スペクターの献身。あるいはある愛の在り方。
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「ナーヴァストラ侯爵令嬢ウルスラ! お前との婚約を破棄する!」
第一王子が段上に仁王立ちし、男爵令嬢を抱きながら勝ち誇った顔で宣言した。
2人の周囲には王国重鎮の令息達が親衛隊の如く並び、やはり勝利を確信した傲慢な面持ちを浮かべている。
王国学園卒業記念パーティーの真っ只中、突如起きた婚約破棄宣言。
呆気にとられる学生達。唖然とする教職員や給仕達。勝ち誇る第一王子と男爵令嬢、令息達。恥辱と屈辱と失望と落胆に身を震えさせる侯爵令嬢。
事態を遠巻きに窺う壁の花の一人。王国学園に入学が叶う最低爵位――貧乏な騎士爵家の4男坊という貴族より平民に近いカール・デ・ショールは密やかに鼻息をつく。
――本当に起きてしまったか。
カールはこの“事件”が起きることを察していた。
『鼠は家の中で起きることを全て知っている』という金言の如く、地位が低いものだからこそ見聞きできることもあるのだ。
啓蒙思想が流行し、民権拡大が広まる大陸において、いまだ旧弊な封建社会で硬直的な身分制と社会制度が採られている【王国】だからこそ、余計に。
貴族というより平民に近いカールは、その出身成分によって日頃から周囲から見下され、侮られ、嘲笑われ、おもねりへりくだることを余儀なくされていた。
当然ながら在学中に婚約者を儲けることなんて出来ず、卒業後は王国軍の下っ端貴族士官としてド田舎の駐屯地や不人気基地を巡って閑職をこなす日々が待っている(貴族将校の最底辺。いわゆる“雑用士官”だ)。
貴族社会の最底辺。辛うじて血が青い鼠。その一匹。
カールはそんな立場だったからこそ、第一王子と男爵令嬢と侯爵令嬢ウルスラのゴシップ、男爵令嬢にのぼせ上がる令息達、侯爵令嬢と令息の婚約者達の連帯と結束などなど数多の情報を手に入れられた。
貴族社会を優雅に泳ぐ白鳥達は鼠が物陰から見聞きしていることに気付かないからだ。あとは情報を統合的に分析するだけ。
蔑まれがちな出身成分と異なり、カールは呆れるほどに秀でた頭脳を有している。この馬鹿馬鹿しい事件の発生を予測することは難しいことではなかった。
カール・デ・ショールは鼠が白鳥達より愚かとは決して限らない。その一例と言えよう。
「元々過ぎたる佳花ではあったな」
カールは囁くように呟き、我に返った学生達や給仕達の喧噪が大きくなる会場から、鼠のようにするりと抜け出した。
○
【王国】は内向的な陰キャみたいな国で、市民革命で王制打倒に成功した国や近代化へ体制を脱皮し始めた国からは、前時代の遺物や失敗国家と蔑み、嗤われる有様だ。
事実、この国は斜陽どころか黄昏の夕闇に消えそうな状況にある。
卒業記念パーティーで起きた馬鹿馬鹿しい事件から数日後。場末の飲み屋の端っこ。
カールと連れの男は安煙草を肴に安酒を口にする。
「陛下は此度の婚約破棄をお認めになるどころか、第一王子殿下の申し立てのままにウルスラ様を北端の修道院に蟄居閉塞させるそうだ」
「お歳を召してようやく出来た後継ぎを溺愛するにも限度があろうに……宮廷は陛下をお諫め、いや、御再考を促さなかったのか?」
「ああ。宮廷も認めた。次の神輿が今以上に軽いと分かったからな。連中は反対する理由がないのさ」
王宮の下っ端官吏である男の溜息混じりな言葉に、カールは卓の間で『営業』に精を出す安淫売達を眺めながら、問う。
「ナーヴァストラ候はどう動かれる? ご息女どころか家名まで貶められたのだ。……叛かれるのか?」
