幕間:嫉妬の受難・焔《ほのお》-1
色々と情報整理を兼ねた内容もあるので分割します。
廊下に、ユーリの靴音のみが響く。
長く螺旋状に上方へと伸びる道は薄暗く、壁に等間隔に黄金色の輝きを放つ燭台が並んでいる。
──アールヴに聳える霊樹トールキン。
その樹上最奥には、皇帝以外の進入が禁止された二つの聖域が存在する。
ユーリはそんな聖域の内の一つ「霊樹拝礼の間」に向かい、脚を進めていた。
「……」
彼女の表情は、非常に暗い。
様々な感情が彼女の中で渦巻いているが、何よりも今の彼女の思考を掻き乱しているのはつい先程クラウンに言われた二つ──
『私が知る限り、お前にとってもハンナは五十年来の付き合いだった筈だ』
『お前は、そんな旧知を捨ててまで何を望む? 何がお前をそうも駆り立てる?』
(……ハンナ)
この戦争に於いて、ユーリは幾度も感情を揺さぶられてきた。
その要因の殆どがクラウンによるものであるが、何よりも彼女を狼狽させたのは彼によるものではない。
何を隠そう、ハンナによる裏切りであった。
(……なんで、お前は……)
ユーリは、理解出来なかった。
クラウンが言ったように、ユーリにとってハンナは唯一、自身がアールヴの皇帝になるより前から側に侍らせていた存在。
自身のスキルで一部記憶を弄り、自分に都合の良いように改変していたとはいえ人間性までは手を出してはいない。
故に元々の彼女の〝聖母〟とまで称されていた博愛主義な所はそのままの筈であったのだ。
そんな彼女が自分を裏切り、たかが十五年世話をしただけの人族などに絆された……。その理由を、意味を、ユーリは全く理解出来なかった。
「……なんで、いつもいつもいつも私ばかり奪われて、憎い奴ばかりが良い思いをするだっ」
拳を廊下の壁に打ち付け、ユーリの中に一つの感情が渦巻く。
それは普段、彼女自身が頼らぬよう強い意志で蓋をし、それでも抑え切る事が出来ずに時折僅かばかり漏れ出る彼女の中の最も強い感情。
これからプライドを捨て、意志も意義も捨て、何もかもを捨て。
自身の全てでも敵うかも分からない仇敵にぶつける為に解き放つ、重く這い寄る毒のような感情……。
「アイツばかりアイツばかりアイツばかりアイツばかりッ!! 私の──アタシのもんまで獲りやがってッ!!」
『うふふ』
脳内に、微笑が響く。
「妬ましい妬ましい妬ましいッ!! アイツから、今度こそ全部奪ってやる……ッ!! アイツのもん壊してッ! 消してッ! 変えてッ! メチャクチャにしてやるッ!!」
『うふふふふふ』
「もう、何もッ! アタシから奪わせるかッ!!」
忌まわしい記憶に、嫉妬の笑いが絡み付く……。
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「いやーっ! ホンット、助かりましたっ! ありがとうございますっ!!」
──アールヴ、西側広域砦内の空き部屋。
そこには軍内で〝聖母〟と称される博愛の女性エルフ族──ハンナと、彼女の計らいにより砦内に招き入れて貰った人族の元兵士ヒルドール、そしてそんな彼に拾われ育てられたダークエルフの少女ユーリの三人が居た。
そんな中、ヒルドールは招き入れてくれたハンナに対し誠心誠意の感謝を述べながら深々と頭を下げる。
「あのまま追い返されてたら俺達、多分色々大変な事になってた。本当に感謝しているっ!! この恩は一生忘れないっ!!」
ユーリを救うため身内に近かったアパノースを斬り、自軍の兵達に脅しまで掛けたヒルドールは最早ティリーザラの反逆者。捕まればその場で斬り捨てられるか、捕縛された後に極刑は免れないだろう。
