56.第六章九話
牢から執務室に戻ったフレドリックは、執務机に肘を立てて組んだ手に額を乗せ、ずっと脳内でシャーロットの言葉を反芻していた。
これまで抱え続けていたらしい、不満どころではない、積み重なった深く濃い憎悪をふんだんに纏った数々の言葉。そして――。
『わたくしが国を売らず、いつものように普通に執務室で貴方にこの話をしていたら、今と同じ表情を自分が浮かべたと思う?』
あの、クェンティンに放つと同時に他の者にも向けていたのであろう、心底軽蔑の色をのせた質問。疑問形ではあったけれど、答えを求めていたわけではないのだろう。あれはすでに自らの中で答えを導き出している声音だった。
投げかけられた言葉を、クェンティンは肯定できなかった。そして、フレドリックも同じだった。
昔、シャーロットが倒れたことが何度かあった。医者には過労だと言われていたけれど、それほど大量のスケジュールを詰めていたわけでもないので、勝手に予定外の何かを組み込んだせいで支障が出たのだろうと決めつけた。
フレドリックも同じ年頃には似たようなスケジュールを難なく消化していたから、自分によく似たシャーロットもできて当然だと、能力的に問題はないと考えていた。
体調の心配はしなかった。教育が遅れることだけを危惧していた。
(いや、それだけではない)
病弱で、愛する妻の面影を濃く受け継いだジュリエットばかりを気にかけていたから、シャーロットのことがすべてにおいて疎かになっていた。ちゃんと見ていなかったのだ。自分に似ているから放っておいても大きな問題はないと判断した。
そうしていつだったか、シャーロットが申し出たことがあった。『一日だけでも休みがほしい』と。
しかし、当時のシャーロットは体調管理がなっていなかったので、フレドリックの満足いく結果をまったく出せていなかった。だから一蹴した。『仕事以外に余計なことをしているのだから休みなど必要ないだろう』と。
あの時、シャーロットはどんな表情をしていたか。驚異的な記憶力を誇るフレドリックが思い出せないということは、端から大して気にもとめず、確認すらしていなかったのだ。
それ以降のことだった。シャーロットの仕事や勉学に遅れが出始めたのは。どちらにおいても決められた期限を過ぎることが明らかに増えたのだ。そして、学園に通い始めてからは更に酷くなった。
致命的な遅れがなかったからこそ、力を抜いているのだと断定した。ふざけている、反発している子供だと。まだまだ王太女としての自覚が足りないと。そう叱責しても、直らずに今まで続いていた。
しかし、すべて間違っていた。前提が違った。
シャーロットは倒れることがないよう、尚且つ重大な遅れが出ないように、重要度の高い仕事を選別して進めていたのだ。自身の能力がフレドリックには及ばないと訴えても、誰も聞く耳を持たないから。
「あの子の言った通りだ。これは私の過ちだ」
こんなことになるまで、気づけなかった。気づこうともしなかった。
『シャーロット王太女に甘えて、他の人間は楽をしすぎですよ。――貴方も含めて』
エセルバートから忠告も受けていたのに、所詮は他国の人間で何もわかっていないと真摯に受け止めなかった。
――いや。違うと思いたかったのかもしれない。自分は先王と同じ過ちは犯していないと、無意識に思考を放棄していた可能性は否定しきれない。
現実は、フレドリックの認識とは異なっていたのだ。
自らを責めるしかない。後悔が押し寄せる。
「陛下だけの責任ではありません」
申し訳なさそうに表情を歪めながら、クェンティンは後ろで組んでいる手を震わせていた。
「婚約者として、あの方をお支えするべきだったのは私です。過ちを犯したのは私とて同じです」
シャーロットとフレドリックは違う。そんな単純で当たり前のことを、深く考えもしなかった。
