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変なカードを拾ったらデスゲームに巻き込まれた~Betrayer's on The Bet Layer~  作者: 国広 仙戯


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9. s - 最後のカード




 ■ 9・最後のカード






 自分はこれまで〈Betrayer's on The Bet Layer〉を甘く見ていた。


 そう麟華は痛感する。


 彼女の目の前で展開したのは、それほど無茶苦茶な戦闘だった。


「スヴァローギー! いっくぞぉ――――――――ッッ!」


 まず美里菜が吠えた。スヴァローギーというのが彼女のデーヴァ――あの巨大な炎の竜の名前なのだろう。


 応えるようにスヴァローギーが咆吼した。


 轟音。


 それはもはや音ではなく、ただの衝撃だった。竜の顎を中心に大気が爆発し、ビリビリと震える。腹の底を抉るような大音響は、まさしく怪物の咆吼だった。


「ユウ! さっきはお前のやつ見せてもらったからな! これはサービスだぜ!」


 ばっと美里菜が身振りをすると、スヴァローギーがあらぬ方向に鼻先を向けて、ぞろりと牙の並ぶ顎を、がば、と開いた。


 麟華は初めてスヴァローギーを見た瞬間、怪獣だと思った。それほどあのデーヴァの異形ぶりは群を抜いていたわけだが、その第一印象が間違いでなかったことが今、証明された。


 巨大な口から、やはり巨大な火球が吐き出されたのだ。


 砲弾のごとく撃ち出された火球は、真っ直ぐ片桐駅の方向へ飛んだ。


 それは冗談のような光景だった。


 火球が着弾した瞬間、駅が丸ごと綺麗に吹き飛んだのだ。


「――――」


 即座にベット・レイヤーからの修正が入り、駅は崩壊するそばから再生していく。破壊と再生がせめぎ合うその光景は、あまりにも、あまりにも壮絶だった。麟華は自分の脳まで一緒に吹き飛ばされてしまったかのように、絶句する。


 美里菜は、へへっ、と自慢げに笑って、


「どいつもこいつも、これ一発でカード置いて退散していったんだぜ?」


 当たり前だ。出来ることなら麟華だってそうしたい。まるで戦いになる気がしない。


 なんだ、あの攻撃力は。自分がこれまで抱いていたデーヴァのイメージからかけ離れすぎている。


 キューリアスの治癒能力など話にならない。あんなものを喰らったら、回復どうこう以前に肉体が消滅してしまう。


「――で、サービスタイムはもう終わりかな?」


 しれっという裕之輔の声。彼は白銀のクロスボウを構え、アメジストの矢を高い位置にいる美里菜に向けていた。


 先程の破壊力を見ていなかったような、飄々とした顔。


 そんな裕之輔に、美里菜はにやりと笑った。


「――ああ! かかってきやがれっ!」


「うん」


 にこやかに頷くと、裕之輔はいきなり引き金を引いた。遠慮のないタイミング。強い発射音。アメジストの一閃が走る。


 狙いは美里菜。しかし、彼女もその攻撃を予期していたかのように素早く身を翻していた。アメジストの矢は美里菜の残像を貫き、背後のスヴァローギーの皮膚に当たって弾け飛んだ。竜の鱗は鋼鉄以上の硬度を持つという。まさに伝説の通りだった。


 俊敏にスヴァローギーの掌から飛び降りた美里菜はそのまま危なげなく着地し、爆発的な踏み足でロケット弾のごとく前へ飛び出した。金色の尻尾が本体に置いて行かれないように必死についていく。


「サティ」


 冷静な瞳で美里菜を見据えつつ、裕之輔がそう呟く。その手のクロスボウが紫の光を放ち、形を変える。両の手首までを覆うフィストガードだ。全体の色は白銀、手首の周囲は白で、甲部にアメジストが填め込まれており、掌は紅色。


 殴り合う気だ、と思った時には二人の間合いはゼロになっていた。


「「――!」」


 互いに格闘技経験者だけあって実に洗練された動きだった。素人に毛が生えた程度の麟華にすら、二人が相当の実力を持っているのがわかった。


 本気でやる――裕之輔の言葉に嘘はなかった。誰がどう見ても体格差は明らか。裕之輔は男で、美里菜は女。どちらが有利かなど言うまでもない。だというのに、裕之輔の拳には手加減も妥協もなかった。


 彼は本気で美里菜の顔を殴り、そして遠慮無く彼女の突きや蹴りを避けていた。


 一方的だった。リーチの差が圧倒的だった。十数手のやりとりが行われたが、裕之輔は無傷。一方の美里菜は両方の鼻の穴から血、口の端からも血、右の目尻からも血という散々な状態だった。


 生身の徒手格闘戦では裕之輔に分があった。


 だが〈Betrayer's on The Bet Layer〉はヴェトレイヤー同士だけが戦うものではない。


 豪、と獣の唸り声。地面に落ちている巨大な影が動いた。燃え上がる炎の鱗を持つ竜が主人を守るべくその右手を地上の裕之輔めがけて振り下ろしたのだ。


「!」


 が、でかい図体だけあって予備動作も大きい。動き始めにスヴァローギーの行動に気付いた裕之輔が最後に一発の蹴りを美里菜の方にぶち込み、咄嗟にその場を飛び退いた。ちょうど美里菜の小さな体を踏み台代わりにした形だ。


 一瞬前まで裕之輔がいた位置に巨竜の三本指が叩き込まれる。超重量が音を立ててアスファルトを砕き、すぐさまベット・レイヤーがその破壊を修繕する。


 ――それにしたって本っっっ気で容赦ないわね……!