かと言ってサバイバル知識や野草の知識が皆無に等しいヒルドールとユーリにとって、大陸の西側の広域を覆う大森林──グイヴィエーネン大森林を有するアールヴを無闇矢鱈に逃げ回るのは自殺行為だった。
故に唯一の頼みの綱であるアールヴ軍に拾って貰ったこの状況は二人にとって僥倖と言えよう。
「そんな、感謝、しなくても、大丈夫、ですよ」
カタコトながら人族語を話せるハンナは、少しだけ照れ臭そうに頬を染めながらヒルドールに頭を上げるよう促す。
「それより、このあとは、どう、するんですか?」
「あ。い、いやぁ、それはぁ……」
当然の事ながら、ヒルドールとユーリに今後のプランなど皆無。
着の身着のまま天運に任せアールヴにまで来たものの、だからと言って自分達が安全な身の上になったわけではない。
ただ最低最悪の状況を最悪にまでなんとかギリギリ押し上げる事に成功しただけで、絶望的な状況である事には変わりないのだ。
何せ、二人が今居るのは現在進行形で殺し合っている敵軍の前線──その砦の中に居る。今はハンナに匿われる形で身柄が一時的に保証されているが、それも長くは続かないだろう。
可能ならば早急に指針を固め、この場を離れなければならない。
「と、とりあえずは食料と水だけありゃ暫くは大丈夫だろうが……」
それも一時凌ぎに過ぎない。
これからヒルドールとユーリが二人で生きていくには、最低でも定期的に食料と水を確保出来る手段と知識が必要になってくる。
だがここは言葉も通じぬ外国。無計画なまま自活していくには余りにも難易度が高い。
少なくとも地元の人間──エルフ族の手を借りなければ無謀だろう。
と、そこまで考えたヒルドールがチラリとハンナの方を流し目に見ると、彼の言いたい事を察したのか、慌てた様子で首と両手をを横に振る。
「ダメ、ですっ! 私、夫と、子供、いますっ! お世話、できま、せんっ!」
「あ、いやっ! 世話してもらおうだなんてそんな烏滸がましいっ! ……ただ」
「は、い?」
「そ、そうだっ! せめて何か食べられる植物の事を教えてくれっ! 欲を言えば山菜や果実が自生してる場所……それから飲める水場なんかあれば──って、それは欲張り過ぎか……」
色々と列挙し、だが流石にそんな都合の良い場所などあり得ないだろうと悟ったヒルドールが途中で言葉を区切り、自重して苦笑いを浮かべる。
が、そんな彼の言葉にハンナは数秒だけ時間を要した後、一つだけ思い当たる場所がある事を思い出した。
「あ、あの。一つ、あります」
「──ッ!! ほ、本当かッ!?」
「は、はいっ! 霊樹トールキンから北東に、湖が、あります」
湖の名をエスガロス湖。直径三百メートル程にも及ぶ大型の湖であり、その周囲を白く小さな花弁を持つ花──アルフィリンが咲き乱れている風光明媚な景色を彩る湖だ。
「へぇー、そんな場所が……」
「はい。湖畔に咲くアルフィリンの地下茎は、食用にもなって、やり方次第では、様々な料理を、作れます」
「成る程なぁ……。あ、でもそんな綺麗な場所だと見付かっちまいそうだな……」
「安心して、下さい。アルフィリンの花粉は、私達エルフ族にとって、とても有害に、働きます」
アルフィリンはその地下茎の汎用性の高さから、数千年前まではエルフ族の常用食でもあった。
しかし多くのエルフ族がこれを森中から収穫していき、あわや絶滅寸前にまで至った頃、その時を境にアルフィリンの花粉がエルフ族に対してのみ有毒性を発揮し始めた。