「まさか」男は鼻で笑い、安酒を舐めて「昔ならともかく、ナーヴァストラ候家は領地開発で王家に多額の借財があるからな。そもそも此度の御婚約もその辺が裏事情にある」
カールはグラスの安酒を見つめながら、結論を出す。
「挽回の余地はない、と」
「婚約破棄は確定。ウルスラ様は残りの人生を極寒の辺境で終える。俺達はバカ王子とどこぞの馬の骨が玉座に座る様を歓呼三唱で迎え、バカ王子の取り巻きが牛耳る宮廷に顎で使われるわけだ」
忌々しげに鼻を鳴らし、男は俯いてぼやいた。
「鬱憤が溜まっているな。遊んでいったらどうだ?」
カールが娼婦達を顎で示せば、男は苛立った様子で睨み返す。
「ふざけるな。女房が浮気を絶対に許さんことを知ってるだろうが」
「夫婦円満で何よりだ。間を取り持った者として鼻が高いよ」カールは笑う。
そんなカールへ、男が探るように質す。
「……貴様、何を企んでいる?」
「そうさな。素晴らしき佳花を誰も要らんと言うならば」カールは目を細め「“我ら”で貰い受けても文句はあるまいよ」
「我ら?」
怪訝顔の男の疑問へ応じず、カールは口端を曲げ、
「面倒なことに巻き込まれたら、こう言え。カール・デ・ショールは利用されていたようだ、と」
「は? なんだそれは。どういう意味だ」
戸惑う男に笑みを大きくした。
「……スペクター。そう言っていたと言えば良い」
「? ? ? ?」何のことかさっぱり分からず、男は困惑する。
カールは席を立つ。
「さらばだ、友よ」
支払いの金と別れの言葉を残して。
○
質素な馬車が一個分隊8人の兵士に護送され、荒れ果てた街道を進んでいく。
その様は侯爵気令嬢の旅というより囚人の移送にしか見えない。
外から硬く閉ざされた馬車の中で、侯爵令嬢ウルスラ・デ・ナーヴァストラは目を固く瞑り、沈黙を保っている。
侍女も護衛もなく、荷物も鞄一つだけ。平民にも劣りかねない一人旅。修道院という名の貴顕女子専用監獄で希望無き余生を送るための旅。
ウルスラはもはや涙も出ない。
なぜこんなことになってしまったのだろう。幼い頃に“元”婚約者の第一王子に嫁ぐことを定められ、そのために厳しい教育を課されてきた。弟妹が伸び伸びと過ごしている間も、手鞭を持つ教師に手のひらや足の裏を叩かれながら、王妃に求められるレベルの礼儀作法や教養、知識や思考法を徹底的に叩き込まれてきた。
全ては御家のため、家族のため、領地のため、侯爵家に生まれた者の務めとして、いろんなことを我慢し、いろんなことを諦め、必死に頑張ってきた。政治の都合として嫁ぐとしても、第一王子を心から慕えるよう、努めてあの人の良い面を見続けてきた。あの人に喜んでもらえるように努めてきた。気分で無思慮な言葉や思いやりのない態度を示すあの人に、どれだけ傷つけられても微笑み続けてきた。
自分を家門のための道具としか見なくなった両親に愛されたくて、褒められたくて、努力を認めて欲しくて、必死に頑張り続けてきた。
それも、全部無駄だった。
第一王子はポッと現れた男爵令嬢に入れ込み、自分をゴミのように捨てた。それどころか身に覚えのない“罪”とやらまで押しつけて。
どうしてここまで貶められなければならないのか。なぜここまで蔑まれなければならないのか。他の女と結ばれたいなら、相応の真っ当な手段をとれば良いではないか。なぜ私をこれほど虐げ、踏みつける必要がある。
父と母は庇うどころか罵りさえした。役立たずと。これまでの時間と投資が無駄だったとまで言った。関わりが乏しかった弟妹はただ嘲笑った。馬の骨なんかに寝取られるなんて、と。
