第十五話
夜。黒い雲の合間からあの人は、月に照らされて映し出された。
その人は、鬼の形相でわたしを見下ろしている。頭上に高々と刀を掲げ、それは月光に反射して鋭く輝いていた。
わたしは疑問を抱いた。
その人はどうしてそこまで怖い顔をしているの?
そして、どうしてそんなに驚いているの?
あかねは目を覚ました。
(ここは……)
いつのまにか自分の部屋のベッドで寝ていた。意味がわからない、と首を傾げて、むくりと起き上がる。
「あっ。お嬢様。目が覚めましたか」
「ん?」
横で声がした。寝ぼけ眼で見ると、女中が心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「あ……。う、うん……」
返事をするが、うまくできない。頭がぼぉ~とする。まだ眠たい……。
「今、旦那様とお医者様を呼んで来ますね」
女中はにこやかに微笑み、椅子から立ち上がる。ぱたぱたと扉に走っていく。扉を開け、誰かに会釈した。
「え……。ちょっと待って」
あかねは女中を呼び止めた。彼女はその声にぴたっと足を止め、振り返りにっこりと微笑んだ。
「どうかなさいましたか?」
あかねは扉の向こうを指差した。
「なんで、警察の人がいるの?」
「あらっ」
女中はなぜか声を上げた。あかねは首を傾げた。
「護衛ですよ。護衛。旦那様がつけてくれたのですよ」
彼女はまた微笑んだ。
あかねはふ~ん、と適当に相槌を打った。
それでは、と女中は頭を下げて部屋から出て行った。
あかねはやっと頭が働いてきた。
「そういえば……」
疑問が浮かんできた。いつわたしはここに帰ってきたんだろ?
「う~ん。……なんで?」
唸った。
しばらくして。
「まっ。いいや」
彼女は明るく言い放った。そして、ぱたんとベッドに倒れた。
「わからないこと考えてもしょうがない」
そう呟いた。
しばらくしてすると、小さく寝息が聞こえた。
涼介は警察署に戻るなりげんなりした。玄関の前で稲垣部長に会ってしまったのだ。
「ヤバイ……」
彼はすぐさま回れ右をした。
「どこに行くか! 桜井!」
彼に気づいた稲垣が叫ぶ。
ばれた。まずい。涼介は自然と早足になる。
「捕まえろ!」
後ろで物騒な物言いが聞こえたが、今は逃げるのが先だ。彼はだんだん足を早くしていく。怪我人に走るのはきつい。だが、稲垣に捕まるわけにはいかない。面倒事は勘弁してほしい。
涼介は路地裏に隠れた。ここで安堵の息をつく。
「ここまで来たら………」
「精が出るな。桜井」
「……!?」
涼介は慌てた。通りの方に顔を向け、驚愕した。
稲垣は馬車に乗って、こちらを見下ろしていた。彼はくいっと手首を上げ、ただ一言。
「乗れ」
「くそ……」
涼介は肩を落とした。
「なんで、俺も行かなきゃならないんだ?」
涼介は馬車に無理矢理乗せられ、不機嫌そうに頭をがしがし掻いた。
「言っただろ。謝罪をしに行くと」
「俺は行かないと言ったはずだ」
「駄々をこねるな。子供か。そもそもあのとき、お前が勝手に動くからだ」
涼介に反論できない。命令違反は事実だ。しかし、言わせてもらう。
「だが、あのとき俺が動かなかったら、アイツは危なかったんだ。アンタがもたもたしていたら手遅れだぜ。そしたら、もっと面倒事が増えてたはずだ」
皮肉を込めて行ってやった。彼はニヤニヤ笑い、稲垣の渋い顔を期待した。
しかし、稲垣は驚いた顔をしていた。
「なんだ。その顔は?」
涼介は怪訝そうに訊いた。稲垣は眉根を寄せた。
「お前はおかしい……」
「は?」
涼介はますますわからないと顔をしかめる。
「何がおかしいんだよ。おっさん」
涼介はその言葉が気になり、稲垣を睨みつけた。彼は涼介から目を離し、窓に顔を向けた。
「オイ、人の話を聞け」
返事をしない。じっと彼の横顔を見ていたが、稲垣は何も言わず口を閉ざしている。
「もういい……」
涼介はふてくされた子供のようにそっぽを向いた。
それに稲垣は薄く笑った。
――お前は変われるぞ、桜井。
今回の件は涼介の手柄だ。やり方はアレだが。
しかし彼はそれをよく思っていない。稲垣にはわかる気もするがどうだっていい。涼介は涼介なのだから。これからもそのままでいい。
まぁ、欲を言えばもう少し言うことを聞いてほしい。
「部長。着きました」
そんな感慨にふけていると、馭者をしている部下が言った。
