第九話
降りしきる雨の中――。
涼介は立っていた。
「…………」
あたりを見渡す。足元には一本の真っ直ぐな道があった。あとは何も見えない。真っ暗な空間だけが広がっている。しかし、雨が身体に当たるのは感じる。
「……雨、か……?」
疑問に思った。
雨は生温かかった。
闇から降る雨を手のひらで受け止める。それは、赤黒く鉄の匂いがした。
――血だ。
「う……っ」
涼介は思わず身を引いた。と同時に踵に何かがぶつかった。
「……?」
振り返ると、そこには死体の山があった。
身なりがいい武士。
赤く染まった浅葱色の羽織。
甲冑に身を包んだ幕兵。
様々な死体が折り重なっている。
それは今まで、涼介が斬り捨ててきた者たち。
「…………」
だが、涼介は戸惑わない。冷静だ。
これは、自分で選んだ道だ。後悔などしない。
涼介は真っ直ぐ前を向いた。
前方の道には、まだ何も落ちていない。これから落ちるのだろう。しかし、彼の足は止まらない。
何があっても……。
涼介は死ぬまで止まらない。
涼介は五十嵐邸の庭で寝ていた。
目をうっすらと開けると夕日が目を差した。眩しくて目が覚め、むくりと身体を起こした。
涼介は上着をベンチの背もたれに掛け、白のカッターシャツだけを着ている。シャツのボタンは二つ目まで外されており、胸元がはだけている。くだけた、というよりはだらしない印象が先立ってしまう。
だが見目は良い男で、精悍な顔立ちに真っ直ぐ伸びた鼻筋、なかなか男前に見えなくもない。
あれから寝ていて誰にも起こされなかったということは、弥太郎から許可が下りたみたいだ。
涼介は目をこすり、まだ眠り足らないのか、大きな欠伸をした。
「さっきのは……」
おぼろげに呟く。
――夢……?
そう理解すると、自虐的な笑みが浮かんだ。
「なぁ、警察の兄ちゃん」
声が聞こえ涼介は半目で首をめぐらした。声のする方を向くと、初老の男がいた。確かここに来たとき、目が合った五十嵐家の庭師かなにかだ。
「あかねお嬢様を探さないのか?」
そんな質問が飛んできた。
涼介は少し驚いた表情をして、庭師から目を離し、唸った。
「そうだなぁ……。探さねぇとな」
曖昧な答えに庭師は戸惑いながらも話し出した。
「儂はお嬢様を幼少のころから見ている。今もそうだが、素直で元気のいい子じゃ。元気が有り余っとる。昔はよく、庭で転んでいたものだ。そんなお嬢様が泣きながら家を飛び出していった。年頃の娘はあんなものかのぅ……」
「アンタは」
遼介は口を開いた。凄みがある口調だったから庭師は驚いて黙ってしまった。
「俺のことをなんとも思わないのか……?」
そう、この屋敷に入って涼介は冷たい視線をずっと感じていた。原因は間違いなく、ベンチに立て掛けているコレのせい。
刀である。
涼介は左にある刀を触りながら、庭師に問うた。
庭師は笑いながら答えた。
「お前さんがそれを持っていると気づいたときは確かにびっくりしたよ。けれど、儂は何十年も生きている。見慣れているし、嫌う理由がないじゃろ」
「そうか」
涼介は薄く笑った。今日で二人目だ、自分を疎まない奴は。
「まぁ、探す気になったら声をかけてくれ。お嬢様の行きそうなところはだいたいわかるから」
庭師は背を向け、涼介に手をひらひら振って行ってしまった。
「…………」
涼介は黙って見送り、ため息を吐いた。
おもむろに刀に目がいき、持ち上げて鞘から抜き放つ。
ゆるやかな反りを持った刃は、夕日の光によって橙色に鋭く輝いている。いつ見ても美しい。村上が鍛える刀は惚れ惚れするくらいの業物だ。涼介は口元を歪めた。
「不思議だな……」
刀に向けて呟く。頭の中にさっきの風景が流れた。
彼女が必死になって自分を認めさせようと父親に願っていた。
――挙句の果て、俺に向かって。
『わたしはあなたを外見で判断したくない……』
『わたしがこんなに想ってるのにどうしてあなたに届かないの!?』
「なんだよ。くそっ……」
涼介は吐き捨てた。
今日、初めて会ったんだ。しかも、あんな馬鹿な男二人をビビらせただけだ。形式的には彼女を助けたことになってはいる。だが、何もしていない。なのに、どうしてそこまで言い切れるんだ?
