第十六話
弥太郎は稲垣を連れ、少し遅れて涼介が苦々しい顔をしながらついて来ている。
「こちらです」
弥太郎はにこやかに一つ扉を指した。
扉の横では若い警官が立っていて、稲垣に敬礼した。もちろん、警官は銃を所持している。
――結局来てしまった。
涼介は目の前の扉を見てげんなりした。
来る途中に、こっそり玄関に足を向けたのだが、稲垣はそれをお見通しのようにこちらを見据え、道を阻んだ。
「それでは」
弥太郎は扉を軽くノックした。
ハイ、と小さく声が返ってきて、彼は扉を開けた。
入るなり涼介は舌を巻いた。
さすが国を支える貿易商。
彼女の部屋は西洋の様式は当たり前。テーブル、ソファにベッド――。
とにかく広い。はっきり言って、稲垣の書斎よりは。
一通り部屋を見渡し、涼介は彼女に目をやった。
五十嵐あかね。
昨日みたいなハイカラな恰好ではなく花柄の着物を着て、髪も下ろしてある。
あかねは涼介と目が合うと顔を赤くしてうつむいた。
「うつむきたいのはこっちなのだが……」
小さく文句を言うと、稲垣が脇腹を小突いてきた。
「早くしろ」
「ムチャ言うな。出来たらやってる……」
「謝るだけだぞ」
「それが一番問題なんだよ」
小声で二人がやりとりしているのを弥太郎は怪訝そうに見つめている。
稲垣は無理やり涼介の背中を押した。そのままベッドに座っているあかねの前にたどり着いてしまった。
「…………」
「…………」
再び視線が合い、二人が向き合う。
――気まずい。
非常に気まずい。
涼介はがしがし頭を掻き回している。
窓から風が静かに通っていく。
「怪我してる……」
沈黙を破ったのはあかねだった。彼女は心配そうに涼介の吊っている左腕を見つめてうつむいた。
「わたしのせいだよね。……ごめんなさい」
申し訳なさそうに目を伏せた。すると涼介が慌ててまくし立てた。
「いや、俺は大丈夫だ。こんなの軽い。それより……」
涼介は何か言いにくそうに口を噤んだ。
「なに?」
あかねが促して、涼介は息を吐いて言った。
「アンタの方こそ大丈夫か?」
「えっ?」
あかねは驚いて顔を上げた。今、彼が言ったことが信じられなかった。
「いや、俺だって悪かったよ。あんな目にあわせて……。アンタに何かあったら、アンタの親父に殺されるかもしれなかったからな」
頭をがしがし掻き回し、口籠りながらもそう言った。
――やっぱり優しい人。
あかねはそう思った。
彼は無愛想だけど、性根はやさしくて、思いやりのある人だと改めてわかった気がした。
「刑事さんは、良い人だね」
思わず口に出してしまった。出して後悔したが遅い。涼介はそれに反応した。
「そうか?」
そんな呑気な答えが返ってきた。あかねは苦笑いしながら頷いた。
「うん」
話がついたと思ったのか、稲垣が大仰に頷いて見せる。
「さて、今度こそお暇しようか」
「お茶でも飲んでいかれては?」
弥太郎が提案した。後ろで、あかねも賛同するように首を縦に振る。しかし、稲垣は彼の提案を丁重に断った。
「いえ。長居は無用です。それに、早く帰りたいと思うので……」
そう言い、ちらりと涼介の顔を見た。それに答えるかのように彼は首を振った。縦ではなく、横に。
「いや、まだ終わってない」
そう告げた。
「はっ?」
稲垣は目を剥く。
「ならば、茶を――」
「いらん。すぐ終わる。それと、アンタもちゃんと訊いとけよ」
弥太郎の提案を無視して自分の言い分だけを口にした。弥太郎は顔をしかめたが、何も言わずに黙った。
そして涼介はあかねに向き直った。
「え、なに?」
彼女はまだ話があると言われたので、少し驚き、少し嬉しかった。
しかし、涼介は黙っている。
また風が部屋に入ってきた。
あかねはじっと見つめられ、顔を赤くした。
「やっぱり……だな」
涼介がやっと口を開いた。
「なに?」
「やっぱり。俺はアンタらみたいな上級な人間とは付き合えないのがわかった」
「えっ?」
あかねは言われたことが、理解出来なかった。涼介は続ける。
「昨日の件でわかったかもしれないが、俺は碌でもない奴だ。昨日のようなことを昔からずっとやっている。だから俺とは付き合わないほうが身のためだ。アンタはこっちに来ちゃあ駄目だ。だから――」
あかねは静かに涼介の話を聞いていたが、耳に入って来ない。自分でもわかるように顔が青ざめていく。そんなふうだったから、次、彼が何を言うかなんとなく予想がついた。
「……だから、これっきりだ」
涼介が静かに、冷たくあかねに告げた。その言葉は、彼女の胸にグサリと突き刺さった。不思議と目が潤んできた。
「じゃあな」
涼介は手を振って、踵を返そうとする。
「待って!」
あかねは立ち上がり呼びかけた。
彼女の声に涼介は足を止めて振り返った。
あかねは自分の声が届いたのが嬉しかった。声を掛けようとして、息を呑んだ。
涼介は無表情のままこちらを見つめている。彼の目に生気はなく、暗い目をして、冷たく濁っている。
彼は口を開く。
「じゃあな。お嬢さん」
さっきの言葉より、他人行儀のそれ。
それは、あかねにとって高いところから突き飛ばされたような感覚だった。もうアンタと俺とは一切関係ない。そう、彼の目が語っている。
