第九章:第二次人森戦争・後編-26
「……」
クラウンさんが、私の元から去って行く。
私が言った事とはいえ、あの人が私から離れていくのを見送るのは寂しいものがある。
だけど少し安心するのは、その後ろ姿が後ろ髪を引かれているって分かる事。クラウンさんも、私から離れ難いって思ってくれていると思うと、あの人には申し訳ないけれどつい微笑ましくなってしまう。
クラウンさんを本当の意味で安心させる為にも、私は私の〝目的〟を果たしてちゃんとリンドンを倒して戻らないと。
私のせいで世界が滅ぶなんて、流石に駄目だから。
「『ちょ、ちょっとアンタッ!!』」
「?」
「『あの人族の男どこ行ったのよッ!? 姿消して奇襲だなんてアタシには通用しないわよッ!?』」
「『……あの人なら先に進んだわ』」
「『なっ!?』」
「『探しても無駄。あの人が本気で隠密に徹したら、味方以外でそれを見付け出すのはそれこそ英雄並の能力でないと不可能よ』」
今でこそ直接戦闘力に重きを置いているけれど、クラウンさんが最初に身に付けたのは隠密系のスキルだもの。その熟練度は本職の人達すら及ばない。
専門家でもないリンドンに、あの人は見つけ出せない。
「『……で? アンタは何? まさか見捨てられ──』」
「『本当にそう見えていたなら節穴ね。人族語が分からなくても雰囲気で何となく理解出来ているでしょう?』」
「『チッ……。って事はつまり? アンタみたいなガキんちょが、このアタシの相手をするってわけ? 一人で?』」
「『そうなるわ』」
「『はんっ。随分とまぁ……』」
リンドンは私を見て、侮っている。
でもそれは決して私の戦闘能力を軽んじているわけじゃない。彼女自身、自らの直接戦闘力が低い事くらいは分かっている。
彼女が侮っているのは、自分の戦法を破れるような相手かどうか……。それが私には無いと判断しての侮り。
多分何らかのスキルで自分の弱点を突く能力を相手が持っているかどうか、それを見破る事が出来るんだと思う。
そして彼女の反応を見るに私にはそれが無い……。
本当ならその時点で苦戦を強いられる事に動揺する所だけど、今は違う。
何せ私の目的は〝リンドンの術中にハマる事〟なんだから。
「『……はぁ。まぁいいわぁ……。代わりにアンタの事ボコボコのボロボロにして、あのドブカスにその痴態を晒し上げてあげるッ!!』」
リンドンから殺気と闘志が湧き上がるのが見える。クラウンさんに鍛えて貰って以来、信じられない速度で数多くのスキルを手に入れたけど、《殺意感知》と《闘志感知》でこうやって敵の戦意が見えるのはやり易い。
だけどいくら戦意が上がっても私から攻めなきゃ向こうは仕掛けられない。私が口火を切ってあげるっ!
「『──っ!!』」
細剣を抜き放って駆け出した私に、リンドンは警戒の色を顔に滲ませる。
だけど私が何の策もなく真っ直ぐ突っ込んで来ると悟り僅かに口角を上げると、その両手に握られた鉄扇を優雅に頭上に構え、しゃなりしゃなりと舞を踊り始めた。
そして私が突き出した細剣をその軽い身のこなしで交わすと、リンドンの本領が発揮される。
「『惑いなさいッ!! 自我も意識も白濁して、霧に溶けて仕舞いなさいッ!!』」
瞬間、私達の周りに突如として〝霧〟が発生する。
恐らくさっき湧き上がってた殺意や闘志に紛れて周囲に魔力を散布してたんだと思う。そして広げた魔力を利用して《霧魔法》を発動させた。
そうする事でノータイムで霧を周りに展開させられる……。やっぱりその手のプロは発想が違う。
──と、関心している間に広がった霧はあっという間に真っ白な濃霧へと密度を高めていき、手が届く範囲に居たはずのリンドンの姿があっという間に霞んでしまった。
「『うふふふふ……。《霧魔法》の魔術「白霧の舞踏界」は白痴の濃霧……。何もかも曖昧になって、自我を手放して仕舞え』」
──《霧魔法》……。特性〝漠たる〟を有するこの魔法は、その状況下に在る者のあらゆるを曖昧にする。
五感のどれかだったり、自我や意識だったり、敵味方の認識や言語だって魔力の質と含有量次第で惑わせるとても厄介な魔法。
攻撃性は皆無だし、他の魔法に比べて周囲に広がる範囲と密度が遠大で濃密な分かなり制御と維持は難しい。
一般的な使い方は範囲と密度のどちらかに特化させて牽制程度の役割を長時間全うさせるか、局所的に濃霧を作り出して短期的に相手の感覚や能力を惑わせるかの二択になる場合が多い。
けど、リンドンは違う。彼女の場合はそれを自身の舞踊と鉄扇の内包スキルで両立させられる。
