案件138:〈フェンリルの酔〉
「脳を強化するって……そんなことが本当に!?」
思わず目を剥いたイトに、いづなはわずかに微笑みながら応じた。
「って、大げさに言ってみたけど、実際に脳を強化するのは六花じゃなくて、その人の脳自身なの」
「は、はあ……」
どのへんがトーンダウンしたのかもよくわからず、悪戯っぽく明かされた内容に曖昧な相槌を打つ。
「“人間は脳内分泌物の奴隷である”って聞いたことある?」
「まるでありません」
そしてこれからも聞きそうにない。
「とある科学者が言ったことなのだけどね、人間の情緒、感情というものは、すべて脳が作り出す分泌物に因るというの。たとえば、悲しいものが目の前にあったら“悲しめ”という物質が作られ、十分に悲しんだら“もう悲しむな”という物質が作られる。怒りや喜びもそう。“そう思え”っていう脳内物質によって、人の感情は制御されているの」
「それってつまり……心が、ってことですか」
「そういうことね」
半分冗談のつもりで言ったのに、いづなは大真面目にうなずいた。
何だかずいぶん冷めた内容に思える。人間のすべては脳だけにある、みたいな。
「脳内物質は外部の様々な刺激を受けて作られる。映像や音楽はその最たるものと言えるでしょうね。楽しい映画を見て気分がアガる。哀しい歌に落ち込む。〈フェンリルの酔〉も、そうした反応を利用して分泌物を作らせると思われるわ」
アバターの動きにプラスするのではなく、中にいるプレイヤーの脳自体に影響を及ぼすパーソナルグレイス。脳内分泌物が感情を動かすのはいいとして、しかし強化というのは?
「六花のパーソナルグレイスは、自身のライズ中に発動するの」
「えっ!? そ、それはすごいことじゃ……!」
ライズにかかわるパーソナルグレイスは、アイドル職なら誰もが一度は夢見るスキルだ。しかし悲しいかな、ライズバフを強化するパーソナルグレイスというのは今まで一度も発見されていない。
そんなものがあったら、他のグレイブアイドルが皆産廃化してしまうからだろうと言われていたが、まさか六花がそれを持っていたとは。
彼女はスカグフに認められた真のアイドルなのかもしれない……!
「この〈フェンリルの酔〉には強弱の二つの形態がある。弱の形態はささやかな効果よ。バフをかけた相手を一瞬うたた寝のような状態にして、精神をリフレッシュさせる。スカグフにログイン中は元々眠っているようなものだから、瞬間的に接続を切って脳をスッキリさせているのかもしれないわね」
それはなかなか親切な効果。六花ちゃんからの子守歌といったところか。
「でも強形態は激しく強力よ。プレイヤーはリアリティから受ける恐怖感を和らげられ、ほどよい緊張感を維持し、集中力と判断力が高まり、強い自信――自己肯定感を得ることになる」
「そ、そんなにたくさんの効果が……!?」
「〈フェンリルの酔〉が、そのために必要な脳内物質をその人の脳から吐き出させているの。ただしこれは、このスキルだけがもたらす現象というわけじゃない。ロックならドーパミン、クラシックならセロトニンが分泌されるように、音という刺激が元々持っている力。〈フェンリルの酔〉は、ステージのエフェクトや音の振動によって、それらをより効果的に発揮させるものなのよ」
リアルのライブでも人々は元気や活力を得る。体力は確実に使って疲れるはずなのに。科学者に言わせれば、それもきっと脳内分泌物がそうさせるのだろう。その効果を、よりゲームプレイの方向に特化させた感じか……。
「ただ、この強形態は強い副作用をもたらす。効果が切れた後の虚脱感、喪失感……。その場に立っていられないほど疲れ切ってしまうのよ」
「待ってください。じゃあ、もしKの攻略イベントで六花ちゃんが〈フェンリルの酔〉を使ったら……」
いづなはわずかに目元を引き締め、「実際にそうなった」と重い答えを発した。