 手を出せば殺すと麟華に剣の切っ先を突き付けておきながら、当の本人がその美里菜を足蹴にするとは。成り行き上致し方ないとはいえ、微妙に納得のいかない麟華だった。


 結果的に間合いを開くことになって余裕のできた美里菜は、目元の血を手の甲で拭いつつ、


「ちっくしょ……やっぱ強いじゃねえか、ユウ!」


 殴られた痛みと鼻血のせいか美里菜の声は少々涙混じりだ。荒い息を繰り返しながら袖で血を拭うその顔は、その惨状に反して喜色に満ちていた。


 嬉しいのだろう。裕之輔が本当に手加減無く、体格差や性別を考慮することなく、容赦のない攻撃をくれることが。


 彼女は裕之輔の本気を望んでいた。そして今、少年の全力を全身で感じているはずだ。


 自分を相手に本気になってくれている。それは自分に対して、全身全霊を注いでくれているということだ。自分を認めてくれているということだ。


 麟華にもなんとなく理解できる。これまでまともに正対してくることのなかった裕之輔が、今は真っ向から自分を受け止めてくれている――その喜びが。


 美里菜は今までにない確かな手応えを感じていることだろう。本気の裕之輔を相手にするというのは、きっとそういうことだ。嘘でも幻でもない、本当の彼を相手にしているという感触。


 自らの中にもそれを求める欲があることを、麟華は自覚する。


 おかしな話だが、見てみたいのだ。感じてみたいのだ。神楽御坂裕之輔という少年が放つ、敵意を。あるいは、戦意を。


 体感してみたい。彼の【強さ】を。


「てめぇやっぱあたしよりデキるじゃねぇか! 思った通りだぜユウ! もう誤魔化されねぇぞ!」


 好戦的な表情で叫ぶ美里菜に対して、裕之輔は常になく、ふ、と笑った。


「褒めてもらえて恐縮だけど、僕はまだ本気出してないよ? ただ遠慮しなくなっただけで」


「「――なっ……!?」」


 美里菜の驚愕に麟華も同調した。これだけやっておきながら、まだ本気ではなかったというのか。にわかには信じられない。ならば裕之輔の本気とは一体どれほどのものだというのか?


「それにしても美里菜ちゃんのデーヴァは大きいね。こいつは潰すのは骨が折れるなぁ」


 裕之輔はスヴァローギーを見上げて気軽に言う。言葉の意味を理解しているのだろうか、スヴァローギーがぐるるると低く唸った。まるで怒りを堪えるかのように。


「――でもまぁ本気を出すって約束したし、いいよね? 倒しちゃっても」


 タルトの最後の一切れを食べてもいい? という台詞ぐらい簡単に言い放った裕之輔に、流石の美里菜も怒りの表情を見せた。


「……大層な自信じゃねぇか、ユウ。言っとくけどあたしのスヴァローギーはそう簡単にゃやられねえぞ!」


 彼女が気分を害したのも無理はない。これだけのデーヴァだ。美里菜にとっても自慢のデーヴァであることは間違いあるまい。それにデーヴァとヴェトレイヤーが似通った魂を持つ者同士という話が本当ならば、裕之輔は美里菜とスヴァローギーに共通する精神性を侮辱したことにもなる。


(――って、そういえばデーヴァって元は人間なのよね? あ、あれもそうなの? キューリアス)


(……そのはずなんだが……確かにあまり知性は感じられねえな。気が狂ってるのか?)


 当人達に聞かなければ答えが得られない疑問に頭を悩ませる麟華とキューリアス。


 それを他所に裕之輔がまた、ふ、と笑った。


「試してみようか?」


 その薄い微笑みを見た美里菜の瞳に、瞬間、挑戦的な光が煌めいた。


「おもしれえ……ユウ。こうなったら何が何でもお前の本気を引きずり出してやる!」


 憤怒とも喜悦とも判別できない顔で叫んだ美里菜が、自らが恃む最強の名前を口にする。


「スヴァローギー!」


 彼女の雄叫びにも似た呼び声に炎の竜も咆吼で応えた。ベット・レイヤー全体を震わせるような響きと同時に、空気の焦げる音が空を走る。


 スヴァローギーの喉奥から烈火が溢れ出ていた。


 駅を一瞬で吹き飛ばしたあの一撃を放つつもりだ。


 麟華がそう察した時、その矛先である裕之輔が疾風のごとく動いた。


 駆け出し、跳躍。強化された身体能力を駆使し、ビルの壁を蹴って更に跳躍。窓の縁に足をかけて三度目の跳躍。


「――ッ!?」


 少年の行き先に気付いて麟華は息を呑んだ。


 驚くべきことに裕之輔はスヴァローギーの眼前へ自ら躍り出たのだ。


 スヴァローギーががばりと顎を開く。必殺の火球が今にも放たれる。


「サティ!」


 裕之輔の叫びに応じてその両手のフィストガードが眩く紫に輝いた。


 刹那で弾け散った紫光の後に現れたのは、巨大な戦槌。いや巨大すぎる。頭部の大きさが裕之輔自身ほどもある。小回りなど一切考慮しない、一撃必殺の鈍器だ。


「……!」


 戦鎚は現れた瞬間から既に振り上げられていた。裕之輔はスヴァローギーの鼻先に飛び出した勢いそのまま、巨大すぎる戦鎚を振り下ろした。


 轟音。


 鉄よりも硬い鱗を持つ竜の額に鉄槌が炸裂した。鱗が砕かれることはなかったが、当然、火球を吐き出そうとしていたその口は無理矢理閉じられることになる。強制的に塞がれたスヴァローギーの喉奥から不完全燃焼の音が溢れ出る。


「――チッ」


 美里菜が舌打ちする。彼女はこの結果を半ば予想していたらしい。悔しそうではあるが、意表を突かれたような顔はしていない。


 スヴァローギーを打った反動で空中を跳ね返るように飛んだ裕之輔が、身軽にアスファルトに着地する。その時には巨大な戦鎚は紫の燐光を纏って小さく縮んでいた。どうやらあのサティというデーヴァは武器のサイズ調整も可能だったようだ。


