案件89:憧れと諦めと
第四ステージ開始地点。
前ステージでの逮捕から解放された人々が次々に復帰する中、千夜子は目の前の少女に声をかけられずにいた。
ぼんやりとした表情の、イト。
どこか夢を見ているようでもあり、ショックで口もきけないようでもある。六花に捕まった他の怪盗と同じ症状。
周囲のざわつきを、耳が敏感に拾ってしまう。
「まさかイトちゃんまでこんなことに……」
「そんなになのか、六花ちゃんは……」
「これもう無理ゲーだろ……」
前ステージで、イトに対して「最後の砦だから」と注意を促した女性プレイヤーがひどく気落ちした様子でうつむく姿が、視界の端に映った。
こういう空気を千夜子は知っていた。
学校の運動会。スポーツが得意で、こちらの組の精神的支柱にもなっていた子が、他の組のエースに負けてしまった時。この子が勝てないのなら、もう誰も勝てない。そういう諦めの境地。
イトを中心に、その時と同じ湿った苦みが音もなく周囲に食指を伸ばしている。
こんな時こそ、チームメイトとして何か声をかけなきゃいけないことはわかっていた。
でも、もし、「もうダメです」なんて弱音を吐かれたら。その時こそ、自分たちは本当に崩れ去ってしまう。
いや……それじゃ済まないかもしれない。なぜだか、怖い。何かもっと別の取り返しのつかないことを言われそうな気がする。だから怖くて何も言えない。
※
〈ワンダーライズ〉の代表的破壊魔である千夜子のその苦悩を、本会場の中央に浮かべられたビッグモニターは克明に映し出していた。
さっきまで騒いでいた六花ちゃんファンたちですら、不穏な空気を感じ取って静かになってしまうほど。
それほどに、気の抜けたイトの姿は衝撃的だった。
(いやこれ……ちょっと本気でまずいかも……)
黒百合はただ一人、胸の中にだけその深刻なつぶやきを広げた。
こうした光景を、もっと熾烈な場所で目の当たりにしたことがあるからこその危惧だった。
自分と同じ領域で、圧倒的なものを見せつけられた人間の反応は二つ。憧れるか、諦めるか。大抵はこの間を取る。その人に憧れつつも、自分はかなわないと知って別の武器となるものを模索する。それは賢い対処だ。最善と言ってもいい。
心の底から憧れるのも悪くない。相手を研究して勉強したり弟子入りしたり、次に繋がる対応はいくらでもある。
まずいのは――諦めの極致。完全にへし折られてしまうこと。
一生かかってもあそこには届かない――そう思ってしまう。自分の将来と比べるのならまだいい方。自分の過去を顧みて、どこを切り取ってもあまりにも格が違うことに気づいてしまった時、人は完全に今いる場所から離れてしまう。
参加者たちは、六花のこれを、この運動会の中だけで収まる話だと思っているかもしれないが、違う。
これは他の分野まで侵食してくる類の毒だ。
イトの、アイドルとしてのアイデンティティに。
今の六花には、それを思い知らせるだけの力と、怖さがある。
スキルとかレベルとかそんな差じゃなく、人としての“つくり”の違い。
その姿が、不意にある都市伝説と重なった。このスカグフにまつわる――まだ「生きている」と言える都市伝説。
どこの地区だったか――あるとんでもないプレイヤーが誕生した。
その人物は圧倒的なオーラと自信を纏ってゲーム内に降臨し、その地区の大勢を魅了し……そして蹴落とした。
彼女は、アイドル職だった。集う者には数値以上のバフを授け、競う者には圧倒的な挫折を分け隔てなく撃ち込んだ。
彼女が同じ地平に立つ存在であれば、まだ救いはあったかもしれない。彼女が普通の人間であることを証明する機会が、少なからずあったのだから。
しかし彼女の姿は最初から地上などになく――南中の天から人々を照らし続けていた。誰も届かないはるかな高みから。
やがてその地区ではアイドルが激減し、彼女のステージ前ではバフ戦争とも取れる異様な争奪戦が行われることになる。
彼女が悪かったわけではない。ただ、その輝き自体が天災だったというだけのこと。
そして――事件は起こる。地区の攻略系が壊滅するほどの大惨事が。