「部長。帰ろ」
涼介は今のやりとりを茫然と見つめていた稲垣に話し掛けた。
「い、いいのか?」
稲垣はあかねに目をやり、戸惑いながらも訊いた。
「なにが?」
涼介はとぼけたような口調で聞き返した。
「いや、だから、お前……」
「もう終わったんだからいいだろ。帰るっつってんだ。それに」
涼介は顔をしかめた。
「ここの空気は、俺には合わない。気持ち悪い」
「桜井……!」
「あ? 文句あるのか?」
冷徹な瞳に射抜かれ、稲垣も口を噤んでしまった。
「待ってよ!」
また、あかねが涼介に叫んだ。彼に駆け寄ろうと足を出した。
涼介は小さく舌打ちした。
「わたし、まだあなたにちゃんとお礼の一つも――」
「うるっせえなッ!!」
涼介は叫んだ。あかねはビクッと身体を震わせて後退った。
「アンタは何もわかってねぇ! 俺がどんなやつか、俺がどんなことしてきたか! でもわかっただろ昨日。俺はあんなことしかできない! 俺は、あんなことでしか自分を示せない!! 人は変わることなんかできないんだ! 何も……変わらない……」
涼介はまくし立て、己の吐露をすべて吐き出したようだった。
――ああ。そうか……。
あかねは少し理解できたように思えた。
この人は、わたしを救ったことで少しは変われると思ったんだ。
彼を何故そうさせたかはわからないけれど、不器用ながらも自分を変えたいんだ。
せめてただ人を斬るだけではなく、誰かのために。
でも……。
――それはできているよ。刑事さん。
あかねは微笑んだ。
「……悪かった。でも、わかってほしい。俺は何もできない化け物だ」
涼介が背中を向けたまま、憔悴したように言った。さっきの己の行為を悔いているようだ。
「そんなこと言わないで」
あかねはやさしく、ささやくように言った。
「あなたはわたしを助けてくれたの」
「……そんなんじゃ、なんにも変わんない。だから」
「だからなに?」
あかねが食い下がる。
「……」
涼介は何も言わず、ただ背を向けている。
あかねはムッとして声を張り上げた。
「だから諦めるの? 諦めていいの?」
「あぁ、俺には無理だ……」
涼介は静かに呟き、
「俺は、守る側じゃなく、奪う側なんだよ」
彼から返ってきたのはそんな回答だった。
あかねは我慢ならなかった。
「ふざけないで!」
あかねは啖呵を切る。彼女の大きな声に涼介は思わず振り向いた。
「変われるわよ、あなたは! 過去のことばっか考えてないでよ! 悲しいこと言わないで!」
拳を握り締め、涼介にまくし立てる。
「あなたが昔、何をやってたかなんて関係ないもん!」
キッ、と彼を睨みつける。あかねの視線に涼介は若干、怯んだ。
あかねはずかずかと彼に向かって歩いていく。涼介の前で足を止め、睨み続けた。
「な、なんだよ……」
涼介は少したじろいだ声を出した。あかねは続ける。
「あなたはわたしを助けてくれた――。その事実は変わらないんだよ?」
「……」
「それに、ね」
あかねは語調を和らげる。
「あなたがどんな人でも、わたしが出会ったあなたは、『人斬り』じゃなくてただの『警察官』。とても優しくて良い人なんだから」
優しく涼介の手を取って、笑った。
「…………」
涼介はただ、黙っていた。しかしあかねを見つめ、はぁと重くため息を吐く。
「……また、泣かせてしまったな」
「えっ、あれ?」
いつのまにかあかねは泣いていた。
なぜ、涙が溢れるかわからないけれど涼介のことを思うと胸がイタくなる。彼といるとなんだかホッとする。心が温かくなる。
おろおろしているあかねの様子を見て涼介は淡く笑った。
「悪かったよ。アンタがそこまで言ってくれるとはな……」
ぽん、と彼女の頭に手を置いて撫でた。
「あ……」
あかねは顔を赤くして、うつむいてしまった。
「アンタは、これでいいんだな?」
涼介は首をめぐらし、弥太郎に訊いた。
「何度も言わせるな。侍」
弥太郎は顎をさすりながら笑みを浮かべた。
「そうか……」
涼介は安心したかのように呟く。
「よかったね。刑事さん」
あかねは泣き顔だけど、彼に笑った。
「その『刑事さん』ってのはやめてくれ」
「えっ? じゃあ何て呼べばいいの? 名前教えてもらってないのに……」
「あ? そうなのか」
「そうだよ」
あかねは口を尖らせる。
「あー。そうか……」
涼介はがしがし髪を掻きながら呻いた。
「それじゃあ、改めて自己紹介だな……。俺は、桜井涼介。警察官だ」
あかねを真っ直ぐ見つめて、笑った。
「わ、わたしは五十嵐あかね」
「ああ、知ってるよ」
涼介が笑って答えると、あかねは手を差し出す。
「む……」
彼女は口元を緩める。
涼介はふぅ、と一息吐き、
「よろしくな」
彼女の手をやさしく握り返した。
あかねは明るく微笑んだ。
「こちらこそ」
明るい日差しが差し込んでくる。
部屋にすがすがしい風が通っていく。
春も終わりを告げるように桜が散っていく。
了
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございます。