(なるほどな。確かにどんなに威力があろうと、あれだけ時間のかかる仕様じゃ撃つ前に潰せばいいだけの話だ。とはいえ……そうわかっていてもアレの前に飛び出すのは簡単にできることじゃねえが)


 キューリアスが念話で呟く。そう、理屈だけなら麟華にもわかる。スヴァローギーの火球は絶大だが、その発射には多少の時間を要する。その隙にあの凶悪な顎を閉じさせてしまえば、どんな攻撃力とて不発にすることが出来る。実に単純な話だ。


 だが、それはあくまで理屈の上での話だ。実践するとなれば話は別だ。発射までのタイムラグに飛び出すタイミング、巨大な顎を閉じさせる方法、なによりそれを実行する勇気。必要な要素が一つでも欠ければ成功しない、ほとんど賭けに近い行為なのだ。


(とんでもねえクソ度胸してるぜ、あの坊主)


 それだけのことを平然とやってのけた裕之輔に、麟華の相棒は婉曲的に賞賛を送る。


 アルビノの大鷲に感嘆の目を向けられている裕之輔はもちろんそのことに気付くわけもなく、美里菜に向けて『どう?』と言わんばかりに肩をすくめていた。


 美里菜はそんな裕之輔を逆に笑い飛ばした。


「へっ、そんぐれぇは想定の範囲内だぜ、ユウ。本番はここからだ! スヴァローギー!」


 戦意充実、自信満々に言い放ち、右の親指で鼻先をぴっと弾いた次の瞬間。


 スヴァローギーの全身を包む炎がにわかに燃え立ち、百を超える小さな火球を瞬時に生み出した。


「――!?」


 もちろん一つ一つはあの大火球に到底及ばない小さな物だった。しかし、それでもその一つ一つが人間を粉微塵に吹き飛ばしてしまうであろうことは想像に難くなかった。


 美里菜の口の端がゆっくりと吊り上がっていく。


「言ったよな、ユウ。あたしは性格上、【絶対に勝てる自信がないと戦わない】って」


 五指を広げた右掌を裕之輔に向けて、彼女は勝利宣言のごとく言う。


 そうしている間にもスヴァローギーの体表から次々とバスケットボール大の火球が生まれては、浮遊していく。


 何もかもが色を失い静止した世界で、苛烈に燃えるいくつもの火球が、暗い空を覆っていく。


 空が輝いていく。


 まるで世界の終わりを幻視しているようで、麟華の首筋にぞっと恐怖が走った。


「へえ。流石は美里菜ちゃんだ。これはちょっと危ない……かも、かな?」


 だというのに裕之輔の態度は相変わらずだった。麟華は思わずその耳を引っ張って怒鳴りつけてしまいたくなる。


 ――あなた自分にどれだけ自信があるっていうのよ!?


 すとん、と美里菜の顔から笑みが抜け落ちた。小柄な少女は柄にもなく落ち着いたような無表情で、


「……いいのかよ、ユウ。降参するなら今の内だぜ?」


 そう言って美里菜は右掌で軽く何かを払うような仕種をした。


 その途端、空に浮かんでいた火球の内五つが少し離れた高層マンションに突っ込んだ。爆裂音が五回連続で響き、建造物に戦車の砲撃を受けたかのような風穴が空く。背筋が凍るようなデモンストレーションだ。