違う人間なのはもちろんわかりきっていることだけれど、フレドリックの娘であり王太女であるから、能力面まですべて同じレベルを求めてきた。彼女の努力も苦しみも、何も知りもしないで。そばにいる立場だったのに、ずっとよそ見をして、彼女の悲鳴に気づかなかった。寄り添うことをしなかった。
きっと、気づく可能性が最も高かったのは、似たような立場にあるクェンティンだったのに。
周囲の人間のシャーロットとジュリエットへの対応は、その差が顕著に表れている。それが当たり前だと、皆が皆、そう認識していた。王太女であるシャーロットと病弱なジュリエットとでは、その扱いに差異があって然るべきだと、そう思っていた。
それ自体が間違っていたとは思わない。第一王女と第二王女ではその立場も責任もまったく異なる。けれど――悪い方に、明確な差がありすぎた。あまりにもシャーロットを蔑ろにしすぎていた。振り返れば振り返るほど、シャーロット個人を尊重したことがないのだと改めて実感する。
王女でありながら甘やかされるだけの妹をまざまざと身近で見せつけられてきたシャーロットの心は、一体どれほどの傷を負ったのか。
自分たちの罪を、初めて自覚した。
今更気づいたところで手遅れだ。一国の王女として絶対に選択してはならない手段に走るまで追い詰められたシャーロット。彼女との深まった溝が埋まることはないだろう。シャーロットは絶対的にこちらを拒絶している。
恐らく、エセルバートとの婚約が、シャーロットを思いとどまらせるための最後のチャンスだった。
この国はいずれ、混乱に陥るだろう。
王太女の反逆だ。現時点では真実は一部にしか知らされていないけれど、これほどの大事件である。いつ、どこから情報が漏れるかわからない。王太女を失ったことは変わらないのだから、国中が混乱に包まれることは必至だろう。
シャーロット自身はもちろんのこと、反逆者を生み出してしまったシャーロットの周囲――特にフレドリックとジュリエットに批判が集中することが推測できる。
リモア王国の安寧は、英雄フレドリック王が作り出し、後継者であるシャーロットが支えていた。その仕組みは、シャーロット個人の幸福を贄として差し出すことで成り立っていた。
土台が崩れてしまっては、安寧という城も崩れ落ちてしまうのは一瞬である。そして、修復は容易なことではない。
(もともと、土台としてはならないものの上に成り立っていたのだ。当然の報いだな)
フレドリックは自嘲する。
どうすれば混乱を最小限に抑えられるかも思案が必要だと思っていたところで、「陛下!」と焦った声がノックとともに聞こえてきた。フレドリックの補佐だ。
許可を得て入室した彼は、持っていた新聞を急いでフレドリックの前に置く。
「本日の昼過ぎ、王都内で無料で配布された新聞です」
執務机に置かれた新聞の一面に、フレドリックは瞠目した。クェンティンも同様だ。
そこには、シャーロットの独白文が掲載されていた。
国王と同じレベルを要求され、応えられなければ国王は体罰さえも厭わないこと、僅かな慈善活動しかしない妹との扱いの差、睡眠時間を削り不休でしか捌けない、本来ならば他者のものも含まれている膨大な量の仕事、妹が好きで常に妹を優先する相手との結婚、そして――シャーロットの苦労など知らずに結果だけを求める国民。すべてが嫌になったから国を裏切ったと、包み隠さず記されている。
「王都中に配布されており、すべてを即座に回収するのは不可能かと」
「……シャーロットのことだ。王都だけでなく他の地域にも新聞が行き渡っていそうだな」
シャーロットの反逆は、国民に知れ渡ってしまったのだ。
最早揉み消すことは不可能となった。
英雄フレドリックへの国民の敬意は、娘を差別し酷使し暴力を振るう、父親とは名ばかりの毒親への失望に変わっていくだろう。そんな者が本当に国民を想って行動できるのかと、これまでの功績による信頼が強かったからこそ、一つのきっかけで疑念が生まれ、爆発的に増幅していくはずだ。