私は何のために生まれてきたのだろう。何のために生きてきたのだろう。
絶望と落胆。それでももう、涙が滲むことすらない。
もう、疲れてしまった。
だから、人気のない峠道の只中で急に馬車が止まり、外から悲鳴が聞こえてきても、ウルスラはただ溜息をこぼすだけだ。
もう、どうでもいい。
○
ナーヴァストラ侯爵令嬢ウルスラを乗せた馬車が襲われ、護衛諸共に全滅した事件は、それなりの騒ぎとなった。
襲撃は残虐そのものだった。なんせ護衛の死体は馬車諸共に焼かれていた。よほど高温の燃焼剤を使ったのか、死体は骨まで焼かれていた。ウルスラ嬢の亡骸は破壊し尽くされており、持ち去り忘れたらしい指輪――形式的に贈られた婚約指輪が無ければ、個人を特定できなかった。
王家の責任で護送されていたため、ナーヴァストラ候はここぞとばかりに王家へ反撃し、謝罪と賠償――借財の一部免除を勝ち取った。
第一王子は流石にウルスラ嬢の死まで望んでいなかった。まさか、と取り巻きの令息達に暗躍を質すくらいには、気分を害していた。
もっとも、彼がウルスラ嬢のことを気にしたのは数時間くらいで、以降は新たな婚約者と楽しい時間を過ごした。
本気でこの件を調べたのは、令息達だった。ウルスラ嬢の事件は全く身に覚えがなかったけれど、周囲は王子におもねった彼らがウルスラ嬢を抹殺したと見做し、実際に社交界で噂になっていた。
そして、王国重鎮の子息である彼らの婚約者もまた、王国要職や大身貴族の子女であり、亡きウルスラの友人だった。斯様に侮辱的な手法でウルスラを捨てて男爵令嬢と結ばれた王子を心底嫌悪し、王子と男爵令嬢に与した婚約者達を軽蔑していた。
「務めとして貴方に抱かれ、子も儲けますが、そこに愛などないと心得なされませ」そうはっきり宣言する者さえいたし、「我が娘(我が姉妹)を害したら、お前の一族を皆殺しにしてその肉を食わせてやる」と笑顔で告げる婚約者の父兄すらいた。
令息達にとって、身の潔白を明かすためにウルスラ嬢の事件を調査する必要があったのだ。
自己利益の追求として事件を調査した結果、王国軍から下っ端貴族士官一名と兵士数名、王都とナーヴァストラ侯爵領から若干名が行方をくらましていた。
こやつらが下手人か? と令息達が行方不明者の身内や関係者に事情聴取を図れば、彼らは口をそろえて『行方不明者達は”スペクター”に利用されていたようだ』と答えた。
では、スペクターとは何か。
調べるも一切分からない。何も分からない。組織なのか個人なのか、どういう活動をしているのか、何を目的としているのか――なぜウルスラ嬢を狙ったのか。
何一つわからない。その名が意味する幽霊のように、何も掴めない。
金と人と時間を費やして謎の存在が関わっているようです、なんて結果では誰も納得しないし、令息達も面目が立たないし、令息達に仕える者達も能力を疑われる。
よって、彼らは実に【王国】らしい収拾の付け方を採用した。
事件から約一月後。
ウルスラ嬢襲撃・殺害事件の犯人として、共和主義者の過激派グループが検挙された。
共和主義者達は決して犯行を認めなかったが、取調室でハンマーとペンチを使った結果、彼らは進んで自白調書にサインした。調書が血に汚れ、サインが歪んでいたけれど、気にした者はいない。
そうしてウルスラ嬢は凶悪な共和主義者による痛ましい犠牲、として書類の中に埋もれ、人々から忘れられていった。
○
ウルスラ嬢襲撃・殺害事件から約20年の後。
【王国】が焼かれていく。
かつて第一王子と呼ばれた当代の王は暗君だった。
かつて彼の取り巻きだった現宮廷の重心達は無能だった。