 その光景を前にして、裕之輔はそれでも、ふ、と笑った。


「美里菜ちゃん、こんな時にも冗談を言うなんて流石だね」


 ベット・レイヤーが破壊痕を修復していく中で、少年は言った。実に飄々とした顔で、


「それとも実は美里菜ちゃんの方こそ降参したいから、そんなことを聞いてくるのかな?」


 しれっと毒を吐く。


 そんな裕之輔を、美里菜は睨め付けるように見据えている。


 裕之輔の涼しげな視線と、美里菜の燃えるような眼差しが両者の狭間で火花を散らしているかのようだった。


「覚悟は良いんだな?」


「降参したいならちゃんと受け入れるよ?」


 最後に念を押すような美里菜の問いにも、裕之輔は皮肉でもって即答した。


「――ははっ! やっぱりそうこねぇとな!」


 再び美里菜の顔に笑みが灯る。


 その笑みをいっそ壮絶に深めて、少女は言った。


「死んだらこのゲームの願い事で生き返らせてやるから心配すんなよ」


 ――本気だ。


 麟華は直感した。美里菜は本気で裕之輔を殺すつもりだ、と。


 また先を越される。そう思った。麟華が未だ足を踏みいれてない、ハルナがかつていた領域に。瑠璃室美里菜が先に飛び込んで行ってしまう、と。


 すっ、と美里菜が突き出した右手を振り上げようとしたとき。


「そんな心配はしてないんだけど……ところで、僕もここでサービスタイムしていいかな?」


「ああ?」


 出し抜けな裕之輔の提案に水を掛けられた美里菜は、動きを止めて不愉快そうに眉をしかめた。


 裕之輔は笑顔で言う。


「だって僕だけこんなに有利じゃ不公平でしょ? 美里菜ちゃんは僕のサティの能力を見せてもらったぜとは言ったけど、多分それは勘違いだろうし」


 これに対して美里菜は、ふん、と鼻で笑った。


「別に構わねぇよ。あたしが見せたスヴァローギーの力だってある意味ブラフだったからな。遠慮なんか――」


 することねぇよ、と続けようとしていたのだろう。だが裕之輔はそんな美里菜の台詞に被せるように、


「それに負けた後で言い訳にされちゃ叶わないからね。ユウのデーヴァの能力さえわかってたら負けなかった、なんて」


「…………」


 数秒間、言葉の意味をすぐに理解できなかったのか、美里菜の顔から表情が消えた。その後、小柄な少女は鼻っ面に獰猛なしわを寄せ、口元から歯ぎしりの音をこぼした。


 その無言を肯定ととったのか、裕之輔は右手に握った小型化したハンマーを前方に押し出した。


 ハンマーの先端で美里菜を指すように構え、


「僕のサティは見ての通り色々な武器や防具に変化するのが特殊能力。例えばこんな風に――」


 裕之輔がそこまで言うと、手のハンマーが菫色の輝きをしぶかせ、その姿を変えた。色合いはそのままに、刀身煌めく日本刀へ。


 変化は連続だった。何度もアメジストの光が閃き、日本刀から槍へ、斧へ、弓へ、鎌へ、盾へ、鎧へ――まさに変幻自在の千変万化。


 麟華への皮肉のつもりか、最後に特殊警棒の形をとったサティを手に裕之輔は語を継ぐ。


「――それが武器防具の概念を持つ物ならどんな物でも再現することが出来るんだ。一応、制限はあるんだけどね。試した限りじゃ銃とかの近代兵器の類はみんな駄目だったかな。でも、逆に言えばそれ以前の物にはほとんど変化することが出来たんだ。それが例え、どんなに古い物でも。それが例え、実在が疑問視されているような物でも、ね」


 軽い口調で喋るその表情には、当然のように気負った所は全くない。空を埋め尽くす火球の群れが目に入っていないのだろうか。見ているこちらがハラハラするほど、少年は平然としていた。


「……それで?」


 甲高い地声でも抑えればそれなりの迫力は出る。感情を押し殺した声で先を促す美里菜に、裕之輔は無造作に頷く。


「うん。つまり、ここからが僕の本気を見せる所だよ。このサティの能力を使って僕がどう戦うのか……楽しみでしょ?」


 自分でそれを聞くのか。そう思いつつも、図星を指されたような気がして気持ち悪い麟華である。


 へっ、と美里菜が吐き捨てる。


「残念だけどな、ユウ。もうあたしの中じゃ勝ちは決まってるぜ。そんな器用貧乏な能力で抗えるってんなら――!」


 ばっ、と風を切っていきなり美里菜の右腕が振り上げられた。


「!」


 スヴァローギーが猛然と咆吼を上げた。


「――抗ってみやがれ!」


 世界を切り裂くように、手刀が鋭く振り下ろされた。


 破壊が始まった。


 流星雨のごとく降り注ぐ劫火の群れ。


 一つ一つが落雷のようなとんでもない速度で落ちていく。


 その全てが裕之輔に殺到していた。


 連続爆発。もはや着弾ではなく、爆破としか言いようがない現象が麟華の眼前で巻き起こる。


 危険を察知したキューリアスが麟華の両肩を掴み、空へ連れ上がる。


 高い視点から見ると余計にその凄まじさがよくわかった。


 天空から降り注ぐ火炎の爆弾は、撃ち出されるのと同時にスヴァローギーの体表から新しいものが生まれ、補充されていく。


 止まらない。無限の循環。


 攻撃力。その権化たる火竜の攻撃は機関銃よろしく、たった一人の少年へと注ぎ込まれいる。


 ここがベット・レイヤーであることを感じさせないほどあっけなく街が破壊されていく。


 裕之輔の姿は見えない。


 影も形も見えなくなるほど、火球の弾幕が彼を襲っていた。


 スヴァローギーの咆吼が長く強く伸びている。美里菜は右手を振り下ろした状態で、ただじっと裕之輔がいた、今は爆炎しか見えない場所を睨み付けるように凝視している。


 重なり合う爆音が耳を劈き、腹の底を揺さぶっている。


 そんな中、音響に奇妙な金切り声が混じっていることに気付いた。その声はちょうど、裕之輔がいると思しき場所から、火球が炸裂するたびに響いていた。


 やがて美里菜もその金切り声に気付いたらしい。彼女がさっと手を振ると、不意に火球の雨が止んだ。


 爆炎が収まり、ベット・レイヤーの修復が行われていく中、麟華は黄金色の輝きを見た。


 盾だ。大人一人をすっぽり隠すほど大きな、金色の大盾。四本の角と四枚の覆いがついている。


 構えているのは、信じがたいことに火傷一つすら負ってない風の裕之輔だった。


 彼は、ふ、と笑うと、こう呟いた。


「よかった。これも成功だね。自信なかったけど」


 言葉の意味は理解できなかった。理解するために頭を回す暇もなかった。


 紫の光が弾け、黄金の盾が姿を変えた。


 馬だ。否、ただの馬ではない。すらりと伸びる金属質の足を八本も備えた、常識外の若駒だ。


 白銀の肢体に赤い尾、白の蹄に紫の瞳を持つその金属馬は裕之輔を背に乗せて駆け出した。


 速い。


 身体強化されている麟華でも、目で追いかけるのがやっとの程だ。


「!?」


 その上、速いだけではなかった。八本足の駿馬は麟華の見ている前で、地上だけでなく空中を走り始めたのだ。目に見えぬ階段を駆け上るように、金属馬は空中を翔る。


「スヴァローギィィー!」


 美里菜が叫び、腕を振った。再び火球の豪雨が降り注ぐ。


 裕之輔を乗せた金属の奔馬を追いかけていくつもの火球がアスファルトに突き刺さっていく。


 空を行く優駿が縦横無尽に駆けるため、火球の破壊も広範囲にわたった。


 時が止まり色を失った空間で、建物が、道路が、車が、人々が、街が、砲弾のごとき火球を受けて玩具のように砕け散っては、すぐに再生していく。


 これは一体どういう光景なのか。これを目の前にして、自分はどのような感情を持てばいいのか。麟華にはわからなくなってしまった。


 ただ一つだけわかるのは、


 ――下手に手を出したら死ぬわね……!


