのは彼女のお陰ではあるが、それも長くは持たないだろう。数分もしない後にハンナの魔力は枯れ、溶解液はあっという間にヒルドールを……。
(あぁ……これ、は……)
流石のヒルドールも、察した。
そして今しかないと──ハンナの回復でなんと持っているこの瞬間しかないと、決意する。
「……ユー、リィ……」
「な、なに、おじちゃん……」
「い、いままで……ありがとう、なァ……」
「おじ、ちゃん……?」
「おれ、に、とって……おまえは、しあわせの、しょうちょう、だった……。ひからびてた、おれのじんせい、を……おまえが、うるおして、くれた……。おまえは、おれの、たからものだ……」
「や、やめて……やめてよおじちゃんッ!」
「だ、から……おれは、おまえに、いきて、ほしい……。きれいじゃなく、ても……ズルくても、いいから……。おまえが、いままでのぶん、とりもどせるくら、い……じ、ゆうで、わがまま、に……」
「おじちゃんッ! おじちゃんッッ!!」
「おれの、ぶんも……しあわ、せに……」
それは、とても儚い願いだった。
このまま魔王が自分に釘付けになって、自分を食べて。
その間に逃げて、隠れて、どうか生き延びて欲しい。
その為ならばこの身など、一縷も惜しくはなかった。
「ハンナ、さん……」
「『ヒルドール、さん……。ごめんなさい、私……私……』」
「なかないで、くれ……。すま、ないが……ユーリを、たの、む……」
「『ヒルドールさん……』」
「このこを、どうか、しあわせ、に……」
次の瞬間、ヒルドールの身体から力が抜け、彼の身体が二人に凭れ掛かる。
それを泣きじゃくる二人が優しく受け止めると、目の光が少しずつ薄れ始めながらもヒルドールは最期に、笑う。
「はは……。かぞくを、まもって、しぬの、も……。わるくない、な……」
「おじちゃん……」
「ユーリ……。あいし、て……る……」
ヒルドールの身体が、ほんの僅かに軽くなる。
二人に寄り掛かるそれに、もうあの男は居ない。
「ああっ……ああぁぁぁ……」
現実が、少女を刺す。
「ああああァァァァァァァァァァァァッッッ!!!!」
少女の悲鳴が、森中を響き渡る。
「ああァァァァッッ!! イヤ、イヤァァァァッッッ!!」
木々を揺らし、空気を震えさせ、絶望が蔓延した。
「ああぁぁぁ?」
その叫びに、魔王が躙り寄る。
宛ら己の叫声のように悲嘆が煮詰まった声に、「暴食の魔王」は初めて食欲に並ぶほどの興味を惹かれたのだ。
だが、そんな 已己巳己を感じているのは、彼だけである。
「く、るなぁ……」
「ああぁぁ?」
「来るなバケモノォォッッッ!!」
怨嗟。
憤慨。
悲嘆。
数え切れない負の感情が爆発し、目の前の異形の怪物にぶつける。
「ゆ、ユーリちゃんっ!」
怪物に激昂するユーリを嗜めようとするハンナだが、その言葉は今、彼女には届かない。
「お前がァッ! お前が殺したんだァッ!! おじ、おじちゃん、をぉ……。返゛せェェッ!! 返゛せよォォォッッッ!!」
ユーリが魔王を、その細腕で殴る。
何の意味も無い。寧ろ殴るユーリの拳が痛んでしまう。そんな弱々しい抵抗。
「お゛前ざえ゛ッ!! お゛前ざえ゛いなければッッ!! お゛前ざえ゛お゛前ざえ゛お゛前ざえ゛お゛前ざえ゛ッ!! お゛前ざえ゛ェェッッッ!!」
──しかし。
「あ゛? ああ、あぁ?」
魔王は殴られる度、感情をぶつけられる度に、自分の力が弱まっていくのを感じた。
まるで自分の中の何かが書き変わるような、上書きされるような、塗り潰されるような、そんな悍ましい感覚。
否定され、拒絶され、否認される……。
彼女の都合の良いように、彼女がそう望むかのように、彼女が認めぬように、押し付けられる。
「あ゛、あ゛、ああぁぁぁぁぁぁっ!?」
そして同時に、魔王は抗えなくなっていた。
己が力で無理矢理にこの場に留まっていたが、彼に施されている封印は決して彼を逃しはしない。
それこそが、かつての勇者が命を賭してまで結んだ封印なのだ。
その身体はユーリに殴られ力が弱まっていくに従い、いつの間にか開いていた次元の裂け目に引き摺られていく。もう、時間なのだ。
「あ゛ぁ、あぁぁぁぁぁぁッッ!!」
狭間に引っ張られる身体に抗い触手を伸ばす魔王だが、伸ばせども伸ばせども狭間に吸い込まれ徒労に終わる。
数分としない内に体の半分、全体と飲み込まれ、最後は実にアッサリと、泣き叫ぶ頭部が呑まれ……消えた。
あれだけの威容と異様。あれだけの恐怖を孕んだ存在が、己が飛び散らした数え切れぬ剣歯と溶解液を残して跡形もなく、消え去ったのだ。
「……」
ユーリは怪訝で、何一つ納得のいっていない渋い顔をしながら魔王を殴り付けた拳に視線を落とす。
