第三十話 フォルネウス
あと少しで夕暮れとなる時刻。湖は相変わらず静寂を保っていて、平穏を表すかのようだ。いや、それは表面上だけだろう。水というのは不思議な物で、防水仕様の大音量で音楽を流しっぱなし電子機器を沈めると瞬く間に音が消えてしまう事がある。これは音の正体が振動である事の根拠を証明する要因にもなり、タネが分かれば仕組みも簡単だ。
つまり、何が言いたいのかというと――
「ぬおぉぉぉっ!!」
――湖では絶賛『大乱闘』という訳だ。
「死ぬ死ぬ死ぬうぅぅぅっ!!」
僕は人並みの小さな身体でフォルネウスの踏みつけを耐える。六本ある内の一本の脚にしがみついて詰め寄ろうと進んでくるフォルネウスを押し返そうとしてはいるが、いかんせん無理があった。擦れる度に水底の泥が水中を濁し、その範囲からしてどれほど押されたのかも分かるくらいだ。
「くぅっ、邪魔されて魔力の集束が集中できない!」
先ほどから陸上へ逃げようとしているのに、魔力が充電し終える前に攻撃されては中断を繰り返され、現在に至っていた。試しに剣を抜いて応戦してみたけど、堅固な甲殻に弾かれて剣は金属音を響かせる。どれだけ堅いんだこいつの身体は!?
焦りつつも、攻撃方法を変えての攻撃へと切り替える。斬るのが駄目なら、叩き割るまでだ!
剣の柄頭でハンマーのように叩きつけるが、それでも鉄塊を直接殴っているような抵抗が剣に一気に伝わって跳ね返り、状況は変わらなかった。
「…これはまずいね」
〈言っておくがフォルネウスの甲殻を割ろうなど無茶な真似を考えんほうがよいぞ? こやつの身体は黒曜石並みの硬さじゃからな〉
「まったく何食べればそんなに硬くなるんだよっ!」
愚痴を零している間にも僕はさらに押されていく。もうすぐ湖の端にたどり着いてそのまま押しつぶされてしまいそうだ。いくら頑丈な鎧の身体とはいえども、そう何度も衝撃を与えられるのは僕としてはいただけない。
そこで愚直にまっすぐ進むフォルネウスの攻撃習性を利用し、僕は一度跳ねて水中に浮かんで押されたままの形で足をフォルネウスの脚にかけ、思いっきり踏み蹴った。その先はフォルネウスの六本同士の両脚の間である胴体部分だ。隙間に入り込むように水中を進み、なんとかフォルネウスの後ろを取ることに成功する。
一瞬の出来事により、フォルネウスは脚を止められず、本当は僕が押しつぶされる筈であった湖の端である岩壁に自分から突っ込んでいった。
「今だっ!」
そのチャンスを僕は見逃す筈がなく、僕は強化の魔術を行使する。魔力を充電して解放するまでにかけた時間は約3秒半、他の事を考えずに只この場から離れたいという思いがその時間を早めた。『逃走』という本能が冴えたのだろうか。行使の間隔が短くなり、連続での魔閃を行う時の技術を今度は強化にも応用していく。魔力を少しずつ使用することによる強化の跳躍は右、左とテンポよく足踏みしながら水中での歩行を可能にしていく。
その姿は日常で見られる階段を上がる動きそっくりだった。水という重力の抵抗物があるが故の賜物だろう。地上ではテンポが認知しきれずに踏み外し、たちまち跳躍の方向が狂って暴走してしまうに違いない。これを利用する手はなかった。
「秘技、水中渡りの術!」
〈…ネーミングセンス皆無じゃな〉
「ひどいっ!?」
あと数m、しばらくぶりの地上はもうまもなくだ。きれいな夕焼けの陽光が湖に差し込む光として芸術的な姿を見せる。地上への道には途中に浜ができていて傾斜がある。そこへ辿り着けば、あとは走って陸地へ抜け出せる。
右手で掴んだ陸地の感触を若干嬉しく思いつつ、一気に身体を水中から右手を力点として引き上げる。
「ひぃっ、ごぼぼっ!」
〈とりあえず湖から離れろ。さっきから後ろで大きな気配が近付いておるぞ〉
しばらく潜っていた事により、鎧の中は入り込んだ水が溜まって隙間から流れ落ちる。あれ、この状況って前にもあったような…。