 ということだけ。下手に関われば、流れ弾を喰らって消滅してしまうだろうことは想像に難くなかった。


 それにしても逃げてばかりでは埒があかないだろう、と麟華は考える。ドゥルガサティーの能力は様々な武器防具に変化することだと彼は言っていたが、見る限り複数の武具になることは不可能なようだ。今は逃げ切れているようだが、そればかりではいずれ追い詰められる。自ら攻撃して勝利を奪う必要がある。そこを彼は一体どうするつもりなのだろうか。


 やがて裕之輔が射程範囲外に出てしまったしく、火球の雨が止んだ。


 だがそれは攻撃の終わりを意味してはいなかった。


 スヴァローギーが突如、その顎を大きく開いた。


 そうだ、美里菜のスヴァローギーには駅を丸ごと消滅させたアレがある。彼女たちに対して距離をとるというのは、逆に自殺行為だ。離れていては、発射までのタイムラグで生じる隙を突くことが出来なくなるのだから。


 あの大火球は撃ち出されてからの速度が速く、破壊の範囲もかなり広い。あの八本足がこれまで全力で走っていたのならば、速度的におそらく逃げ切れないだろう。


 スヴァローギーの喉奥に濃密な炎が溜まっていく。その音を聞きながら裕之輔に視線を向けると、彼は金属馬をとあるビルの屋上に下ろし、停止していた。その上、馬が紫の光に輝いて別の武具へと変化しようとしている。


 馬鹿な。何をするつもりだ。まさか真っ向からやり合おうというのか。それとも先程の黄金の盾でまた防御するつもりか。有り得ない。あの盾がどういった理屈で火球の集中攻撃を防いでいたのかは知らないが、絶対に無茶だ。盾ごと消滅してしまう。


 馬から下りた裕之輔の手にアメジストの光が凝縮し――一振りの剣を形作った。


 奇妙な剣だった。それは全長一メートルほどの両刃の長剣であったが、刀身の中ほどが大きく欠けているのだ。刃こぼれとは最早呼べまい。両刃であるため片刃を使えば切るのに支障はないだろうが、強度のことを考えれば放置していてはいけない欠落だった。


 あんな物で何をしようと言うのか。戦車を相手に木の枝一本で立ち向かっていくようなものだ。玉砕する気なのか。いや、そんな自暴自棄をするような少年ではないはずだ。混乱寸前の麟華の思考回路がめまぐるしく回転する。


 スヴァローギーがやにわに巨体を屈めた。指が三本しかない掌で作られた足場に美里菜が身軽に飛び乗る。


 同時、空気を焦がす音と共にスヴァローギーの背の翼が勢いよく開いた。蝙蝠のそれにも似た膜構造の翼だった。片翼だけでも竜自身の三倍の長さはある。紅蓮の膜が張られた翼が最大まで広がると、その巨躯が羽毛か何かのように簡単に浮かび上がる。おそらくはキューリアスの飛行と同じ理屈だ。羽ばたかずとも風が無くとも飛べる、デーヴァにしか出来ない飛行。


 手に主人を乗せた竜は空に浮かび、ビルの屋上に立つ彼の敵を見下ろす。主人たる小柄な少女もまた、腕を組み不敵な表情で彼女の敵を見据える。


 喉奥で圧倒的な暴力を濃縮しているだろう大きな口に、空に浮かんでいた火球の残りが吸い込まれるように集まっていく。より絶望的な破壊力が凝縮されていくのを感じる。


 これから放たれる一撃は先程のものとは比べものにならないだろう。明らかに力を溜めている時間も規模も違う。今度は駅一つ程度の破壊では収まるまい。その数倍以上の破壊力を麟華は予感できる。


 宙に浮かんだ火竜は、ゆっくりと周囲を旋回するように、じわじわと彼我の距離を縮めていく。今もなお膨大な力を蓄えているであろう長い首をもたげ、睨め付けるように剣を持つ裕之輔を照準している。牙の間から泡のように火炎が溢れ、燃えている。


「チェックメイトだぜ、ユウ!」


 時間すら凍り付いた世界に、美里菜の声はよく響いた。


「これがあたしらの最高の攻撃だ。ってか、ここまでチャージしたのは初めてだからどうなるか正直わかんねえ。多分、塵も残らねえだろうけど恨みっこなしだからな!」


 完全に勝利を確信した顔だった。腕を組んで裕之輔を見下ろすその瞳は、もはや勝利者のそれだった。完全に相手を見下した目。そこには敗者に対する哀れみすらこもっている。


 裕之輔はもう逃げられない。それは確信と言うより、どうしようもない事実だった。スヴァローギーがこれから放つ灼熱の攻撃は、裕之輔が例え八本足の駿馬に乗ろうともその逃げ道ごと焼き払うだろう。


 逃げ場は無い。そして先程のように、竜の額を殴って不発にさせることが出来るほど近くもない。微妙で絶妙な距離。


 ただ解せないのは、この距離を作ったのは裕之輔自身であるということだ。


 絶対に何かがある。そのことに、美里菜は気付いているだろうか? それとも気付いていながら、それごと叩き潰す自信があるのだろうか?