ふと、脳裏に村上の言葉が浮かんだ。
『人も変われないだろうか。別に刀を捨てろとは言わない。ただ……、自分のためでなく他人のために剣を振るうことは――』
「…………」
今日のことがそういうことなのか。
つい、考えてしまった。
「いや、違うな……」
涼介は鼻で笑い、刀を鞘におさめた。
橙色の空を見上げる。
何故、助けたのか――。
遼介は、もう一度自問した。
昼間も言ったが、強いて言うならば身体が勝手に動いた。半ば反射的に。しかし、助けたのはいいが、後先考えずに刀を抜いたのは失敗だった。おかげで現在こんな状態だ。だが、別に助けたことに後悔などしていない。
涼介はふぅ、と息を吐いた。
やはり、刀、侍、剣客、というものは嫌われる存在なのだろうか。しかし 涼介は刀を捨てることはできない。彼は空に向かって己の手をかざした。
血に塗れた掌。
何人もの人を斬り殺してきた手。
それは、新時代が来て十年経っても変わらない。
彼女に手を握られたのは不覚だった。
彼女は何も考えずに、何も気にせず、この手を握った。手を振りほどくこともできた。なのにしなかった。何故か……。
『良い人』
この言葉が涼介の胸の奥にずっと残っている。多分一生忘れないだろう。
何も知らないのに、俺を……。
涼介は苦笑した。
「調子が狂う……」
薄暗くなった空を仰ぎながら、虚空に向かって呟いた。彼の目は虚ろで揺れている。判断を決めかねているように。
ややあって、立ち上がった。
「しかたがねぇ、探しに行くか……」
涼介は剣帯に刀をつけ、上着を羽織る。
「部長にはどやされるだろうが、全部アイツのせいにしてやれ」
彼は玄関に向かった。ちなみにアイツとは、あかねのこと。
「まずは庭師の爺さんを探さないとな。アイツのことはわからん」
ぶつぶつ言いながら、きょろきょろと庭を見渡す。すると、庭師が慌てながら屋敷に向かって走っているのが見えた。
涼介は不思議に思い、声を掛けた。
「オイ、どうしたんだ」
「兄ちゃん! これが、あっちに……、お嬢様が……!」
青白い顔をして何かを伝えようとする。
「落ち着けよ。なにがあった」
庭師は肩で息をしながら、涼介に紙切れを渡した。受け取った彼の目が見開かれた。
「爺さん、警察の人間にあかねが誘拐されたと伝えろ」
「あ、あぁ……。しかしお前さんはどうすんだ?」
庭師はまだ息を切らしながら頷き、訊いた。
「俺は、アイツを助けにいく」
「なに言ってんだ。相手が――」
「憂さ晴らしにはちょうどいいや……」
彼の呟きに庭師は口を閉ざす。涼介の眼光は鋭く、不気味に輝いていた。
「そんな深刻な顔するなよ。俺がすぐ片づけてやる」
涼介は笑った。その笑みは愉悦に満ちたそれだった。
彼は踵を返し、歩きだした。
「あ、そうだ」
涼介は振り返り、庭師に言った。
「部長に伝えてくれ。お山の大将しててもいいぜって」
庭師は背中に嫌な汗をかいていた。あの男のさっきの笑みはなんだったのだろうか? 剣客を別に嫌う訳ではないが、庭師には彼が危険に感じられた。
「桜井が出て行っただと!?」
五十嵐邸に稲垣部長の声が響いた。
「は、はい……」
声に驚いて部下が小さく答えた。
ここは五十嵐邸の主、五十嵐弥太郎の自室だ。部屋の中央には面積が広い机と椅子がある。それに稲垣は座っている。
バン! と音が響いた。見ると、弥太郎が自分の机を叩いていた。
「侍どもめ! 娘が何をしたというのだ!!」
彼は目を血走らせ憎悪に表情を歪ませた。
「場所はどこだ!」
弥太郎は部下を睨んだ。部下は彼の形相に狼狽して答えた。
「ここから北の神社と……」
「ならば、私は行くぞ!」
弥太郎は立ち上がり、扉に向かって歩き出した。
「待ってください、弥太郎殿」
稲垣はあわてて彼を制した。
「貴方にはここに居てもらいます」
「馬鹿を言うな。あかねに何かあったらどうするのだ! あかねが無事ならば私は死んでも構わん!!」
「しかし……!」
稲垣は落ち着いてもらおうとつい口を滑らした。
「桜井が先行したのですから大丈夫です。後はこちらで何とか致します」
涼介の名前を聞いた途端、弥太郎の表情が変わった。
「ふざけるな! あんな男があかねを助けるとでも言うのか!? 何故あなたがあのような男を信用できるか理解できない! あんな野蛮で碌でもない輩が一人で斬り込んで行ったのだ! あかねも無事で済むかわからない!!」
弥太郎は稲垣に吐き捨てた。
稲垣はたじろいだ。
たしかに涼介の言う通りだった。弥太郎は心底侍を嫌っている。だが、今は涼介が頼みの綱だ。彼に何とかしてもらわなければならない。今現場に行ったところで遅いのは目に見えている。涼介が刀を抜けば、ひとたまりない。
額に汗が流れた。
稲垣は意を決した。遅かれ早かれもう始まっている。
「よし、これから現場に行く! 弥太郎殿、あかね嬢を救いに行きましょう」
「部長、これだけの人数で行くつもりですか!? それも、五十嵐殿を連れて」
部下の一人が声を上げた。無理もない現在ここには五人しか警察官はいないのだから。
「どちらにしろ。桜井はもう向かっている。責任は私がとる」
「そういう問題じゃありません!」
「ええい、ごちゃごちゃうるさいぞ!」
稲垣は部下の文句を無視して立ち上がった。
しばらくして、五十嵐邸から男七人が駆け出してきた。彼らに強い風が吹きつける。不吉な予感しかしない。
稲垣はもう暗くなってしまった空を見上げた。
「桜井、あまり事を荒立てないでくれよ……」
懇願じみたその呟きは吹きつけた風にかき消された。