学者曰く生存本能からくる種の進化なのでは、という説がエルフ族の中で一般化しているが、事実は不明。
以降は観賞用としても側に置けない事からアルフィリンが自生する近辺は接近禁止区画に指定され、余程必要に迫られない限りはエルフ族は近付けないし近付けないという。
「おお……。そんなら運が良けりゃ暫くは隠れれそうだなっ! 本当、恩にきるっ!」
「私は、案内出来ません。なので、地図と、道中の、食料と水を用意します。後は、自分達の力で、お願いします」
「そこまで……。い、良いのか?」
余りの厚意にヒルドールは感動し、横で趨勢を見守っていたユーリもそんな聖母然としたハンナに目を丸くする。
しかし、これは何も善意からくる施しだけというわけではなかった。
「私、一時的に、責任は取れます。ですけど、長くはありません。余り長くは、お世話出来ないんです。ので、可能ならば、早く、旅立たって頂く、必要が、あります」
裏で悪事を働いているこの砦の責任者も、いつ戻ってくるか分からない。
今この時ならばハンナがヒルドール達の処遇を自由に出来るが、責任者が戻りヒルドール達が見付かれば否応無く処断が下される事は必至。
ハンナとしても全権を任されているとはいえ人族とダークエルフのコンビを一時匿っている所を見られたらば、いくら聖母と囃し立てられていようと立場が危うくなる。
周りの者達も今ならば見て見ぬフリを貫けるだろうが、責任者に直接見付かってはどうしようもないだろう。
ヒルドールとユーリの二人は可能ならば一刻も早くこの場を離れる必要があった。故にハンナは早々にこの場を離れられるよう手厚く施しているのだ。
「そう、だよな……。アンタにも迷惑掛けるんなら、出来るだけ早く離れた方がお互いのためか」
「……おじちゃん?」
「情け無い話だけどお言葉には甘えられるだけ甘えよう。その上でなるべく早くここを出て行く。それで大丈夫か? ユーリ」
「アタシは……。うん。おじちゃんがそう決めたなら」
「そっかっ! なら悪いけどハンナさん。当面の食料と水だけ──」
言葉を紡ぐ最中。突如として砦中に轟音が鳴り響く。
頑丈な筈の石壁は音を立てて揺れ、頭上からはパラパラと小石程に欠けた天井の一部が落下した。
「な、なんだッ!?」
「お、おじちゃんっ!!」
「『これは……一体何ッ!?』」
明らかな緊急事態。これにハンナは即座に立ち上がると部屋の扉に手を掛け、二人に振り返る。
「様子、見てきますっ! ここに、居て下さいっ!」
「い、いやでも……」
「下手に動けば、混乱しますっ! ですので、二人はここで──」
直後だった。
気が付けば三人は大小様々な瓦礫と共に宙へと投げ出され、先程よりも大きな轟音と全身を叩く衝撃が突如として襲来。
何が起きたのか皆目見当も付かず、徐々に迫り上がってくる身体の痛みと、共に飛ぶユーリとハンナの姿だけがヒルドールを打ちのめした。
「がっ……あ゛ぁっ……!?」
ヒルドールは咄嗟にユーリに向かって手を伸ばすと何とかして服の裾を掴み取り、力の限りを振り絞って己へと引き寄せて彼女を包みこむようにして抱き抱える。
次の瞬間、ユーリを抱えたヒルドールとハンナは強烈に地面に叩き付けられた後に数回バウンド。
一緒になって飛ばされていた瓦礫に巻き込まれながら地面を滑るようにして漸くまともに着地する。
「ガハッ!! ガッ……あ゛ァァァァ……」
全身を駆け巡る激痛と突然に降り掛かった衝撃にヒルドールは混迷を極める。一体自分達に、何が起こったのか?