広範囲且つ高密度の漠たる濃霧……。集団戦は勿論、単騎戦でも高い効果を発揮して敵を瞬く間に無力化する圧倒的な制圧力を誇る戦法。
そして何より、リンドンの濃霧が厄介極まるのはその曖昧にする対象……。彼女の場合は五感や意識でも、ましてや自我でもない。
彼女が曖昧にするのは……〝記憶〟。
「──ッッ……」
それを認識したからか、私は頭の中に違和感を覚える。
痛みも苦しみも無い……。けれども漠然とした違和感と焦燥感が頭の奥から湧いて来る……。
「わた、しは……あれ……?」
だけど、なんで違和感を感じて、なんで焦っているのか、わからない。
自分がなんで霧に包まれて、なんでここに……。あれ……ここは、どこだっけ……。
私には、昔の記憶が無い。思い出せない。
と言っても、それに悩まされる事なんて殆どなかった。思い出せない記憶は四歳よりも前のもので、普通に生活して歳を重ねていけば覚えている方が珍しい。そう、私の育ての親におばあちゃんに言われた。
だけど時々私は、おばあちゃんに頼りにされない事に過剰反応してしまい、おばあちゃんに迷惑を掛ける事があった。多分、その思い出せない記憶のせいだと思う。
大切な人、大事な人、身近な人……。その人に頼られない、期待されないという状況に、私の頭と心はどうしても耐えられない。
おばあちゃんの役に立てて、頼られて、必要とされる。
それが私の当たり前で、私の生きる指標で、私の存在意義……。そうでないと不安で怖くて、私は絶望してしまう。私の意思や意識に反して……。
そして今ではおばあちゃんの他に、クラウンさんという同じくらい大切で大好きな人と出会えた。
あの人は時々私を心配して安全な場所に置いておこうとするけれど、基本的には私を傍に控えさせてくれて、頼ってくれる。本当に、本当にありがたくて、居心地が良い。
多分私が彼の心配から遠ざけようとしている事に猛反発するのも、思い出せない記憶に由来するんだと思う。彼の心配に、過剰反応してしまっていたのだ。
──でも、それが何の問題があるんだろう?
私は病的に大切な人に頼られたいけれど、それをクラウンさんは笑顔で応えてくれる。私も、それが心地良かった。
そんな私達の関係に、問題なんて無い。このままいくんだろうって、思い出さなくても大丈夫だって、少し前まで本気でそう考えていた。
……でも──
『この戦争が終わったら話がある』
『は、なし……ですか?』
『ああ。私達二人の今後に関する大事な話だ。タイミングを見計らって私から誘うから、どうか心の準備をしていて欲しい』
──クラウンさんは私と話があると言っていた。大事な話だと。
一瞬プロポーズの類だと思ってしまったけど、彼のそれを語る目を見て違うと悟った。
確かに同じ決意の眼差しではあったけれど、何というか……少し申し訳なさが滲んでいた気がしたのだ。
私の事で、大事で、申し訳無さそうな話……。多分、私の忘れてしまっている記憶に関してだと思う。クラウンさんは私に、その記憶を思い出して欲しいんだ。
なんでわざわざそんな事を──とは、私は思わなかった。
クラウンさんは欲張りだ。強欲で貪欲で、本当に欲しいものの為ならその欲望すら我慢する……。言葉を選ばないなら、一周回って異常な程、欲望に対してはひたすらに純粋な人。
あの人はきっと、私の全てを知りたいんだ。
私の全てを知って、知り尽くして、私の全てを愛したいんだと思う。
自分で言っていて恥ずかしいけれど、あの人はそういう愛情を真っ直ぐ隠さない人だから、多分間違ってない。
だから素直に理解も出来る。
クラウンさんは、私の忘れている記憶すら愛してくれるつもりでいるんだって……。
本当に、強欲な人。ひたすらに欲深くて、ひたすらに愛に素直な人……。
でもあの人は、嫌がる私に否定されてまでそれを押し通そうとはしないんだろう。私に嫌われてしまう方が、あの人は望まないから。
それであの人は、わざわざ大事な話だと言って私にそれを提案するつもりなんだ。
「君の記憶を、思い出させたい」って……。
なら私も、それに応えたい。
いつもみたいに期待に応えるとかそういう思いもあるけれど、何より私は、クラウンさんのあの真剣な目に応えたかった。
私に否定されるかもしれない、嫌われてしまうかもしれない。
けれどもそれでも、私の全部を愛したいって深い深い愛情と決意が宿った目に、応えたかったんだ。
──多分、とても酷い記憶なんだと思う。
忘れてしまっているはずの今でもその時のトラウマが顔を出して過剰反応してしまうくらいなのだから、本当に凄惨なものなんだ。それこそ、記憶を閉ざしてしまうくらいに……。
でも、それが何だと言うんだろう?