周辺諸国が結託して王国を侵略する中で、彼らは何一つ有効な手を打てず、策を講じられなかった。内政は結果を上げられず、外交は成果を上げられず、軍事は戦果を上げられず。
【王国】は瘦せ衰え、削がれ、弱っていく。
上の無能を下が補うことも限界がある。農村も工場も働き手が足りず、戦場では兵が足りず、それでも王も貴族も領地から税を採りたて、民から搾り取る。悪手と分かっていても他に手がない。そうしなければ、国家そのものが死んでしまうのだ。
周辺国は【王国】の降伏を認めなかった。
彼らが欲しいのは王国の土地であり、王国の資源であり、王国ではない。王家も貴族も要らない。
「なるほど。王国はもう終わりですな」
機密文書を読み終え、中年の紳士は右手の古い火傷跡を撫でる。
「王国の利権は求めない。これは間違いないのだね?」
【王冠連邦】大使が問えば、紳士は淡い微笑みを返した。
「ええ、閣下。“我々”は王国が亡ぶことで得られる平穏。他に何も望んでおりません。むしろ、貴国や周辺国家の繁栄と安定に寄与できたことを嬉しく思っております」
「それが本心だと良いがね、ミスター・ヴァルツ」
エルンスト・ヴァルツと名乗る40前のこの男は、20年ほど前に【王冠連邦】へ現れ、様々なビジネスを成功させてたちまち大企業グループを築き上げた。今やその富とコネクションを用いて【王冠連邦】を始めとする諸国の要路に展開。気づけば、諸外国の暗部すら手出しできない有力者となっていた。
その彼をして、“利用されている”という。
『スペクター』なる存在に。
今や【王冠連邦】どころか諸外国も、スペクターを無視できない。
それほどの影響力を持ちながら、何者もスペクターの正体はおろか目的や意図が掴みきれていなかった。
スペクターは時折、自主的な『協力』を求めるだけだ。強要しないし、それどころか反対も許容する。賛同には感謝する。だが、邪魔をすれば容赦はしない。
銀。握手。沈黙。死。
スペクターは四択を求める。例外はない。
その謎の存在『スペクター』の自称“使い走り”、エルンスト・ヴァルツは灰皿に煙草を押しつけてもみ消し、席を立つ。
「大使閣下。次の予定が詰まっていましてね。申し訳ありませんが、先に失礼させていただきます」
出口へ向かうヴァルツの背中へ、大使は問いかける。
「これからどうなる?」
「世はなべてことも無し。王国が無くなっても世界は回ります。これまで通りに」
ヴァルツは淡く微笑み、その部屋を出ていく。瞬間、完璧に潜んでいた超一流の護衛達が無音でヴァルツを護りながら部屋の周辺から去る。
大使は緊張を解いて大きく息を吐き、背後に控えていた秘書――の皮を被った連邦諜報機関の特級エージェントに問う。
「本当に奴が『スペクター』ではないのか? あのヴァルツを顎で使える存在がいるなどと、とても信じられん」
「我々の手が届く範囲内において、エルンスト・ヴァルツが『スペクター』と同義存在である確証はありません。ですが、奴が『スペクター』の代弁者であることだけは、確実です」
秘書は続けた。
「奴を拘束し、高度尋問に掛けるという選択肢もありますが……その場合は【共和国】の轍を踏む覚悟はしていただく必要があります」
かつて『スペクター』の正体を把握すべく【共和国】情報部が秘密作戦でヴァルツの拉致誘拐を試みた。
結果は惨憺たる有様で、拉致作戦に従事した現場要員は全滅。それどころか各国各組織の【共和国】潜入員や諜報員のリストが流出・暴露され、挙句は拉致作戦の立案者と作戦責任者の【共和国】内務大臣が“家族ごと”殺害される事態に至った。