「あぁ……あっ……、ああああああああああああああああああああッ!!」
「──ッ!?」
それは、悲鳴だった。
だが単なる悲鳴ではない。
人が──生き物が全ての悲嘆、悲痛、悲観を煮詰め、押し固め、練り上げたものをあらん限りの力を使って吐き出し続けているような、想像を絶する……絶望をありったけ詰め込んだような悲鳴だ。
ヒルドールはそんな自分の感情まで汚染されそうな悲鳴の発生源に目を向ける。向けてしまう。
そこには──
「あ゛あ゛ぁぁ……。ああああああああッ!!」
「なん……だ、ありゃぁ……」
無惨にも半壊した砦、その周りを血と臓物で汚すエルフ兵士達。
そんな凄惨な現場の中央。あらゆるを踏み躙るようにして余りにも悍ましい化け物が、その巨大で長細く、限界まで裂け不揃いな牙が並んだ口を天へと向けて絶叫していた。
「……っっ。う、そ、だろ? まさか──」
大きさにして数十メートル。
剥き出しの筋肉や内臓が出鱈目に混ぜ合わされたような禍々しい肉塊の体に、無数の手や足、顔面部位の各種が不規則に散らばった極めて醜悪な外見。
そんな紛う事なき化け物が、身体中からは血管のような触手が身体中から伸ばし周囲に散らばるエルフ兵士達の死体を絡め取っては次々とその巨大な口の中に放り込み、咀嚼し始める。
その様は正に「食欲の醜神」……。食べる事への極限の執着を体現する、食の絶対暴君。
そう、それこそが──
「ま、魔王……「暴食の魔王」ッ!?」
「あっ……、ああああああああああああああああああああッ!!」
耳を劈く甲高い悲鳴が森中を谺する。周囲に死体が無くなったからであろう。
まるで空腹である事に絶叫するようなその声に、ヒルドールは身を震わせた。
先程ヒルドール達を襲った砦を半壊にさせる衝撃も、この「暴食の魔王」によるものに違い無いだろう。彼が砦内に居る重傷人達の匂いを感じ取り、暴れたのだ。
しかし、問題は何故に唐突にこのような化け物が出現したのかだが……。
(な、んで……。なんであんな化け物がここにッ!? まさか──)
──「暴食の魔王」はかつて、「節制の勇者」の手によって彼女の犠牲の元に次元の狭間にその身を縛られ、封印された。
が、「暴食の魔王」の力は彼の飢餓感と止めどない食欲によって強増されてしまう為、次元の狭間にまで死の香りが漂うほどに地上に死体が集中してしまうと、一時的に狭間から姿を現してしまうのだ。
戦争などその典型。故に世界共通の認識として、戦争に対しては消極的な姿勢でいる。
それでも戦争を起こすならば、「暴食の魔王」が嗅ぎ付けぬよう死傷者を可能な限り出さぬ事と、死体は即時処分する事を何よりも徹底しなければならない。
故にアールヴ軍は国中から《回復魔法》の使い手を掻き集め、ハンナのような敵兵に対する治療にすら目を瞑っていた。
しかしそれでも、目の前にこうして彼の魔王が出現してしまったという事は──
(まさか……魔王が出るほどの死体が放置されたのかッ!? どっちのせいか知らねェけど何考えてんだッ!!)
実際にこの時、戦場は混迷していた。
気位の高いエルフ族を圧倒し始めていたティリーザラ軍の魔導士達は、まるでエルフ族の高慢さが伝染するかのように不遜な程に増長してしまい、非戦闘員である市民にまでその凶刃を振り下ろしていたのだ。
そのせいで本来なら節制されていた筈の死体が集中的に量産されてしまい、結果「暴食の魔王」によって嗅ぎ付けられてしまった。
正に人族の業が産んだ災厄と言えるだろう。
だがそれだけならば、まだマシだった。何せ当の魔王が出現したのは、ヒルドール達のいた西側広域砦の向こう側──ティリーザラ方面だったのだから。それならば被害を受けるのは寧ろティリーザラだったであろう。
だが、魔王は今まさに西側広域砦の門の内側を陣取っている……。何故そんな事になっているのか……?