 堂々たる勝利宣言を受けた裕之輔は全く意に介した様子もなく、ふ、と笑ってみせた。


 欠けた剣の切っ先を美里菜とスヴァローギーに向け、


「美里菜ちゃん、自分でハードル上げちゃうと後でしんどいよ? 負けた後で僕に会わせる顔がなくなっちゃうと困るから、程々にね?」


 自信満々に、自身の勝利が既に確定しているかのように言い放つ。これではどっちもどっちだ。


 少年の貌はいつか見た、何とも形容し難い形をしていた。笑っているのに笑っていないような。それとも、笑っていないのに笑っているというべきか。悪魔的で、虚無的で、不気味な貌。


 刃の欠けた剣の刀身に淡い光が灯った。


 いつもの紫の光ではない。白い、純粋に真っ白な光だ。


 それに合わせて、きぃぃぃん、と甲高い音が鳴り始めた。よく見ると剣そのものが微かに震えているようだった。光は徐々に強くなり、それに吊られるように音も段々大きくなっていく。


 そして加速していく。


 裕之輔が続けて口を開く。


「ここで最大のサービスタイム。美里菜ちゃん、この剣の名前はね、〝天羽々斬〟って言うんだよ。見ての通り刃が欠けちゃってるけど、それは流石に天叢雲剣に勝てなかっただけでね。こう見えてもヤマタノオロチを切り刻んだ、歴とした――」


 滔々と語る裕之輔の目に、瞬間、凶器のようにギラついた光が宿った。唸りをあげるジェットエンジンのごとき音が耳鳴りのように響いていた。


 嫌な予感。そうとしか呼べないものが麟華の臓腑を鷲掴みにした。


 ほぼ同時に美里菜も同じ感覚を得たのだろう。何か大変なことに気付いたように顔から余裕が弾け飛び、焦燥が取って代わった。


 小さな唇が何かを叫ぼうと開こうとして、


「――竜殺しの剣だよ」


 裕之輔の一言と、その後に起こった現象が全てを遮断した。


 閃光。


 欠けた剣を覆っていた光と唸りが爆発的に激しくなった。と思った時には長く伸びた一本の光線がスヴァローギーの喉元を貫いていた。


「…………!?」


 一部始終を目にしておきながら、瞬きするほどの間、麟華は何が起きたかを理解できなかった。


 剣の刃が光となって伸びた。伸びた光はそれこそ光の速度でスヴァローギーの首を易々と貫き、さらに伸びていく。どこまでも伸びていく。


 麟華がそこまで理解したとき、叫びが響いた。


「スヴァローギーッッッ!!」


 悲痛ともとれる少女の絶叫が迸り、炎の竜は健気なことにそこに込められた願いを聞き遂げた。


 それ即ち、喉奥に溜めていた破壊のエネルギーを解放すること。


 断末魔の咆吼があがる。


 竜の体内で逃げ場もなく悶えるように圧縮されていた灼熱の力がようやく行き場をみつけ、堰を切って溢れ出す。膨大な業火が大気を取り込んで急激に燃焼する音が耳朶を震わせる。牙の間でもんどりを打つ炎の色が赤からオレンジ、オレンジから紫、紫から蒼へと瞬時に変化していく。


 全てが火球と形を成して撃ち出される。


 その瞬間、


「よっ、と」


 裕之輔が手首のスナップだけで剣を真上に跳ね上げた。


 堅固なはずの竜の鱗が水に濡れた紙のごとく綺麗に切り裂かれた。


 スヴァローギーは口内で渦を巻く紅蓮の火焔ごと頭部を下から真っ二つに斬られた。


 ――終わった。


 そう判断した麟華の認識はまだまだ甘かった。


 竜は頭を二つに分かたれてもなお生きていた。その闘争心は煉獄の炎のごとく消えてはいなかった。


 もはや耳が空気の揺れとしか認識しない壮烈な雄叫びが響き渡る。


 そこに美里菜の血反吐のような怒号がかぶさる。


「いっけぇええええええええええええッッッ!!」


 真っ二つに裂かれた火球が繋がり、再び形を練り上げ、


「シェキナーの弓」


 と裕之輔が無慈悲に呟き、


 突如、眩しすぎる輝きが麟華の目を焼いた。


 たまらず目を閉じるが、それでも光はその瞼すら貫き、堪らず麟華は両腕で顔を覆った。


 故に麟華は、決着の瞬間を目にすることが叶わなかった。


 出来たのは、耳を澄ませるだけ。


 竜の咆吼、少女の絶叫、炎の爆ぜる音。


 欠けた剣から継続的に発生していた甲高い音がそのまま波長を加速させ、一気に最高潮に達した。


 刹那。


 体中を劈く凄まじい音が爆発した。




 次に麟華が目を開いて見たものは。


 胸から上を完全に失った、無残な炎の竜の姿だった。




 ●




 詰まる所、裕之輔の取れうる選択肢とは一つしか存在しなかった。


 当然のことながら、美里菜を殺すという選択肢は有り得なかった。そんなことは毛ほども考えなかった。美里菜を殺すぐらいなら、裕之輔は自分を殺す。それが彼の道理だった。


 となると裕之輔に残されていたのは、美里菜のデーヴァ――スヴァローギーを無力化し実質の戦闘力を奪う、という選択肢だけであった。


 裕之輔がとった作戦を簡単に説明すると、こうなる。


 まずはガチの格闘戦で美里菜に、素手では裕之輔には勝てない、という認識を刷り込む。多少の怪我をさせてしまうが、これは仕方なかった。大を生かすための小の犠牲というやつだ。ここで躊躇わず大怪我をさせた方が、逆に美里菜の命を救うことになるのだ。次に、自分とサティの持てる限りの能力を以てスヴァローギーを討つ。あるいは無力化させる。


 これだけ。こうして並べてみると非常に単純なのだが、しかし、その実態はほとんど賭けに近かった。サティと出会ってからというもの、陰ながら武具に関して調べてはその都度試してきたが、近場の山中で〝天羽々斬〟を使って大事を起こしてしまって以来、伝説上の武器防具を本格的に使用するのは先刻が初めてだったのだ。


 涼しい顔を装いつつも、実は一か八かという状況だったのである。


 四本の角と四枚の覆いを持つ黄金の盾〝オハン〟は、本に『カラドボルグをも防ぐ』とあったので、おそらくあの程度の火球なら大丈夫だろうと高をくくった。カラドボルグとやらの威力がどれほどのものかわからなかったため、あの時は完全に運任せだった。一歩間違えていれば今頃、裕之輔の肉体はこの世から消滅していたであろう。