一方で、ヴァルツが代表を務める『アースラ・グループ』は共和国の面目を立てる形で莫大な投資を行い、多くの雇用を生み出して共和国政府の支持率を大きく上げさせた。
この件で周辺国は思い知った。スペクターに手を出すより利用した方が良い、と。
「幽霊へ手を出して祟られては敵わん。上手く付き合えば利得が大きい以上、現状を維持するほかない」
大使はぼやく。
「スペクターか。個人か組織か分からんが……少なくともヴァルツの上にいる者は、きっと悪霊どころか魔王みたいな者だろうな」
○
【王冠連邦】の沿岸にモーズリー男爵家の小さな領地がある。
農業と漁業、ちょっとした加工業以外、目立った産業のない小さく凡庸な領地だ。
ただし道や橋、水道など生活インフラはもちろん、水害対策など防災インフラも完全に整備され、領内にある商店は品揃えがよく品数や品目の不足に困ることはない。
領地に暮らす住民の大半は開拓に伴う新規移入者で、元々の土地の者はほとんどいない。彼らは情に篤く聡明な領主夫妻を崇敬し、領主子女を敬愛している。
海を臨む港町の奥。陸の上に瀟洒な邸宅がある。モーズリー男爵家の御屋敷だ。領の役所は別に設けられているため、本当にただの御屋敷だ。男爵は毎朝、執務のために役所まで出勤している。
少なくとも、モーズリー男爵領に大企業「アースラ・グループ」の色も気配もない。
平凡な小領だ。
だから、誰も気づかない。
畑や港で働く者達が戦い慣れた兵士や戦士の身のこなしだったり、領内の町や村で働く役人や教師や売り子などが暗殺者や諜報員の目つきをしていたり、子供達の遊びがよく見れば戦闘訓練や諜報活動に準じたものだったりすることに、誰も気づかない。
領内のあちこちに非常時へ備えた武器弾薬と物資、隠れ家が用意されていることに、誰も気づかない。いざとなれば領主一家がいつでも船で脱出できるようになっていることに、誰も気づかない。
だから、モーズリー男爵領はいつも平穏でごく普通の平凡な日々が保たれている。
そんなモーズリー男爵の屋敷に新聞が届く。
【王国】の首都に【都市連合】軍が一番乗りした件が一面を賑わせていた。社説では【都市連合】に一番乗りを許した軍の不甲斐なさに不満をぶちまけていた。
アーシュ・モーズリー男爵夫人は記事を読み終え、特に感想なく新聞を置いた。
齢40が迫っていてもその美しさは若い頃と遜色なく、いやその美貌は成熟を加えられ、滴るほどの艶気と色気を伴っている。
少し年上のお付き侍女が南洋産の高級紅茶に上等なブランデーを加えた。
「あら。まだ日が高いのではなくて?」アーシュ夫人が興味深そうに問えば。
「カール様から祝杯が届けられましたので」侍女は優しく微笑み「“お嬢様”」
アーシュ夫人は微苦笑を返し、最高級のブランデーが注がれた紅茶を口に運ぶ。
まさしく甘露だった。
「美味しい」
夫人はしばし瞑目し、味わいを反芻した後、独りごちる。
「本当に、美味しいわ」
かつてウルスラ・デ・ナーヴァストラという少女だった男爵夫人は、ゆっくりと深呼吸し、往時を思い返す。
○
20年前のあの日。
人気のない峠道。突然停車した馬車。訝る護衛達。
刹那、道の両側に覆い繁る深藪から弩弓の矢弾が襲い掛かり、一個分隊の半分が射殺され、もう半分は隣にいた仲間に槍で刺殺された。御者席に座っていた護送監督官が吃驚を上げようとしたが、叶わない。手綱を握っていた御者に喉をばっさりと切り裂かれ、ごぼごぼと切断面から血と空気を流すだけだ。
藪から偽装布と覆面で身を包んだ者達がテキパキと死体を集めていく。仲間を裏切った2人の護衛と御者は自ら装備と服を脱ぎ捨て、襲撃者から受け取った平服に着替える。