デジャヴを感じながらも、ようやく脛辺りにまで位置するようになった水面をじゃぶじゃぶと掻き分けながら走って陸地へと上がる。それと同時に激しい水しぶきを上げ、フォルネウスもまた湖から出てくる。水中で見るのと違い、夕暮れがフォルネウスの甲殻を染めて一種の宝石のように輝いているけど、その実態は暴力的な巨大な魔物だ。
僕は脇目も振らずにその場から立ち去ろうと駆け抜けるが、後ろから激しい甲殻同士が擦れる音が近づいてくるのが聞こえてくる。僕の事を追ってきているんだ。
改めて振り返ると、フォルネウスが樹々をその巨躯でなぎ倒しながらこちらに突進するべく一心不乱に脚を動かしていた。
〈まいったのう、こういう類は一度縄張りに入り込んだ者は死ぬまで逃がさないからのう〉
「嘘だろっ!? 冗談キツイよ!」
そのまま走り続けるが、夕陽を背にしていたから気付けた。自分のいる地面に大きな影が現れたのをスイッチに、そこから左に大きく曲がる。すると、巨大なフォルネウスの鋏が長い腕を伸ばして自分が居た場所をちょん切った。大地が挟まれた分に抉れ、痛々しい跡を残す。そういえば、鋏って刃物の中で一番切れやすい構造を持っているって聞いた事があったな…。
関心と同時に顔が真っ青になりながら、続けて迫るフォルネウスの鋏の攻撃を避けていく。
「ちょっと、タンマっ! 待ってっ! 止めっ……!!」
避けながら話を取りあおうと試してみるが、相手は魔物。言葉が通じる事などありえはしない。大分ピンチによって思考判断が削がれているといった感じだ。僕が通った道にはなぎ倒されたりちょん切られた樹々、抉られた跡や足跡の残る地面と荒々しい物が残る。
そこへ、少し遠い前から何者かの人影が見えてきた。フォルネウスの攻撃を避けながら僕はうっそうと生えた雑草や木々を通り抜けてその者の元へと急ぐ。
その正体は知っている顔だったからだ。
「あ、おかえりなさい師匠! あんまり遅いから姉ちゃんも心配して――」
「そんな事話している場合じゃないんだ! 早く逃げてっ!!」
事情を話している場合じゃない。僕はすぐさまクフェアの手を掴んで一緒に走るよう引っ張る。そこへ樹々で姿が少し見え辛かったフォルネウスがそれらをなぎ倒したことで明確に現れ、その姿はクフェアの目にも入る。
「うえぇぇぇっ!? なんなんですかあれはっ!!」
「でかい海老だっ!」
「いや、海老なのはわかりますけど何で追いかけられてんですかっ!?」
「そんなのは向こうに聞いてくれっ!」
逃げる事に必死でクフェアの質問には要点の抜けた答えしか言えなかった。逃げ続ける中、ふとクフェアの息遣いが荒くなっている事に気が付き、理解する。そうだった、この子は僕と違ってちゃんと身体を持っているんだ。体力という限界があるから疲れてしまうのか。
ならばと僕はクフェアを手で引くのではなく、胴体を脇で抱えて運ぶ事に切り替えた。これならばクフェアに負担も少ないし、ちょっと窮屈ではあるけどこの際は我慢してもらおう。
「クフェア、どこか安全で広い場所はない!?」
「そ、それならここから西に昔の炭鉱が! 今は廃鉱ですけど十分広いです!」
しかし、このまま逃げ続ける訳にはいかない。暴れるフォルネウスをこのまま野放しにして万が一にも休憩所に向かわせたら大変だ。自信はないけど、僕がなんとかするしかない。戦うしかないんだ。
「やつは僕が目当てだ。クフェア、ここでお別れするよ」
「え、師匠?」
僕はフォルネウスの進行方向から外れるよう、クフェアを放り投げた。
着地点には草のクッションがあるから多少痛いかもしれないが、このままクフェアを連れていくわけにはいかないからね。だから、君はアリウスさんの所に戻っているんだ。
「大丈夫、後で戻ってくる! 安心して待っていてね!!」
「師匠っ!!」
フォルネウスは追い続ける。縄張りを荒らした無法者を決して許さず、逃げ続ける僕から目を離さなかった。そのあまり、放り投げられたクフェアには目もくれず…。
〈とはいっても、こやつは手ごわいぞ? さぁどう戦う?〉
「はっきり言って考えてないです!」
正直、くじけそうです。本気で誰か助けてください…そう叫びたい気分だった。