 八本足の金属馬は〝スレイプニル〟。『馬のうち最高のもの』と賞賛されるオーディン神の愛馬で、伝承では空をも駆けたという。その速度も蹄の軽やかさも、確かに言い伝え通りのものだった。


 〝天羽々斬〟は一度、市の南部にある聖富山で試したことがあった。その時はあまりにも予想外なことが起こったので逃げてしまったのだが。


 この剣はその昔、素戔嗚尊が酒に酔って寝てしまったヤマタノオロチを切り刻んだものだ、と本に掲載されていた。そのことをよく考えればよかったのだ。伝承ではヤマタノオロチは八つの谷、八つの峰にまたがるほど巨大な竜だったという。そんな化け物を切り刻んだと言い伝えられているのだ。そんなものがただの剣であるはずがなかった。持ち主の意思に呼応して巨大な竜をも切り裂く光の刃を放つ剣。それが〝天羽々斬〟だった。聖富山の木々を一瞬で半分も切り倒してしまってからそのことを理解したが、とっくに後の祭りだった。


 最後に使った〝シェキナーの弓〟は天使ケルビエルが持つ弓で、太陽よりも強い輝きを持つ聖なる武器だという。〝天羽々斬〟で頭を斬られてもなお止まらないスヴァローギーの炎を見ていて、咄嗟に思い付いたのがこれだった。


 自分は運が良い。裕之輔は心からそう思う。


 自分のデーヴァがキューリアスではなく、スヴァローギーでもなく、ドゥルガサティーで本当に良かった、と。


 でなければ怪獣と見紛う炎の竜に勝利することは叶わなかっただろう。そして、その手からこぼれ落ちる美里菜を〝スレイプニル〟で救うことも出来なかっただろう。


 裕之輔自身の発想や工夫もあるだろうが、サティほどの汎用性、柔軟性に優れたデーヴァとしての能力があったからこそ、あんな無茶な戦い方が出来たのだ。


「――ごめんね、美里菜ちゃん……」


 今、もはや巨大な死骸と化して道路に横たわるスヴァローギーの足元で、裕之輔は美里菜の小さすぎる体を抱きしめていた。


 〝シェキナーの弓〟から放たれた『光の衝撃』と呼ぶべきものを、直撃ではないにせよ余波を喰らったせいか、彼女は意識を失っていた。裕之輔はそんな彼女を強く抱きしめ、我知らず涙を流していた。


 彼女をここまで追い詰めたのは自分だ、という自覚があった。


 よかれと思って、やってきたことだった。


 なのに。


 それがこんな風に、〈Betrayer's on The Bet Layer〉のようなふざけたものに頼ってしまうほど、彼女を追い詰めてしまっていたなんて思いもしなかった。


「ごめんね……本当にごめんね……」


 気絶している美里菜に、それでも裕之輔はひたすら謝罪を口にする。


 やがて、スヴァローギーの死骸が細かい塵に分解され始めた。炎の竜のデーヴァとしての機能が、状況を見て美里菜の敗北を認識したのだろう。巨大な竜の肉体が、小さなカードに変化していく。


 だが裕之輔はそれを一顧だにしない。興味も関心もなかった。彼にとって大切なのは、腕の中にいる幼馴染みの方だった。


 スヴァローギーが完全にカードに戻った。黒地に金色の模様。黄緑の蛍光色で『98』という数字が表示されている。


 それを口にしたのは、宙を滑空してきたキューリアスだった。


 変化は急激だった。純白の大鷲がカードを呑み込んだ瞬間、その体が一気に膨張した。今まででも大人一人ぐらいの大きさがあったのだが、それが不自然に触れ上がり、ざっと四回り以上は大きくなった。人を乗せて飛べるほどのスケールだ。もはや大鷲というより怪鳥と化したキューリアスは、その巨体に凄まじい量の風を纏って空へ昇っていく。


 次の瞬間、美里菜の体から色が抜けた。ヴェトレイヤーとしての資格を失い、ベット・レイヤーの中からこぼれ落ちたのだ。


 裕之輔はその体をゆっくり、アスファルトに横たえた。


 背後に、足音。裕之輔は服の袖で涙を拭った。


「……何度も言うようだけど、僕は戦わないよ、涼風さん」


「そんなことはさせないわ」


 傍らに置いていた〝天羽々斬〟を握り、裕之輔は立ち上がりながら振り返る。そこには、まなじりを決した長い髪の少女がいた。右肩から先だけ服が破れていて、白い肌が露わになっていた。


 裕之輔は疲れていた。もう笑うことも出来ない。無表情に言い放つ。


「僕はこのゲームを終わらせる気はないよ。君が九十九枚のカードを持って、僕が最後の一枚を持っていれば、少なくとも僕か君が死ぬまでゲームは終わらない。その間、こんなふざけたものの犠牲者は出ない。それが僕の答えだよ」