「急げ。だが、確実に行え。必要以上の痕跡は残すな」
襲撃者の指揮官――カール・デ・ショールが冷徹に告げ、御者から受け取った鍵で馬車の施錠を外す。襲撃者の一人――ナーヴァストラ候家のウルスラ付き侍女だった女性に言った。
「侍女殿。2分でウルスラ様の御着替えを頼む。誰かが通りかかったら、そいつまで消さねばならん。無用な犠牲は避けたい」
「かしこまりました」
侍女が首肯し、着替えの服を抱えて馬車内に乗り込む。
藪から襲撃の仲間達が大きな袋を4つばかり持ってきた。中から墓場から盗んだ新しい死体や病死した乞食と娼婦の亡骸を取り出し、乞食の死体に護衛の装備と制服、御者装束を着せ、娼婦の遺体にウルスラ嬢の着衣をまとわせ、護衛や監督官の死体と共に並べる。
「名も知らぬ君よ。感謝する」
カールは娼婦の死体へ丁寧に告げ、手斧で顔を入念に破壊した。
侍女に伴われ、マントのフードを目深に被った御令嬢が馬車を降りてきた。カールは仲間の半分と侍女に言う。
「先に行け。後始末をしていく」
「これを」侍女が御令嬢の婚約指輪をカールに差し出す。
その時、御令嬢がフードの奥から問うた。
「なぜ、ですか」
「後でご説明申し上げます。今はこの場からお早く立ち去り下さいませ」
カールは恭しく答え、御令嬢をこの場から去らせた。残った者達と共に死体を馬車内に詰め込み、馬車の傍に指輪を投げ捨ててから燃焼剤を掛けて火を放つ。
「あっちぃっ!!」
予想以上に強力だった燃焼剤が勢いよく燃え上がり、右手を火傷した。
「あーあ。そりゃ痕が残りますぜ」と襲撃者仲間が呆れ顔を浮かべる。
「うるさい。さっさと撤収するぞ」
カールは酷い火傷を負った右手を庇いつつ、犯行現場を去っていく。
馬車は跡形もなく焼け落ち、死体は全て骨まで焼けた。残るものはわずかな骨片と燃え焦げた木片、融解した金属部品、そして灰のみ。
・・・
・・
・
とある小さな町の教会。その一室。
突然、奪取されたウルスラの前にカールが跪き、頭を垂れている。
「貴方は覚えています。王国学園の同窓カール・デ・ショール殿ですね……私の身を奪ってどうするおつもりですか」
不安と怯えが滲む声。貴族として諦観と達観に染まっているけれど、眼前の少年やその仲間達に非道なことをされるかもしれないという女性的な恐れは別だ。
「私は騎士家の四男坊です。卒業後は貴族士官の端くれとして王国軍に奉職することになっていました。祖父や父、叔父に兄、従兄弟達と同じように。そこに私の意思は関係ありません。騎士爵家に生まれた者として定められた生き方です。仕えるべく生まれた者として受容するほかない」
カールは頭を垂れたまま申し奉る。
「仕えることに不満はありません。ですが、忠誠を捧げる相手は選びたい。暗君愚物の手先に成り果てるのはなく、仕えるに相応しい主君を自ら選びたいのです」
「それが私ですか」
「はい」とカールは顔を上げ、
「私は貴女に騎士として忠を尽くしたくあります、ウルスラ様」
『なぜ』という疑問と困惑を湛えるウルスラへ真剣に告げた。
「これは私だけではなく、皆の願いでもあります。彼らもまた自ら主君を選びたいと欲していた者達です」
「どうして……私は彼らのことを何一つ、それこそ名前すら知りません」
俯くウルスラ。長いまつ毛が頬に仄かな影を落とす。
カールは主君へもう少し言葉を尽くした。