それをきっかけに彼女は姿を消した。現れてからたった三カ月だった。
アイドルの名前は――“RIKKA”。
月折六花の前身ではないかと言われている。
しかしすべては信憑性皆無な都市伝説。リッカという名前がそこまで珍しいものでもなく、プレイヤー検索をしようにもヒットする候補が多すぎて、今からではとても真実にはたどり着けない。
自称伝説の目撃者が山ほどいても、その真偽を保証する者はいない。膨らんだ都市伝説自体が一種の隠れ蓑になっている。
でっち上げ。スーパーアイドルをネタにした無数の創作の一つ。世間での扱いはそこに落ち着いた。
けれど人の希望を飲み込んでしまう光というのは確かに存在する。
芸能界なんてそいつらの棲み処。
スターの足元にはいつだって夢の死骸が積まれている。
本人がそれを決して望んでいなくとも。
《さ、さすがのイトちゃんも、すっかり意気消沈でしょうか》
エージェントPが取り繕うような言葉が、黒百合を不穏な想像の世界から呼び戻した。
《そうね。仲間のすぐそばで盛大にやられたからね》
ざわつく胸を極力排した声で、ひとまずの一般論で間をもたせる。
実況というのは、選手たちと同じくらい最後まで諦めてはいけない仕事だ。たとえ結果が見えていても、お客が楽しめるようにゲームに熱を吹き込み続けなければいけない。冷めた試合を観客に食わせるなんてもってのほか。
《このまま第四ステージをスタートするのは、チームとしても怪盗サイドとしてもよろしくないわね。痣宮さんもゴールするのが精一杯だったし、どこかで立て直さないと》
しかし、誰がそれをできるというのか。
イトの盟友としてファンにも知られる千夜子が声をかけられずにいるこの状況で。
烙奈も、六花に抱きしめられたまま沈んでいるイトの姿を見て、大きなショックを受けていた。彼女は人一倍チームの安全を気にかけているから、なおさらだろう。
威勢のいいアビスやモズクが吹き飛ばしてくれるか。しかし彼女たちもユラの介抱で手一杯だ。
開始のカウントダウンまで間もない。
……ホントに光に潰されるわよイト。
月折ちゃんを第二のRIKKAにするつもり……!?
黒百合が思わず唇を噛みしめた、その時。
モニターから絶叫が響き渡った。
「百合営業ーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!」
※
びりびりびり……。
体の芯が震える声というのを、千夜子は初めて聞いた。
ただ大きい声というのではない。人の体の奥底から解き放たれた音だからこそ、同じ振動数の場所が震えるのだと知った。
両拳を突き上げ、天に向かってそう叫んだ彼女は、それですべての呪縛を断ち切ったように、ゆっくりとこちらに向き直る。
「チョコちゃん、烙奈ちゃん。わたし決めました」
彼女はいつになく真面目な表情で告げた。
「わたくし白詰イトは……六花ちゃんに“正式な”百合営業を申し込みます……!!」
『なにっ!』
千夜子と烙奈は揃って驚きの声を上げる。
「今までは自重してました。同じ事務所だし、相手は現実世界でもトップアイドルのスーパースターだし、さすがに弁えようって……」
「自制心あったんだ……」
「しかし!」
「ひえっ」
ゴオオオオオ……と黄金の輝きで自らを焼きながら、イトは手のひらに発生させた炎を握り潰した。
「あんな“可愛い”を見せつけられてはもう辛抱できません! 人気とか先輩後輩とか知るか! 絶対に申し込む! 断られたらその時はその時!」
そう言い切ってから、太陽のように煮えたぎる目を、周囲で呆気に取られている怪盗たちに向ける。
「だからみんなに、お願いがあります!」
※
月折六花は民家の台所のシンクの縁を走っていた。
別に人の家に無断侵入して子供じみた悪戯をしているわけではない。
何よりそのシンクは、池ほどの大きさもあるバカでかいサイズだ。
〈怪盗と警部のクロスカントリー〉第四ステージ。巨人の家。