この時点で、ユーリは理解していた。
土壇場で己の中に降って湧いた、如何ともし難い力……。
決して喜ぶものでも、ましてや歓迎すべきものでもない。
何とも醜く、何とも人らしく、何とも自分らしい欲望の片鱗……。最愛を失って得た、忌まわしい力。
「『……ユーリ、ちゃん』」
数刻前とは雰囲気の違う幼き彼女に、ハンナは恐る恐る歩み寄る。
彼女としては、死に際にヒルドールに頼まれた事を全うしたいと思っていた。
自分にヒルドールの代わりなどは出来ないだろう。だがこれでも一子の母親だ。ダークエルフだろうと関係無い。息子も新しい妹が出来て──
「ねぇ、ハンナ」
「──っ! な、なに?」
「アタシ──私のお願い、聞いてくれる?」
振り返ったユーリの顔に、さっきまでの子供の面影は、無かった。
「お願い?」
「うん。あのね──」
ユーリがハンナに抱き着き、そして囁いた。
最愛の人から願われた、最期の望みを。
「私をこんな目にあわせた人族を、全員殺すの」
「──ッ!?」
その瞬間、ユーリはハンナに新たに得た力──ユニークスキル《嫉妬》を発動する。
「私はね。もう我慢しないの。ワガママになるの」
「あ゛ぁっ!? あ゛ぁぁぁっ!?」
ハンナの中の記憶、人間性、意思……。その全てが書き変わっていく。
「だからね? 私より幸せな人族をいっぱい、私より不幸にするの。私が満足するまで、全員、不幸にするの」
「ぐぁぁっ!? や、やめ……」
ユーリの思いまま、ユーリの望むまま。
従順で、裏切らなくて、絶対に自分を見捨てない。そんな、都合の良い最悪の形に……。
「ハンナは付いて来てくれるでしょ? おじちゃんが、そう言ったんだから。ハンナは私のために生きてね」
「あ……。ああぁぁぁ……」
ユーリがハンナを離すと、彼女はゆらゆらと幽鬼のような覚束ない足取りでふらつく。
だが少しすると唐突にハンナは背筋を正し始め、光を失った眼を湛えながらユーリに傅いた。
「仰せのままに、何なりと……」
「うん。よろしくね。じゃあまずは……」
ユーリは目端に映った美しい光に目を向け、見上げる。
そこでは黄金色の葉を太陽のように冠し、どんな木々よりも太く天を衝く大樹にしてアールヴの象徴「霊樹トールキン」が聳えていた。
「……まずはお家、欲しいな」
「はい。かしこまりました」
「うん。じゃあ、行こっか」
──その後、ユーリとハンナはヒルドールの死体と共に姿を消す。
その身を闇に潜め、己を磨き。
様々な試練と苦難に耐えながら力を身に付け、《嫉妬》によって自身の都合の良い環境を少しずつ少しずつ構築し。
とうとう引き篭もっていた実の父親である当代皇帝を暗殺せしめ、自身の存在と血の正当性を側近の認識ごと書き換えていった。
こうしてユーリはアールヴの正統後継者として皇帝の座を簒奪した。森精皇国史上、最悪の皇帝が誕生したのである。
__
____
______
ユーリは、「霊樹拝礼の間」に存在する祭壇に歩み寄る。
そこには自身よりも大きな木製の棺が鎮座されており、彼女はそれに縋り付くようにして座り込んだ。
「……おじちゃん。アタシ、間違ってないよね」
ユーリはヒルドールの遺言通り、ワガママに生きてきた。
気に入らない者を屠り、都合の良いものに書き換え、燃え尽きぬ復讐心に煽られて国すら道具にして好き勝手に壊した。
だが、流石のユーリも理解している。
ヒルドールが自分に望んでいた事が、こんな凄惨なものではないことを。
きっと普通に生きて、当たり前にワガママで、望んだ通りの平和な、どこにでもいる女の子として生きて欲しかった事を。
しかし、それはもう叶わない。もう、引き返せない。
自身の復讐心は未だ衰えず、人族に対する怨嗟と嫌悪は止まず、自身より幸せな他者にどうしようもない妬ましさが絶えず、湧き続けている。
このどうしようもない欲望と渇望が、今を望んだのだ。彼女自身が、望んだのだ。
「おじちゃん、アタシ──」
棺を開けようとした直後、彼女の側を何かが過ぎた。
それとほぼ同時……ユーリの唯一の希望であった棺が──干涸び、ミイラと化したヒルドールの遺体が弾け飛ぶ。
「…………」
言葉が、上手く出なかった。
だが、その後に聞こえた〝声〟に、体温が上がる。
「最後だというのに何を感傷に浸っている? 随分とまぁ──」
「き……き……」
「可愛いらしいじゃないか。ユーリ?」
「ク、ラウン……ッッ、き、さまァァァァァァァァッッッ!!」
長くも短い、人森戦争の終幕……最後の戦いが始まった。
ユーリがハンナと共にアールヴの頂点に座する話……。今回は端折りましたが、いつか書いてもいいかもですね。
まあ、そんな暇なんて無いかもですし、望まれるか分かりませんが……。