「ウルスラ様は本来なら王妃、国母になり得た真の貴種です。下々の全てを記憶することはなかったでしょう。ですが、貴女が意識せず過ごしてきたこれまでの人生において、彼らは貴女にこそ忠を尽くしたいと心から思う慶事を賜ったのです。機会があれば、彼ら自身の口で語ることもありましょう」
「……私は何もありません。領地も富も、もはや侯爵令嬢という立場すらも。貴方達に報いられるものなど本当に何も持っていません。それでも、私に仕えるというのですか?」
戸惑いを深めるウルスラへ、カールは微苦笑を滲ませた。
「ええ。私も彼らも“欲しいもの”は既に賜っておりますので」
「? ? ? ? ?」
ウルスラはさらに疑問を大きくするが、カールはこれ以上の説明をせず、話の水先を変えた。
「私の事情よりウルスラ様のことです。これから如何なさいますか?」
「これから……」
想像もしていなかったことを問われ、ウルスラは呆然と目を瞬かせた。
そんなウルスラへ、カールはあれこれと述べる。
「ウルスラ様が御身の名誉を辱めた犬共を討つと仰るなら、我らはウルスラ様の剣として奴ばら共を必ずや誅しましょう。こんな国を見限ったと仰るならば、我らはウルスラ様の供としてどこへでも御供します。共和国でも王冠連邦でも都市連合でも、なんならこの大陸を出ても構いません」
「この大陸を、出る?」目を丸くするウルスラ。
「そうです。ウルスラ様。世界はこの国で完結しているわけではありません。この大陸だけでも無数の国々があり、我々の想像もつかぬ文化風俗の土地が広がり、海の向こうにはいまだ我らの知らぬ世界があるのです」
まるで詐欺師のように語り、
「さあ、ウルスラ様。何を為さりたいですか。何でも仰ってくださいませ。誉れを取り戻す復讐でも、どこか静かな地で隠棲でも、御伽噺のような冒険でも、かまいません」
カールは言った。心の底から楽しそうに、そしてウルスラに仕える喜びに溢れて。
「不肖カール・デ・ショールと我が同志達。いずれも非才の身でございますが、貴女の希望をいくらか叶えるくらいの気概は備えております」
その言葉は正しく実行された。
ウルスラが愛着も未練もない【王国】から誰も知らない土地に行きたいと言えば、カールはどこからか調達した外国人の身分証を用い、【王冠連邦】へ出国した。アーシェという名もこの時に与えられ、カールを始め他の者達も皆、名を変えた。中には秘薬を用いて顔や容貌を変えた者さえいる。
世界を見てみたいと言えば、【王冠連邦】を拠点にいろいろな土地を旅した。海を越えて新大陸に赴く大冒険もした。
ウルスラが生活に困ることが無いよう、それも“元”高位貴族令嬢に相応しい質の生活を送れるよう、カール達はどこからか大金を得てビジネスを始めた(その時、カールは「これからは少しくらい浪費しても大丈夫です」と笑った)。いつの間にか複数国に跨るコネクションと情報網を構築し、会社を大陸屈指の有力企業に育て上げた。
カールとその仲間は常にウルスラの望みと願いを叶えるべく全力を尽くした。その在り方は忠臣の一語に尽きる。
そして、ウルスラが現夫君と出逢って恋に落ちた時、カール達は恋の成就に向けて全力でサポートした。どうやったのか男爵の爵位と領地を手に入れられるよう図りさえした。
なぜ、そこまで私のために。
ウルスラがそう問えば。
カールとその仲間達は微苦笑と共に誇らしく答えた。
そのように問われる貴女だからこそ、我ら一同誠心をもってお仕えするのです。
・・・
・・
・
今、アーシェ・モーズリー男爵夫人は幸せだった。
愛する夫と素晴らしい家臣達で掴み取った領地を得て、可愛い子供達に恵まれ、善き領民と共に、穏やかで充実した日々を過ごしている。
○
エルンスト・ヴァルツ。