台所と居間、そして玄関へと続くマップ。現代的というには二昔ほど前のレトロさが際立つが、それほど時代がかって見えないのは、日曜日の夕方に欠かさず放映されている海の者たちの国民的アニメのおかげだろうか。
築三十年から四十年くらい。生活臭が染みついて、利用者の手癖がそのまま反映された食器や器具の配置。知らないのにどこか懐かしい風景。
そんなことを考えつつ、六花は足を止めて周囲の音を聞いた。
不思議な感覚だった。感じるすべてのものに意味がある。何かを教えてくれる。
何をしても上手くいく気がした。うぬぼれとか、無鉄砲だとか、そういうのはずっと後ろに置いてきたはずなのに、その時の感覚に近い。
でも一つ言える。今度は幻じゃない。
本当にできる。本当に何も怖くない。
いづ姉は言っていた。
この〈HB2M〉に何より必要なのは、確固たるもの。揺るぎない自信が、ブレない自己が、すべてステータスへと加算される。
別にこれまで揺れていたわけでもなければブレていたつもりもない。ただあの瞬間から猛烈に“定まった”だけ。
何度思い出しても――体中から何かが溢れ出てしまいそうになる。
細い線のように続いてきた人生が、過去も未来も吸い込んで巨大な点となって結実したような、あの言葉。
――わたしは六花ちゃんを誰よりも愛しています。結婚してください。
「うへへへ……はい……こんなわたしでよかったら……」
多少違っていたかもしれないが、彼女はこう言っていた。
確かに聞いた、感じた、理解した――。
「だからもうこれは既成事実。〈HB2M〉編、完!!」
「ほーう、だとしたら誰がわたしの相手をしてくれるんですか?」
「はっ!」
六花は慌ててアイドルにあるまじきヨダレをすすり、天井方面へと目を向けた。
「その声はイトちゃん!」
「その通りです」
お嫁さんがいた。いやこっちがお嫁さんでも全然いいけど。
台所の出窓の部分から、こちらを見下ろしている。
彼女は怪盗だ。見つかること自体が大きなディスアドバンテージとなる。それがわざわざ姿を見せに来たということは――。
「またわたしに捕まえてほしいってことだね」
「半分は正解です……が、もう捕まりません」
「え、そんなにイヤだった……?」
「いえ、捕まったことに関してはすんごく……気持ちよかったです。ぐへへ……」
「ほ、ほんと? 嬉しい……わたしも同じ気持ち……。だから、ね? もう一回……」
「エッッッ!? い、いえそうはいきません……!」
六花のおねだりをイトは毅然と跳ね返してきた。
「今わたしがここにいるのは、六花ちゃんに正式な百合営業を申し込むためです!〈百合戦争〉の時みたいに突発的なものではなく、きちんとした企画として!」
「不束者ですがどうぞよろしくお願いします!」
「待って! まだです、まだ話の続きが!」
「えー」
イトはオホンと咳払いし、しっかりとした口調で話す。
「今百合営業を申し込んでも、それは六花ちゃんのお情けにすがるようなものです」
「イトちゃんがわたしにすがりつく!? わかった、どんな願いでも一つだけかなえてあげる!」
「違います違います! せめてその撮影中だけでも対等になりたいんです! だから、わたしと勝負してください六花ちゃん!」
「勝負……?」
ゆらりと六花は体を揺らがせた。
どうしてそんなことをするんだろう。そんな無駄なことを。
六花は大きな瞳でイトを見つめる。
今のわたしは誰にも止められない。わたしにだって止められない。何をしたって勝つに決まってる。勝ってしまうに決まってる。でも一応聞いておく。
「何の勝負をするの?」
「もちろん、この競技のです。ポイントで争いましょう」
「わたし、これまでのステージでもう凄いリードしちゃってるけど」
「巻き返します。なぜなら六花ちゃんは、これからずっと0ポイントだからです」
「?」
「六花ちゃん」
彼女は自分の胸に手を当て、勇ましく微笑んだ。
「わたしを捕まえに来てください。他の誰にも目もくれず、誰よりも早く、まずわたしのところへ」
「!!」
――わたしを迎えに来て。他の人なんて気にしないでわたしだけを見て――!?