あの人なら……クラウンさんなら例えどんな記憶だろうと理解して、肯定して、一つの揺るぎもなく愛してくれる。その確信がある。
傷付いた私の心を優しく慰めて、癒してくれて、側にいてくれる。愛してるって言ってくれる……。不思議なほど、それを信じられる。
だからこそ、私も覚悟を決めた。
クラウンさんに目一杯に愛して貰う為に、一縷も残さず愛して貰う為に、私は過去を思い出す。
例え傷付いて、苦痛に喘いで、悔恨に呻く事になったのだとしても、私はクラウンさんの愛に応えたい。私も真っ直ぐ愛してるって言いたい。
その為なら私は身を削る。
リンドンの記憶を曖昧にする《霧魔法》の魔術を利用して、私の頭の中に掛かってる記憶の枷を無理矢理外す。
かなり無謀で、もしかしたら枷なんて外れないままやられちゃうかもしれない。そもそも外れないかもしれない。確証なんか一つもない。
だからこそクラウンさんには詳細を話さなかった。絶対絶対、止められるから。
でも、この無謀が私の覚悟だ。こうでもしないと、あの人の巨大な愛に相応しい愛なんか持てやしない。
枷が外れなかろうがしらない。無理矢理にでも外してみせる。
クラウンさんに応えるんだ。絶対に絶対に、報いるんだ。
だから……だから……。
だから私は──
『双子など、凶兆以外の何ものでもないッ!! 現にあの赤子は──』
『幸神様の半神……。正に世界の災いの使徒よ……』
『裏で暫く利用しては? 捨てるにしろ使い倒してから──』
『ほらどうしたッ!? 昨日もやったろうがッ!! 言い訳してねェでさっさと殺せッ!!』
『嗚呼、慾深なる使徒よ……。我が身より産まれ出た愚かなる子よ。せめてその穢れた魂、世の為、人々の幸福の為、捧げなさい』
「……ああ、そっか。私は……私は……」
「……うふふ」
リンドンは霧の中を優雅に舞う。
彼女の舞踊──《魔踊の舞い》は普通の舞いとは違い、ある種の魔法陣と同等の効果を発揮可能な特殊な技スキルであり、彼女が踊り続ける事でその魔術効果を永続的に発動し続けられる。
勿論、彼女が現在舞っている舞いの効果は濃霧を安定させより濃密にさせるもの。
そしてその効果に上乗せして安定と濃度、範囲を濃く広く固定させる権能のスキル《濃霧》、《霧海》、《霧集》を内包した鉄扇を用いて強化している。
一度ハマれば影響下の存在は刹那に記憶を曖昧にされ、忽ち再起不能となるだろう。
流石に影響下から離れられれば記憶はハッキリと元に戻るが、その範囲の広さを考えればそれも難しい。
まさに防衛や足止めという点に於いて無類の強さを誇る、無敵に近い戦法であろう。
「さぁ、もうそろそろかしらね? 本当ならもっと念入りに記憶を暈してやりたい所だけど、あのクラウンとかいう奴も止めなきゃいけないし、あのガキは程々にして──む?」
その瞬間、踊る彼女の目端にふと何かが光るのが見えた気がした。
だがそんな筈はない。
霧とは空気中に含みきれなくなった水蒸気が水滴となって広がっている状況を指すものであり、その水滴が光を吸収、散乱させる事で視界を白濁させる。
とりわけリンドンの霧は高濃度であり、僅か数メートル先の光など最も容易く霧散させてしまうだろう。本来なら霧の中に光など、届く筈ないのだ。
(今の……気のせい?)
油断は出来ない。だがどう対処する?
言ってしまえば目端に何かが光っただけ……。それだけの事を切っ掛けに一体何を講じれば良い?