「RIKKAが〈フェンリルの酔〉を使って挑んだチャレンジクエスト。参加メンバーは当時の第三地区最強と言ってよかったけど、ぶっつけ本番だったし、そこまで記録狙いというわけでもなかった。でも、RIKKAによってメンタルをフル強化された攻略チームは、驚くべき集中力と連携で次々に記録を塗り替え……ついには最深部までたどり着いてしまった」
「……!」
「結果はクリア……。他の地区がこれを達成するまで一年半かかった。その時間差を〈フェンリルの酔〉は埋めてしまったのよ」
単純なステータスの強化ではない。プレイヤーの判断力と集中力。そして連携も上手くいったということは、些細なコミュニケーションでも通じるような洞察までできたのだろう。〈フェンリルの酔〉は最強のプレイヤーを一度のライズで大勢生み出してみせたのだ。
「でもその反動は大きかった。攻略に参加したプレイヤー約三十人の大半が、翌日スカグフにログインすることなく家で寝ていたというわ」
「な……!?」
「その後も復帰できない人が現れて、キングダムの攻略班は半壊状態に陥ってしまった」
「……そ、それは……」
これは……そうだ、ユラから聞いた、よその地区でのキングダム崩壊の要因じゃないか。途中までは一番上手く行っていたキングダム運動。主催はKだったのだ。じゃあ、それを滅ぼしたのは……。
「ただ、これにはいくつか裏の事情があるの。攻略班には高校、大学受験生がそれなりにいて、この偉業達成をいい区切りにしてゲームを休止してしまったのね。彼らと一緒にプレイしていた人たちもログイン頻度が減ったりして、一時的に攻略班が弱体化したというのが実情なのよ」
「じゃあ、六花ちゃんが原因ってわけじゃないんですね……」
「キングダムが一夜で崩壊したなんて変な都市伝説は作ってしまったけれどね」
それを聞いてイトはほっとした。六花のパーソナルグレイスによって、彼女のファンたちが大勢被害にあってしまったなんて、あまりにも残酷な結末だ。
しかし……。
「Kが六花ちゃんに執着するのは、その時の恨みとかで……?」
六花が直接の原因ではないとはいえ、攻略イベントを境にキングダムの求心力が低下したのは事実。上手くいかない時、人は目につくものを原因と決めつけてしまいがちだ。それはKだって……。
「いいえ。その逆。KはRIKKAにもう一度〈フェンリルの酔〉を使ってほしがっていた」
「え!?」
予想外の答えだった。
確かに〈フェンリルの酔〉は強力だが、反動も強すぎる。Kは自己顕示欲は強そうだけれど、ゲームを一番に攻略したいとか、人前で大暴れして力を見せつけたいというような性格では、きっとない。それよりは、大勢のプレイヤーが関わる土台――プラットフォーム作りに関心があるはず。キングダムが正にそうだから。
プレイヤーに直に負荷がかかるスキルなんて、リスキーすぎると真っ先に排除しそうだったが……。
「なぜかは、はっきりとはわからない。でも……」
そのことは付き合いの長いいづなの方がよくわかっていたのだろう。思慮するようにローテーブルの上のティーカップに視線を落とし、「彼はその時、笑っていたというの」という不可解な一言に繋ぐ。
「笑っていた……?」
「攻略イベントでたどり着いたダンジョン最深部。〈フェンリルの酔〉の反動で皆が座り込む中、彼だけは……。彼だけはまるで身悶えするようにして、大笑いしていた」
ぞっとした。あの大人びて冷静なKが、そんな異様な態度を?
「それからよ。KがRIKKAにしつこく迫るようになったのは。いえ……別に、彼が強引な手段に出たり、荒っぽいこと言ったわけじゃないわ。あくまでいつも通りの紳士的な態度で……でも明らかに〈フェンリルの酔〉を切望していた」
「Kは疲れたり寝込んだりしなかったんですか?」
「そうね……。確かに、そういうことはなかったわ。唯一……彼だけは、そうだった」
〈フェンリルの酔〉に耐えきった……ということなのか? だから怖くないと?