稲垣は頷くと、大きな欠伸をしている涼介を振り返り、言った。
「着いたぞ」
それに彼は眉を上げ、はぁとため息を吐いた。
涼介はドアを開け、大きな屋敷を見上げた。
事件の被害者、五十嵐弥太郎の家。
国を支える貿易商のそれ。ほかの財閥までには届かないが、数年もすれば肩を並べているだろう。涼介にとっては場違いな所。彼はけだるそうに屋敷を見上げている。まだ二度しか訪れていないのに忌々しく感じる。
「桜井。行くぞ」
稲垣に促され、涼介はついていく。
豪奢な門を抜け、屋敷内に足を踏み入れた。
涼介は今日、何度目かわからないため息を吐いた。
昨日と同じ応接室に通された。
稲垣は昨日と同じように椅子に腰かけ、涼介は壁にもたれた。
「座らないのか?」
不思議そうに彼に訊ねる。
「座れる気分じゃない」
涼介は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「さっさと帰りたい」
その言葉に稲垣はため息を吐いた。
しばらくして、五十嵐弥太郎が部屋に入ってきた。さっそく涼介は彼と目が合った。
涼介は身構える。嫌な顔をされるか、もっと言えば罵倒の一つや二つ出てくるのかと思った。
しかし、弥太郎はちらっと見ただけで稲垣に声を掛けた。
「申し訳ありません。忙しい中」
「いえ、こちらこそ……」
涼介は拍子抜けた。あっけにとられ、弥太郎を見つめていた。
挨拶もほどほどにして、弥太郎が椅子に座ると稲垣は立ち上がり、頭を下げた。
「この度は、貴方の御息女を危険な目にあわせたこと、誠に申し訳ございません」
弥太郎は少し驚いている。
――いきなり謝るのかよ……。
涼介は失笑した。口に出しかけたが寸でのところで止める。今、喋れば厄介事が増える。
稲垣は涼介を睨んだ。目で何かを訴えている。謝れと言っているようだ。
涼介はめんどくさいと言わんばかりに息を吐いた。だが、ここは稲垣の尊厳もあるだろう。言われたとおりに頭を下げようと思ったとき。
「いや、あなたたちには感謝しています。何度頭を下げていいかわかりません」
弥太郎は柔和な表情を浮かべた。
涼介は、また拍子抜けた。思わず声を上げた。
「何言ってんだ、アンタ。俺がやったこと忘れたのか?」
弥太郎の優しい表情はすぐに消え、少し顔をしかめた。
「忘れるわけがないだろう、あんな光景を見せられて。だが、おまえはあかねを救ってくれたのだ」
「ふざけるなって。おかしいだろ?」
涼介はうなだれた。
「おかしいぞ。アンタも、アンタの娘も。なんでそんな簡単に人を信じられるんだ? 俺がどういう人間かも知らないのに……。アンタはあんなに侍が嫌いだったじゃないか」
「そうだな……。ならば、私も、おかしいのだな」
弥太郎は口元を緩めた。涼介は目を見開いた。
「……」
「桜井、もういいだろ」
稲垣が言う。彼は立ち上がった。
「それでは、そろそろお暇しようか」
「ちょっと待ってください」
弥太郎が止めた。稲垣は振り返った。
「なんでしょうか?」
「あかねにも会っていただけないでしょうか」
それは稲垣に向けられたものではなく、明らかに涼介にだった。
「断る」
涼介は即答し、拒否した。
「構いません。時間もあり……」
涼介の動きは速かった。稲垣の発言を遮り、彼の胸倉を掴み上げた。
「本気で、怒るぞ」
ドスのきいた声で稲垣に詰め寄る。
その様子に弥太郎はびっくりし、部下は二人を止めようと間に入ろうとするが、涼介の威圧に押され、仕舞いには睨まれて動けなくなった。
「桜井、お前もヒマだろ? だったらいいじゃないか」
稲垣は掴まれながらも何事もないように言った。
「それとこれとは話が違う」
「違わないぞ。今日はここに謝罪をしに来たんだ。それならば、あかね嬢にも謝罪をしなければならないな」
稲垣は笑いながら適当なことを言ってのけた。
「ぐっ。アンタは……」
涼介は言葉に詰まった。
「……」
涼介は稲垣を睨み続けた。だが、彼はそんな眼光も意に介さず、含み笑いを深めていた。
「わかったよ……」
涼介は呟いた。
「えっ?」
弥太郎は顔を上げた。
稲垣を突き飛ばし、苛立つように髪をがしがしと掻き回した。
「わかったよ! 会えばいいんだろ。会えば! それと俺はお前らが大っ嫌いだ! ったく……!」
二人は笑った。
稲垣は襟を正し、弥太郎に告げた。
「それでは、弥太郎殿。お願いします」