「――妹さんがどうなってもいいのかしら?」


「……え?」


 あまりに予想外の単語が出たものだから、裕之輔はすぐに反応できなかった。


 頭の中身を空き缶みたいに蹴っ飛ばされたような気分だった。


 麟華は裕之輔を睨め付け、恬淡な声で告げる。


「妹さん、今朝早く家を出たでしょう? 教えてあげるわ。あれは私が誘き出したの。可哀想だけど、とある場所に拉致させてもらったわ」


 自然と裕之輔の脳裏に、めかし込んで家を出て行く彩矢音の後ろ姿が思い浮かんだ。


「――なんだって……?」


 愕然となる。まさか、あの時のあれが、麟華の策略だったというのか。馬鹿な、信じられない。どうやったらそんなことが出来るというのか。


 裕之輔のただでさえ最悪だった気分が、さらに下降の一途を辿る。


 真相はわからない。だが少なくとも麟華は、彩矢音が朝早くに出かけて行ったことを知っていた。なら待ち伏せをして、誘拐していたとしても不思議ではない。


 ふん、と麟華が酷薄な笑みを唇に刻む。


「もう一度言うわ、神楽御坂君。いい加減、本気で私と戦いなさい」


 大空から風を巻いてキューリアスが舞い降りてきた。強い風が吹き荒れ、少年と少女の髪と衣服を弄ぶ。


 美里菜に続き、彩矢音まで。裕之輔の大切な人達が、次々とこのくだらないゲームに巻き込まれていく。


 何故だ。何故、こんなことになる。


 どす黒い怒りが裕之輔の体内で激しく渦を巻いた。


 それはもはや憎しみと呼んでいい感情だった。それが向かうのはしかし、目の前の涼風麟華だけではない。


 この〈Betrayer's on The Bet Layer〉というゲームを生み出した何者か、そしてこんなふざけた代物に積極的に参加してきた全ての者へ。


 裕之輔は明確な憎悪を抱いたのだ。


 駄目だ。もう許せない。ただゲームの進行を止めるだけでは飽き足らない。ただ潰すだけでは生温い。もっと根本的に、徹底的に、最悪の事態をこのゲームそのものに呼び寄せてやらなければ気が済まない。


 何があろうとも絶対に許さない。


 殺意にすらなり得る真っ黒な感情を、おそらく生まれて初めて抱いたであろう裕之輔の頭は、常のごとく明晰な回転を見せた。この少年らしく意地の悪い指向性を以て。


 頭脳に納められている様々な情報が入り乱れ、パズルのように次々と合致し、一つの答えを形作っていく。


 突如として【それ】は閃いた。


 瞬間、裕之輔は思わず軽く目を見開いた。気付いたのだ。隠されていた事実に。そして思い付いたのだ。画期的な方法に。


 天啓だった。そうとしか思えない発想が、今、裕之輔の中に生まれた。胸の中でわだかまる暗い切りを吹き飛ばすほどの思いつきが。


「ははっ……」


 裕之輔は左手で額を押さえ、笑い声をこぼした。笑うしかなかった。いっそ清々しい気分だった。


 良いだろう。上等だ。そっちがその気なら、こっちだってやってやろうじゃないか。


「そうか……ははっ……わかった、わかったよ」


「……何を笑っているの?」


「いいや、別に?」


 裕之輔は含み笑いをしながら、左手を下ろした。


「わかった。いいよ。そこまで言うなら戦ってあげるよ、涼風さん」


 ひゅおっ、と風切り音を立てて、裕之輔は〝天羽々斬〟を肩に担いだ。そして、あは、と笑う。


「僕も覚悟を決めたよ。っていうか、吹っ切れたよ。やっぱり僕もこのゲームをクリアすることにした」


「え……?」


 裕之輔の急な変心ぶりに、麟華は虚を突かれたような声を漏らした。次いで、怪訝そうにこちらの顔を伺ってくる。


 その様子が可笑しくて裕之輔はつい、くすくすと笑ってしまった。


 途端、麟華の表情が憎々しげに歪む。


「――笑うのをやめてもらえるかしら、神楽御坂君。私たちは今、最後の決着をつけようとしているのよ?」


「どうした坊主? とうとう気が触れちまったか?」


 巨大化したキューリアスが、それでも相変わらずの軽口を叩く。図体が大きくなろうとも、流石に中身までは変わらなかったらしい。そんなアルビノの怪鳥とその主に、


「ややわぁ。こんな時に笑う余裕ぐらいありまへんの?」


 〝天羽々斬〟から涼しげなサティの揶揄が飛んだ。


 麟華の眉間のしわが、それだけで三本は増える。


 裕之輔はそんな一人と一匹と一本のやりとりを無視して、やにわに〝天羽々斬〟を構えた。きぃぃぃん、という甲高い音が生まれ、白い輝きが大きく欠けた白銀の刀身から迸る。


 すると、訝しげに裕之輔を睨んでいた麟華の表情に緊張が走った。


「――キューリアス!」


「おうさハニィ!」


 麟華が鋭く叫ぶ。キューリアスが強く応える。


 次の瞬間、威勢良く二人の声が重なった。


「【キビキビ】いくわよ!」


「【キビキビ】いくぜ!」




 思考と感情が完璧に同調した。


 自分とキューリアスのシンパシィは最高潮に達していると麟華は確信した。


 ――勝てる!


 あの炎の巨竜を打ち破った裕之輔を前にして、それでも麟華は断言できる。


 麟華にはわかる。九十九枚のカードを吸収したキューリアスの力は桁外れに強大だ。新しく、そして強い力を感じる。もはやあの大鷲は〝風の王〟と呼んでも差し支えないほど強力な存在だった。


 あのスヴァローギーの最後の一撃に勝るとも劣らない威力を全身に纏ったキューリアスが風の爆発を伴って宙を突進した。


 天空から地上へ。


 稲妻よりも速く。


 真っ逆さまに。


 ――絶対に勝つ!


 麟華は確信を深める。いかにあの少年が非常識で、そのデーヴァの能力がいまだ底の見えない未知の脅威であろうとも、行動するより先にキューリアスの突撃が決まればそんなものは関係ない。


 ――私が勝つのよ!


 頭に思い描く勝利のイメージ。裕之輔が何かを喋る前に、ドゥルガサティーが何かに変化するよりも速く、キューリアスの嘴が少年を貫き、衝撃がその五体をバラバラに引き裂く光景。


 そうなれば、間違いなく彼は死ぬ。


 ――そう、殺す! 殺して、お母さんを助けるのよ!


 刹那の思考。もう覚悟は決めている。百枚のカードを揃え、母の命を蘇らせるのだ。そうすれば再び世界に麟華の居場所が出来る。幸せが戻ってくる。


 麟華はもう一度、幸せを手に入れられるのだ。




 ――本当に?




 ほんの少し。本当にほんの少しだけ、そんな思考がノイズのように混じった。


 それが敗因だったのかもしれない。






 

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