案件90:あなたの背中を追いかけて
「六花ちゃん、グライダー切りますよ!」
「! うん!」
前もって宣言してから、イトは空中でハンググライダーの使用を解除した。
ステージは台所を抜けて居間へと移行している。
畳敷きの和室で、壁際には箪笥類や化粧台。中央にはちゃぶ台、畳の上には小さい子が遊ぶような積み木が――石切り場から取りたてレベルのビッグサイズで転がっている。
そこを、ずうんずうんと足音を立てて横切る巨大なショーワのキモッタマカーチャン。この民家の住人だ。
「とうっ!」
イトは鉤縄を放って巨大カーチャンのパーマヘアへと飛びついた。
振り向けば、六花は無事、近くにあった背の高い箪笥の上に着地している。
「むふふ、それではわたしはこれで」
「うん。わざわざ降りるの教えてくれてありがとう。すぐ追いつくから待ってて」
距離を離されたにもかかわらず、六花は笑顔で手を振ってきた。
余裕でも慢心でもない、ただただ本当に今を楽しんでいる笑顔。いつも彼女の笑顔を見てきたイトだが、ここまで純度の高いものは初めてだった。
別にいつもの笑顔が作りものだったわけではない。ただ彼女はトップアイドル。常に背負っているその重責は計り知れない。
「さて……」
六花に手を振り終え、イトは前を見据える。
身長約十五メートルのジャイアントカーチャンは、中央のちゃぶ台に向かって移動中だった。ちゃぶ台の向かい側には、ショーワのガンコオヤジがアパート一つくらい包み込めそうな特大の紙製ジャーナルを広げて座っている。
このマップに存在する、最大級の特殊ギミックがこの二人だ。特大積み木が転がっているところを見ると小さい子もいるようだが、現れることはないという。
見晴らしのいいカーチャンの頭部は怪盗にとって優秀な安全地帯だった。鉤縄を持たない警部がここを這い上がってくるのは至難の業だし、仮にそうされても怪盗はハンググライダーで逃亡できる。
ひとまずはこのまま距離を稼がせてもらおう――と思った矢先、それは起こった。
「ナンカ、痒イワネエ……!」
苛立たしげな言葉と同時に、カーチャンのパーマヘッドからニュッと二本の角が生える。
顔もいつの間にか真っ赤に変色している。
「しまったっ……!」
この巨人はいわゆる鬼なのだ。しかも頭に乗られるのがイヤで、長く滞在していると振り払いにきてしまう。
ゴオオオとカーチャンの手が迫ってきた。はたき落とされればただでは済まない。
「ふのぁ!」
イトはすんでのところでカーチャンの頭部から離脱。シャツやスカートに鉤縄を引っかけつつ、何とか床まで到達する。すっきりしたカーチャンはそのままちゃぶ台へ着席。もう移動には使えない。
周囲は積み木やらアヒルのオモチャが無造作に転がっていた。このサイズだと巨石遺跡のど真ん中という趣きだ。
イヤな位置に降りてしまった。物陰が多すぎる。
一番近い三角形の積み木の裏に逃げ込んだのは、ある種の賭けだった。もしここに警部が潜んでいたらアウト。しかし、そこまで不運ではなかったらしい。ほっと胸を撫で下ろしつつ、足場を一つ確保。
カーチャンからは落とされてしまったが、距離はかなり稼げたはず。
後はこの巨石の陰を伝い、玄関まで行く算段を立てたいところ……。
だが、
「ふふふ……」
不穏な笑い声が上からした。
「!?」
イトが慌てて天を仰ぐと、三角の積み木の頂点にしゃがみ込むチアリーダーの少女。
「なっ……六花ちゃん!? いつの間に!?」
「全然待ってないよ。わたしも今来たところ」
巨人の歩みに、人の歩幅で追いついてきたというのか。
言うが早いか、電光石火の手が伸びてくる。
※
《六花選手速すぎいいいいいいいい!! カーチャンに掴まって移動するイト選手を普通に走って追いかけていました!!》
エージェントPの実況に重なるように、会場を熱気の波が行き来する。
《おっそろしい速さでした。なんか地面に黄金の軌跡ができてるし……何なんですかあれは!?》
《さあね、見たことはないけど……。でもこのゲームって、手足じゃなくて頭で動かすものでしょ。要は認識なのよ。あれはできるはず、あれはきっとできないっていう……。その認識や自信が強固であればあるほど、ゲーム内の実数として反映されるわ。そういう連中を何人も見てきたからこれは確かよ》
《つまり今の六花ちゃんは、わたしに不可能はないという天使のような悪魔の自信に満ちていると……? さもありなんです! これだけ実績のあるスターなら、それは天狗というより事実! 常時無敵状態になってもおかしくはない! スターだけに!》
そしてモニターでは、触れれば即アウトの手のひらがイトを襲う。
しかし。
《イト選手、六花選手の突きのラッシュをことごとく回避いいい! 文字通り触れさせもしません!》
ババババと繰り出される手を、イトはすべてかわしていた。一突き一突きに黄金の粒子が散り、橙色に光る彼女の目を上から彩る。
《イトのあの目――パーソナルグレイスが発動しているみたいね。何回か見た限りだと、あれって相手が強ければ強いほど精度が増すんじゃない?》
その推測を裏付けるかのように、六花の手はことごとく空を切っていた。体で捕まえに行っても結果は同じ。しかし二人の顔から笑顔は消えない。
観客はもはやこれがアイドル同士のお遊びだということを完全に忘れ去っていた。爪を隠したままの高速のキャットファイト。積み木の上へ下へと舞台の段どりのように、軽やかに少女二人が飛び回る。
こうなったら行けるところまで行ってしまえ。黒百合が胸中でその言葉を回していると、モニター内で大きな動きがあった。
「マッタク、アノ子ッタラ、出シッパナシデ……」
カーチャンが再び動き出したのだ。二人のところに迫って来る――いや、これは放置された積み木を片付けに来たのだ。
「アイタッ」
が、勢い余って、家のように積まれていた積み木を蹴っ飛ばしてしまう。
「うわっひゃああああ!?」
「……!!」
数個の積み木が、火山弾のように凄まじい勢いでイトたちに襲いかかった。さすがにじゃれ合っている場合ではなくなり、お互いに距離を取る二人。
(ん……?)