「はっ、はい! すぐ行きます!」
ビシィと気をつけの姿勢を取ると、六花は猛烈な速度で出窓下の壁に走り込んだ。そしてそのまま、靴底を吸い付かせるようなダッシュで垂直の壁を駆け上がる。
「ほあっ!? 予想以上の機動力! しっ、しかし偉そうに挑戦した手前、ソッコーで捕まるわけにはいきません!」
イトは天井方面へと鉤縄を放ち、そこから飛び立った。バッと広がる純白の翼。あれはこのステージから怪盗側に与えられた新アイテム、ハンググライダーだ。
「それじゃ逃がしてあげられないよイトちゃん!」
空中へと逃れていくイトを見た六花は、投げ縄の要領でワッパを投げ放った。
チェーンが異様に長い手錠は、まるで猛禽のように空を裂いて渡り、ハンググライダーのコントロールバーに噛みついた。
「ほあっ!?」
「このままどこへでも行こ。二人きりで……」
もう片方の手錠を握った六花が宙へと身を投げ出し、二人は台所の空を滑るように飛んでいった。
※
渦中の二人が去った後――。
伏せられたボウルの陰から、怪盗たちがワラワラと姿を現す。
「よし……六花ちゃんは行ったな!」
「一番やべー六花ちゃんさえいなきゃ、これは普通のケイドロだぜ!」
「進めっ!〈ヴァンダライズ〉への用心棒代も忘れるなっ!」
「〈ヴァンダライズ〉じゃないですうう!」
叫ぶ千夜子の左右から元気よく駆け出していく怪盗たちをモニター越しに見ていたエージェントPが、満を持してマイクを握った。
《怪盗軍団行動開始いいいいいい! 復活! 怪盗たち、イト選手を中心に完全に息を吹き返しました!》
途端にわっと持ち上がる客席たちの歓声。
ウオオオオオオオオ!
イエス! マイ! ダーク! クイーン! イエス! マイ! ダーク! クイーン!
ついでに騒ぎたいだけの連中も大きな音に反応して叫び出す。
《やっぱあの子おかしいわ(誉め言葉)》
《イト選手、完全に沈黙したかに思えてからの百合営業宣言でした! まさかあんなのが復活の産声とは……》
《普通はね、自分より圧倒的に優れた相手とは距離を置くものなのよ。近づく者がいるとしたら、立場を弁えて下からでしょ。でもあの子は図々しくも真横から行った。大した神経だわホント》
《イト選手、図々しい子扱いされてしまったー。しかし、あの怪盗側のお通夜ムードを吹っ飛ばしたのは、その神経の太さあってのことでしょう!》
実況の返しに黒百合は微笑む。そうね。正にその通り。
あの子の表情一つで夜も昼にひっくり返る。本当にお天道様みたいな子。同じ太陽なら寄り添えるか。今の彼女を引き摺り下ろせるか。人の地平に。
《さあて……立て直したのはいいんだけどさPちゃん。イトはどうやってこれまでの月折ちゃんの累積ポイントを上回る気かしら。残り三ステージ、ゴールするだけじゃとても追いつかないけど》
《そこのところも期待ということで! それでは次回に続くぅ!》
この番組は、 (提Д供) ご覧のスポンサーの提供でお送りしております。
何だっていい百合営業のチャンスだ!




