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第06話「緑の聖女の真実と騎士の誓い」

 黒い霧は、生き物のようにうねりながらアスター侯爵領へと侵食していた。

 触れたそばから木々の緑が失われ、灰色に変色して崩れ落ちていく。その速度は異常だった。今までじわじわと広がっていた病が、何かのきっかけで爆発的に加速したかのようだ。


「くそっ、なんて速さだ!」


 ギルバートは舌打ちし、壁にかけてあった剣を掴んだ。


「オーギュスト、結界は張れるか!」


「やってみるが、この規模だ! 長くは持たんぞ!」


 オーギュストが杖を振り上げ、詠唱を始める。窓の外に淡い光の障壁が展開されるが、黒い霧はその障壁にぶつかり、嫌な音を立ててきしませた。


「ギ、ギルバート様……!」


 リゼットは恐怖で足がすくんだ。

 窓の外の惨状。愛する植物たちが、次々と殺されていく。耳を塞ぎたくなるほどの断末魔が、リゼットの頭の中に直接響いてくる。


『痛い!』『助けて!』『いやだ、枯れたくない!』


「うっ……あぁ……」


 リゼットはその場にうずくまり、頭を抱えた。あまりの声の多さに、意識が押し潰されそうになる。


「リゼット!」


 ギルバートが駆け寄り、リゼットの肩を抱きかかえた。


「しっかりしろ! 俺を見ろ!」


 彼の力強い腕と、真剣な眼差し。それがリゼットを現実へと引き戻した。

 彼の右頬の痣が、外の瘴気に呼応するように赤黒く脈動しているのが見えた。彼は痛みに耐えながら、リゼットを守ろうとしている。


「ギルバート様、お顔が……!」


「俺のことはいい。……オーギュスト、どうだ!」


「ダメだ、押し切られる! この霧、ただの自然現象じゃない。誰かの悪意……呪詛が込められている!」


 パリン、と乾いた音がして、光の結界に亀裂が入った。

 黒い霧が屋敷の庭へと流れ込んでくる。手入れされたばかりの花壇が、一瞬にして色を失っていく。

 リゼットが大切に育てたパンジーも、あの再生した薔薇も、飲み込まれようとしていた。


「……ダメ」


 リゼットの中で、何かが弾けた。

 恐怖よりも、悲しみよりも、強い「守りたい」という思いが湧き上がった。

 この庭は、ギルバートと過ごした大切な場所だ。彼の亡き母の思い出が詰まった場所だ。それを、こんな理不尽な悪意に奪われてたまるものか。


 リゼットはギルバートの腕を振りほどき、よろめきながら立ち上がった。


「リゼット、何をする気だ!?」


「私が……止めます」


「無茶だ! お前に戦う術など……」


「戦えません。でも、守ることはできます!」


 リゼットは窓を開け放った。

 猛烈な風と腐臭が部屋に吹き込む。リゼットは手すりを掴み、迫りくる黒い霧に向かって叫んだ。


「もう、誰も傷つけさせない!」


 彼女は目を閉じ、祈った。

 自分の命そのものを、光に変えて解き放つイメージ。

 指先だけでなく、全身から力を絞り出す。心臓の鼓動が早くなり、血が沸騰するような感覚。


(お願い、力を貸して。この土地に眠る、全ての命よ!)


 カッ!


 リゼットの体から、目も眩むような翠緑の光が放たれた。

 それは部屋を、屋敷を、そして庭全体を包み込み、ドーム状に広がっていく。


 光が黒い霧に触れると、霧はジュワジュワと音を立てて蒸発していった。

 枯れかけていた木々が、再び息を吹き返す。灰色に染まりかけた大地に、瞬く間に緑が戻っていく。

 圧倒的な生命の奔流が、死の呪いを押し返していた。


「……信じられん」


 オーギュストが呆然とつぶやいた。杖を下ろし、その光景に見入っている。

「これほどの規模の生命賦与など……伝説の聖女以上だ」


 光は屋敷の敷地を超え、領地の森へと広がっていく。瘴気は完全に霧散し、空を覆っていた暗雲さえも切り裂かれた。

 雲の切れ間から、黄金色の夕日が差し込む。


「はぁ……はぁ……」


 全ての力が抜け、リゼットの意識が遠のいた。

 体が重力に従って崩れ落ちる。


「リゼット!」


 床に倒れ込む寸前、温かい腕が彼女を受け止めた。

 ギルバートだ。

 彼はリゼットを強く抱きしめ、その体を支えていた。


「バカな奴だ……自分の命を削ってまで……」


 彼の声は震えていた。

 リゼットは薄れゆく意識の中で、彼の頬に手を伸ばした。


「……ギルバート様、傷は……?」


 彼の頬の痣が、薄くなっているように見えた。

 それを見届けると、リゼットは安心して目を閉じた。


 ***


 リゼットが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。

 自分の部屋のベッドに寝かされており、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。

 体を起こそうとすると、まだ少しだるさが残っていたが、昨夜のような苦しみはなかった。


「気がついたか」


 部屋の隅の椅子に座っていたギルバートが、すぐに歩み寄ってきた。

 目の下には隈があり、一睡もしていないように見える。


「ギルバート様……お庭は?」


「無事だ。それどころか、以前より遥かに生い茂っている。……お前のおかげだ」


 彼は安堵したように息を吐き、リゼットの手を握った。

 その手は大きく、温かかった。


「リゼット。……オーギュストと話をした」


 ギルバートの表情が引き締まる。


「奴は、お前の力を王に報告すると言っている。今回のことで、隠し通すことは不可能になったと」


「……はい」


「だが、俺は条件をつけた。お前を王都へやるなら、俺が護衛として同行する。そして、お前の意志に反することは絶対にさせないと」


 彼はリゼットの目を真っすぐに見つめた。


「リゼット。俺は、お前を利用しようとする全ての者から、お前を守る。例えそれが王命であろうと、教会であろうと、俺の剣は君のためにある」


 その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。

 ただの「厄介払いされた令嬢」だった自分に、これほどまでに尽くしてくれる人がいる。

 リゼットの目から、涙が溢れ出した。


「ありがとうございます……。私、怖かった。力がバレたら、また気味悪がられるんじゃないかって。でも……」


 リゼットは彼の手を握り返した。


「私の力が、誰かの役に立つなら。そして、ギルバート様の大切な国を守れるなら……私、行きます。王都へ」


 それは、誰かに強制されたものではなく、リゼット自身が選び取った道だった。

 自分を肯定し、必要としてくれる人のために、力を使いたい。


「……強くなったな、リゼット」


 ギルバートは優しく微笑み、リゼットの涙を指で拭った。


「わかった。俺も覚悟を決めよう。……共に、王都へ行くぞ」


 扉の向こうで、話を聞いていたオーギュストが満足げに頷く気配がした。

 二人の旅立ちが決まった瞬間だった。


 しかし、王都では、リゼットの力を巡るどす黒い陰謀と、かつて彼女を捨てた家族たちが待ち受けていることを、二人はまだ知らなかった。

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