(と、兎に角、濃霧の出力を上げ──)
「『呑気ね』」
「『──ッッ!?』」
リンドンは突然耳元に届いた声に、思わず舞踊を止めて振り向いてしまう。
しかしそこには誰も居らず、変わらず濃霧が広がるばかり……。僅かに床が見えるだけだ。
だがもう流石に気のせいでは片付ける事は出来ない。明らかに術中であったロリーナが自身の背後を取っていたのだ。
(一体どうやって私の魔術をッ!? こんな事、今まで一度だって──)
「『攻められる事には慣れていないのね。少し拍子抜け』」
「『──ッッ!!』」
またも声の方を振り返るが、やはりそこには誰も居ない。気配すら、そこに欠片も残ってはいなかった。
「『こ、こんのぉガキィィィィ……ッッ!!』」
自分が惑わされる……。自らの濃霧を逆手に取られしまっている現状に苛立ちを覚えたリンドンは再び鉄扇を上方に構えると、先程とはまた別の舞踊を始めた。
「『その余裕も、生意気もォッ!! 全部全部曖昧にして粉々にしてやるからねェェッッ!!』」
彼女が踊り始めたのは、記憶を含めた五感、自我、意識、常識……。ありとあらゆる感覚を曖昧にし対象を廃人と化す絶望の舞い。
効果を複数種にした事により制御もより難解を極め、その分舞踊の繊細さや緻密さも高レベルを要求されてしまうが、リンドンは歓楽区画を代表するプロダンサー。
集中力を極限まで高め、先程の動揺など微塵も感じさせない、一ミリも歪みやズレの無い華麗な舞踊を舞う。
(さぁ、その綺麗な顔を絶望と失望に濡らしてあげ──)
だが、その舞踊は踊り切られる事は無かった。
何か背中に小さな衝撃と感触が走ったかと思えば、何故か自身の胸──丁度心臓がある位置から見覚えのある細剣の刃が血に濡れた状態で突き出していたのだ。
「『……え』」
「『だから言っているじゃない。貴女は呑気過ぎるのよ。敵の前で、そうやって踊り続けるんだから』」
三度目の声は、またしても自分の背後から聞こえる。
冷たい……。とても冷たい氷点下の声音だ。
「『念の為、もう何回か刺しておきましょう。念の為に』」
「『え、待──』」
そしてその声がリンドンの耳に届いた直後。
胸から突き出した細剣の刃が引き抜かれたかと思えば改めて背中、手足、首、後頭部に数え切れない数の衝撃が走った。
衝撃が走る度に──特に背中や首、後頭部に衝撃が走る度に彼女意識は黒く削り取られていき、激痛も感じ得ぬままに徐々に暗転していく。
それは宛ら、彼女の得意分野であった敵の意識を曖昧にし、廃人にして戦意喪失させる戦法と似通っており、徐に消え逝く意識に計り知れない恐怖心が湧き上がった。
「『わ、た……い……』」
しかしそれも束の間。永遠とも感じた死への恐怖と絶望は間も無くリンドンを死へと引き摺り込み、何もかもを削り取られた抜け殻のリンドンの死体は、そのまま力無く床に倒れ臥す。
重たい肉塊が床に広がる血の水溜りに落ちる嫌な音が鳴る。
それと同時に彼女が展開していた《霧魔法》は制御を離れ魔力として霧散。濃霧は何事も無かったかのように行政区画を晴れ渡った。
そしてそこに立っていたのは、リンドンの返り血で所狭しと汚れ、濡れたロリーナだけだった。
「……ふぅ」
ロリーナは無表情のまま細剣を振るって血を払うと鞘に刀身を納め、濃厚な血の臭いに気付いて自身の様相を見て溜息を吐いた。
「はぁ……。流石にこれじゃあクラウンさんに引かれてしまうかな……」
つい先程死に至らしめたリンドンなど気に掛ける素振りは一切無く、ただこれから追い掛けるクラウンにどう見られるかだけを気にするロリーナ。
最早彼女の興味は、殺したリンドンになど一縷も向いてはいなかった。
「……クラウンさんは信じないかもしれないけど、私達が出会ったのはきっと運命……。私はあの人の傍に居る為に、私は今日まで生きて来た……」
彼女の胸中に満ちるのは、この上ない高揚。
自分の汚れた過去が、痛ましい記憶が、最愛の人との──クラウンとの何より強い運命の糸で太く繋がっていたと知れたのだ。
確かに苦々しく、苦悩と苦痛、絶望と失望に彩られた忌まわしい記憶ではあったろう。壮絶で凄惨な、短くも濃厚な負の記憶だったろう。
だがそんなもの、最早どうでも良かった。
そんな希望の欠片もない記憶に、まさかのクラウンとの縁を垣間見たのだ。
悔恨などより、圧倒的に彼女はそこに幸福と幸運を感じた。見出した。
自分は彼と──「強欲の魔王」クラウンと出遭う為に生まれて来たのだと。
そして目醒めた。
記憶と共に眠り、封じられた産まれついての負の才能……。
凶兆、災い、慾深と謗られた、しかし魔王の側近──秘書としてこれ以上に無い才能──スキルに。
名を──
《欲の聖母》
「あ。これ、お土産に貰っていくわね」
そう言ってロリーナはリンドンが所有していた一対の鉄扇を拾い上げると折り畳み、小脇に抱えてから踵返して歩き出す。
先に行ったクラウンに追い付く為に……。
「ふふ。クラウンさん、褒めてくれるかな……」
その頬を、朱に染めて……。