「──? あ、アレは……?」
ヒルドールは目端に映る、一つの人影を眼にする。
それは何故か開けられていた砦の門が閉まる最中……。魔王の背後に、何とも形容し難い複雑な面持ちのまま踵を返し、悔恨の背中を見せ走り出す一人の男の姿だった。
そしてヒルドールは、そんな男の姿に、見覚えがあった。──いや、ティリーザラに於いて彼を知らぬ者など一人として居ないだろう。
何故なら彼は──
「フラクタル……キャピタレウス、様?」
その姿は紛う事無きティリーザラの最高戦力。
世界に「最高位魔導師」の称号を轟かせる魔法魔術の最高権威にして、当代人族の勇者──「救恤の勇者」……フラクタル・キャピタレウス、その人だった。
「そんな……彼が、この魔王を、嗾けたのかッ!? いくら敵国だからって、そんな事……」
「救恤の勇者」であるフラクタル・キャピタレウスは、誰もが認める人格者であり真っ当な善人として知られている。
多少意地の悪い所はあるものの、その内に秘めるユニークスキル《救恤》の影響によって人間性は善性へと大きく偏っており、例え敵であろうと非道な行いは決してしない。そういう、人物であった筈だった。
だがこの時よりも数刻前──キャピタレウスは単独でアールヴを裏で牛耳っていた当代「嫉妬の魔王」ゴルマリード・ハヤシンスレッドを相手取り、辛勝を勝ち取るも《嫉妬》の権能により《救恤》を消し去られてしまい、その善性を失っていたのだ。
そしてそんな善性を失ったキャピタレウスは、目の前で出現してしまった「暴食の魔王」を目の当たりにし、最悪の作戦を想起し、実行に移した。
それが「暴食の魔王」を誘導し、西側広域砦の内側へ閉じ込めてティリーザラを守りアールヴへ大打撃を与える……。そんな残忍極まる作戦であったのだが、そんな事情をヒルドールは知る由もない。
「──っ!! こ、こんな事してる場合じゃねェっ! ゆ、ユーリッ! 大丈夫かユーリッ!!」
目の前の怪物に呆けている暇など無いことを思い出し、ヒルドールは自身の懐にいるユーリに必死に声を掛ける。
だがユーリは先程の魔王による衝撃の時点で気絶していたのか、大きな怪我は無いが魘されるように呼吸を繰り返している。暫くは目を覚まさないだろう。
「くっ……。は、ハンナさんッ!」
次に彼が心配したのは恩人のハンナだ。
しかし彼女は自分のように鍛えた戦士でも、ヒルドールのように身を守ってくれる相手もいない。
それ故に彼女は衝撃に吹き飛ばされた際に瓦礫や地面に強かに身体を打ち付けたのか、身体中に傷を作りながらヒルドールから十数メートル離れた位置でうつ伏せになり、倒れている。
「ち……クショウがァッ!!」
未だにヒルドールの全身は激痛が苛んでいる。
僅かに身を翻すだけでその痛みが精神を音を立てて削り、脳内の理性が必死に「身体を動かすな、休め」と信号を発していた。
が、そんな理性を、ヒルドールはそれを遥かに上回る激情で捩じ伏せ、歯を食いしばりながらユーリを抱えて身を起こす。
「が……あ゛あ゛ァァァァッッッ!!」
偏に、愛する者を救う為に……。
「ゆ、ユーリ。少し、雑になっちまうが、許してくれよ?」
気を失っているユーリに無理矢理笑顔を見せ、ヒルドールはユーリを担いで逃げようと動き出した。
「う、うぅん……」
「──ッ!?」
──ここが、ヒルドール達にとっての分岐点だった。
「は、ハンナ、さん……」
ヒルドールは、ハンナを見捨てるつもりだった。
今のヒルドールにとって何より大切で、最も優先度の高い目的は自分とユーリが無事にこの場から逃れる事。
恩があり、稀に見る善人であるハンナではあるが、それを差し引いたとしても自分達の無事より優先する理由にはならない……。ヒルドールは冷徹にも非情に徹し、そう内心で判断していた。
後々それを後悔しようと、それをユーリに責められようと構わない。自分達が無事でいる以上に大切な事など無いのだから、と……。
だが、それを……そんな非情を唯一支えていた「ハンナが気を失っている」という事実に、ヒビが入ってしまう。
彼もまた、根っからは善人なのだ。
『ダメ、ですっ! 私、夫と、子供、いますっ! お世話、できま、せんっ!』
「……〜〜あ゛ぁっ!! クッソっ!! 俺のバカヤロウっ!!」
ヒルドールはユーリを担いだまま、走る。
薄らと目を開け、意識がハッキリしだしたハンナの元へと駆け寄り、彼女を半ば強引に抱え起こした。
「『あ、アナタ……は……ごふっ!?』」
「取りあえず喋んなっ! 後ろにバケモンがいるんだっ! 今はとにかく走って逃げ──」
そう、このとき。この僅かな時間が全ての悲劇の引き金だった。
宛ら表面張力で何とか溢れる事がなかった盆の水が、その僅かな時間という一つの水滴だけで瓦解し、溢れてしまうように。
彼等の運命はこの瞬間、無惨にも溢れ始めてしまったのだ。
「あ゛、あ゛ぁぁぁぁ……」
魔王の目が、新鮮な肉を見付けた。