いや、そんな単純な話だとは思えない……。
「でも、その時RIKKAは自分のパーソナルグレイスに怯えていた。ある噂が立ったのよ。攻略班に参加していたメンバーが脳の精密検査を受けたら、エンドルフィンという物質が大量に作られていたことがわかった、とかいう」
「エン……ドルフィン?」
「強い鎮痛作用と多幸感をもたらす脳内物質で、人の死の直前にも大量に作られるというわ」
「し、死……!?」
「臨死体験の話を聞いたことない? 強い光、あるいはお花畑が見えて、とても幸福な気持ちになったって」
「あっ、なんか聞いたことあります!」
川の向こうからお婆ちゃんが手を振っていたとか。うちの場合はひいおばあちゃん世代までフル現世なので、待っているのはさらに昔の人ということになるが。
「その体験の原因とされているのが、エンドルフィン。つまりね、RIKKAは自分のパーソナルグレイスが、プレイヤーを死に導く一歩手前だったんじゃないかと考えてしまったの」
「そんなまさか!」
「そう、まさかよ。そんな危険な効果がたかがゲームにあるはずない。エンドルフィンの話だってソース不明の与太話なの。でも、人々は面白おかしくそれを膨らませて、あちこちにばら撒いてしまった。魔性の天才アイドルとか、攻略班を全員潰したとか、まったく関係ない他のアイドルたちまで引退させたとか……。そういうの、傷ついてる時って、響くから。彼女は人前から姿を消し、スカグフにもログインできなくなってしまった……」
「六花ちゃん……!」
今のトップアイドルの姿を知らなければ、とても聞いていられない話だった。交流サイトの人たちもそこまでの悪意があったわけではないだろう。でも、彼らは健康だから、それが弱ってる人にどこまで突き刺さるかを想像できないのだ。
「同時期、Kもアメリカへの留学が決まって、スカグフから引退したわ。さすがに留学先でもゲーム三昧というのは、本人的にも違うと思ったのでしょうね。それでキングダムは自然解体。その後、恐る恐るログインしてきたRIKKAをわたしとなずなが“偶然”捕まえて、十七地区まで三人で引っ越した。ボロボロになってもRIKKAはアイドルを続けたがっていた。わたしたちも続けてほしかった。彼女が陰で猛特訓しているところを、何度も見てきたから。でも、RIKKAの心は弱っていて、Kのことで若干男性恐怖症にもなっていた。それでわたしたちも協力することになったってわけ。まあ……まさか、オマケのわたしたちまで、ここまで人気者になるとは思っていなかったけどね」
と、いづなが少し力を抜いて肩をすくめると、
「ウソだぞ、いづなはケッコウその気だったゾ」
「なずな~?」
「事実を述べているだけだ」
横槍を入れたなずながそっぽを向く。イトは知らず微笑んでいた。この頼もしい二人が六花を窮地から救ってくれたのだ。彼女たちにしても半端な覚悟で六花を連れ出したのではない。ここまでアイドルを続けてきた事実がそれを物語っている。六花がいづ姉、なず姉と慕う理由がよくわかった。
なずなを視線のみでソファーの端まで追いやった後、いづなはコホンと咳払いする。
「十七地区に来てすぐに事務所からオファーを受けて、RIKKAは月折六花として再スタートしたわ。そして押しも押されぬトップアイドルになった。素晴らしいファンと友人に囲まれて、今が絶頂期と言ってもいい。けれど、Kもまた帰ってきた。彼は完璧主義。やり残したことを達成するはず。キングダムと〈フェンリルの酔〉の両方を手に入れる……」
「六花ちゃんがKのところに行ったのは、Kを説得するため……?」
「その可能性はあると思う。六花はもう〈フェンリルの酔〉を使うつもりはない。それを伝えるために。まあちょっと前に暴走して弱形態を使いかけてたけど……」
「えっ、そうなんですか?」
「そ、それはいいとして……。Kは、自分と対等と思った相手とはきちんと向き合うわ。〈フェンリルの酔〉にトップアイドルの地位。今の六花を軽んじることはできない。でもそれ以上にKは我が強い。簡単に説得に応じるとは思えない」
そこまで言って、いづなの顔は下を向いた。
「分が悪いのはそれだけじゃない。六花は、RIKKAであった時のことをバラされるのを恐れてる」
「どうしてです? 六花ちゃんは何も悪くなかったんでしょう?」
「〈フェンリルの酔〉は後にも先にもあの一度しか使われてない。これまで話してきたのも、全部わたしの憶測よ。それにウソでもデマでも、人を殺しかけたという噂のあるアイドルが、今まで通り支持されると思う?」
「わたしは六花ちゃんを見るたびに天国の扉まで行ってます!」
「そ、そう……。六花もイトちゃんと楽しく過ごした後は天国の扉を百裂ノックしてるわ……いや、それはいいの。いえ……それが今一番大事なことなのかもしれない」
普段から日本人形のように姿勢の良いいづなが、さらに背筋を正してこちらを見た。
「六花には、まだまだ未知数の特殊なパーソナルグレイスがある。今言ったみたいに暗い噂がある。見た目通りの、ただ可愛くて、明るくて、キラキラしたアイドルじゃない。それでも、あなたは彼女のそばにいてくれる?」
「当! 然! です!」
ぱん、とイトは膝に手を置き、精一杯背筋を伸ばしてそう返していた。
「わたしは何があってもそばにいます。それに……六花ちゃんの歌が人を傷つけるなんてこと、あるわけないんです。絶対に。わたしは。わたしだけは、絶対に、何があろうと、そう断言できる……!」
「……?」
腹の底から吐き出すような思いに、いづなは少し鼻白んだようだった。が、すぐに笑みを戻し、
「ありがとう。本当に……。それを是非、六花に伝えてあげて。あなたからそう言ってもらえるのを、あの子は待ってる」
「はい! 絶対言っちゃります!」
イトは両拳を胸元に当てて、そう宣言した。
絶対に逃がさない。
月折六花――フェンリルの尾を……ケルベロスが噛む……!
次回からいよいよラストミッションとなります。