ここで黒百合はふと気づいた。今、イトが何かを閃いたような顔をしなかったか。
「冗談ジャナイワヨ、モウ」
カーチャンが顔をしかめて足を戻そうとする。しかしその方向にも別の積み木が。
再び蹴り飛ばされる積み木。さっきよりも盛大だ。
イトはすぐさまそこに鉤縄を引っかけた。
積み木と一緒にぶっ飛んでいく彼女の体。向かう先は――ゴールのある玄関方向!
「あっ、すごい。でも……逃がさないから!」
ズギャッ! と六花が地を蹴って追った。人が走り出す時のSEではない。
追いかけるボールカメラの迫真のアングルに、観客たちが息を呑む。
いつから人は車を使わずカーチェイスを撮影するようになったのだ?
第四ステージの決着はもうすぐそこだった。
※
巨人のキック力は半端ではなかった。弾き飛ばされた積み木は畳の上を盛大に跳ね回り、思った通り玄関近くまで転がった。
イトは勢いの落ちた積み木から鉤縄を切り離し、コケそうになりながらも走り出す。
キイイイイイン……と後方から聞こえてくる謎の高音。六花だ。時速300キロくらいは出てそう。
「しかし!」
イトも必死に走る。ゴールエリアである玄関まではあと少し。
「イトちゃん、待てーっ!」
猛追してくる六花が声を出してくる。彼女もこの微妙な距離に気づいたようだった。ぎりぎりで追いつけない――かもしれない!
もう何の策もない全力疾走。
玄関の広々とした三和土が見えた。そこがゴールだ。
その手前に、
『イトちゃん!』
怪盗たちが集結していた。
手に燦然と輝く秘宝を持って。
「えっ、な、なに……?」
戸惑う六花の声を背中で聞きながら、イトはその光り輝く道を駆け抜けた。
《秘宝、ゲット》《秘宝》《ひほ》《ゲット》《ゲッ》《ゲッ》《ゲッターゲッ!》
アホみたいに重なるシステムボイス。そしてそのままゴールエリアへと踏み込む。
※
「はあっ、はあっ……」
「はあ、はあ……」
六花とイトは、互いにマラソンでもした後のように、膝に手をついて呼吸を荒くしていた。
ゴールはセーフティゾーン。警部が立ち入っても怪盗を逮捕できない。
手は――届かなかった。あとわずかのところで逃げ込まれてしまった。
六花は玉の汗が浮いた顔を上げ、イトを見た。
彼女は、輝いていた。ステージ中に散りばめられた秘宝に囲まれて。
「逃げ切られちゃった……」
六花は微笑みながら負けを認めた。
巨人に蹴られた積み木を利用するなんて思いもしなかった。
そしてゴール前に集められた秘宝。それが、彼女がポイントでこちらを上回る秘策だったに違いない。仲間に呼びかけて協力を募ったのだ。
「わたしは逃げてませんよ」
「え?」
意外な返事にきょとんとすると、彼女は照れ笑いを浮かべながら、その先を告げた。
「わたしはいつだってあなたの背中を追いかけてるんです。地球一周分離れたあなたの背中を。これでちょっとは差が縮まりましたかね……へへへ……」
「あ……」
六花は思わず目を細めた。秘宝の間からこぼれた、本当の光を前に。
「ああ……」
誰かをまぶしいと思ったのは、いつぶりだっただろう。
誰かを。何かを。憧れるように見られたのは。
芸能界の偉大な先輩ならたくさんいる。倣うべき大御所も山ほどいる。でも、なぜかずっと見えなくなっていた。この光。胸をときめかせてくれる真っ直ぐな光。
知らず熱い吐息をこぼした時、イトとはっきり目が合ってしまった。
彼女は笑った。楽しそうに。つられて、心まで笑った。
「あはは……。ホント……わたしもう、ダメかも……」
隣にこの子がいる。
それだけでこんなに幸せ。
百合営業座の首星イトは、こと座のベガと合わせて百合座と呼ばれる伝説があるが、常に逃げるように動くという。