ジュリエットには、王女のくせにろくに役目も果たさずに税金だけ無駄遣いして甘やかされるなど許されないと、その無責任さに王族の資質がないと強い反発運動が行われるかもしれない。病弱という話で公務が控えられていたので、それがもう今では少し体調を崩しやすい程度というのが許容されるはずもない。
(ここまで徹底的に貶めたかったのか……)
フレドリックは脱力し、背もたれに体を預けた。
『結局、あの男と比較するまでもなく平凡なわたくしでは出し抜くことなどできなかったわけだけれど……』
出し抜けなかったのではない。捕まるまでが、シャーロットの計画だったのだ。
『あの男の評判も落としたかった』
シャーロットは確かにそう発言した。
すべて計算の上で、シャーロットは今、牢の中にいる。
王家の威信は揺らぎ始めている。シャーロットの反逆という石が水に投げ込まれたように、波紋が広がっている。
しかし、シャーロットだけが悪いとは言えるはずもない。その元凶は間違いなくフレドリックなのだ。フレドリックが極限まで追い詰めた。娘二人に対する明確な差のありすぎる姿勢が周囲にも影響を与え、ますますシャーロットは心を閉ざす環境に置かれていった。
父親で、味方であるべきフレドリックこそが、彼女にとっては最大の敵だったのだ。
国民からの信頼回復に努めるのはもちろんとして、フレドリックがやるべきこと。フレドリック自らの手で、これまでの『当然』を覆さなければならない。
とにかく誠心誠意、シャーロットに謝罪をしなければと、まずはそれからだと、フレドリックが結論を出したところで――。
(――いや、違う)
ふと、違和感が走った。
『最初はあの子の目の前で自害しようと思っていたの』
シャーロットの台詞が、次々と脳内を過ぎる。
『死ぬ寸前の時間まであの子に捧げなければいけないなんて、なんだか納得がいかなくて』
ドクリ、ドクリ、と心臓が嫌な音を立てる。自慢の記憶力は、鮮明に少し前の出来事を脳内に反芻してくれる。
『この国にいる限り、「わたくし」は死んでいるのと大して変わらないのよ』
フレドリックが思わず立ち上がった勢いで、椅子が後ろに滑った。顔色が悪いフレドリックを「陛下?」とクェンティンが呼ぶけれど、新聞の内容に困惑気味で決して大きくないその声は、気が動転しているせいで周囲に些細な注意を払う余裕のないフレドリックの耳には届かない。
(……まさか)
一つ、導き出してしまった可能性。いやしかしありえないと、フレドリックはそれを否定する。
否定、したかった。
「――陛下!」
重苦しい空気が、ノックの後に続いた切羽詰まった声で切り裂かれる。フレドリックが入室の許可を出すと、扉を開けて入ってきた騎士が落ち着きなく頭を下げた。表情や動作から、ただならぬ何かが起こったことを推測するのは容易だった。
「ご報告いたします。……第一王女殿下が――」
言いにくそうに告げられた騎士の言葉に、フレドリックとクェンティンは瞠目し、すぐさまつい数時間前までいた王族牢へと向かう。
「これは……」
王族牢の中は、衝撃の光景が広がっていた。
強く鼻を刺激する濃密な血の臭い。石造りの床には騎士からの報告どおり大きな血溜まりがあり、その中に一人の少女が倒れている。よく見慣れた金髪だ。
騎士や使用人がそばにおり、偶然にも近くにいたのか先に駆けつけていたらしい、少女の頭の近くでしゃがんでいた宰相が立ち上がった。
「……カーティス」
縋るような声を絞り出す。
しかし、悲しそうに表情を歪めたカーティスは、力なく頭を左右に振った。
「状況から、恐らく自殺であると思われます。……ナイフで、自ら首を切られたのかと」
視線を動かすと、確かに血がついたナイフが落ちていた。
どこからそんなものが持ち込まれたのか、考えるべきことは色々とあるのに、現実に思考が追いつかない。
「シャーロット……」
愕然としながら、フレドリックは娘の名前を呟く。その声が虚しく牢に響く。
当然、返事はなかった。
◇◇◇