大陸間・国家間の海運陸送業を軸に一次、二次、三次産業まで手広く商い、特に近頃は製薬・医療品方面で強烈な存在感を持つ大企業『アースラ・グループ』の経営者だ。生まれ育ちははっきりしないが、王冠連邦人であるという国籍証明書に怪しいところは一切ない。
もっとも、アースラ・グループは非公開株式会社であり、グループの持ち主は別に居ると噂されているけれど、真偽は分からない。
ヴァルツを筆頭にした組織中枢の大幹部達は『このグループの真の主は“スペクター”さ。我々は利用されているだけだよ』と冗談めかして笑う。
だが、誰も“スペクター”が何なのか知らない。個人なのか組織なのかも分からない。そもそも本当に実在するのかすら定かではない。
ただ一つ言えることは……
【王国】解体戦争は紛れもなく、“スペクター”の意思によって引き起こされた。
・・・
・・
・
エルンスト・ヴァルツことカール・デ・ショールは大陸有数の大企業『アースラ・グループ』の経営代表者として、王冠連邦外交団のコンサルタントの一人として、20年振りに【王国】へ足を踏み入れていた。
いや、もはや【王国】ではない。
街並みの先に立つ傷ついた王城には【王冠連邦】、【共和国】、【都市連合】など連合軍の各国旗がはためいており、【王国】の旗はどこにもない。
【王国】は周辺国によって攻め滅ぼされ、その国土は各国に分割された。亡命できた王侯貴顕は少ない。多くは戦火に倒れ、戦後の粛清と弾圧で命を落とした。
ウルスラを追放させた第一王子と男爵令嬢――【王国】最後の国王夫婦一家は船舶で別大陸へ逃亡を図り、停船命令を無視して撃沈され、海の藻屑と化した。2人の取り巻き達――王国重鎮の令息達は大半が戦中に戦死したか戦後に処刑された。が、妻子は寛大にも見逃された。そこに彼女達とかつて友誼があったウルスラ――現モーズリー男爵夫人の意向があったか定かではない。
ウルスラの生家ナーヴァストラ侯爵家は戦火の中で滅ぼされ、断絶した。ウルスラの両親や弟妹一家は城を枕に討ち死にしたらしい。同侯爵領が王侯貴顕へ冷酷無比な共和国軍に攻められたゆえの不幸だった。
そうした情報にカールはまったく心動かされなかった。ただただ面倒が片付いたと鼻息をつくだけだ。
家族の消息を知っても、その姿勢は微塵も揺るがない。
自分が国を棄てて姿を消した後、間もなく病に斃れた母。数年前に没した父。戦禍で命を落とした兄達。いずれを知っても、情動はフラットを保った。
かつて自身が通った王国学園へ足を運んでみれば、敷地も学舎も戦火で荒廃しきっていた。
婚約破棄事件の舞台となったホールは砲撃で天井に大穴を開けられ、陽光が差し込んでいる。
無言で軽く手を振り、カールは護衛達をホール周辺に展開させ、独りになって――
呟く。
「余計な真似をしなければ、今少し永らえたものを」
あの日、ウルスラを奪取して【王国】の外へ出て以来、【王国】などどうでも良かった。自分達が何かせずとも、そのうち旧弊がゆき過ぎて勝手に滅びるだろうと思っていた。
全ては5年前。立憲君主制議会制国家【王冠連邦】にて王の代替わりがあった。全ての貴族が王宮に集まり、新王の誕生を寿いだ。
問題はその場に外国の要人も参じていたことで、旧弊的な【王国】も外交使節を寄越す程度の外交儀礼を弁えていたことだ。
何より、送り込まれた外交使節の代表がかつて第一王子の取り巻き令息の一人だったこと。
元令息は気づいた。
モーズリー男爵夫人アーシュとして周囲に微笑む美女が、自分達が追放し、不幸な事件で亡くなったはずのナーヴァストラ侯爵令嬢ウルスラだと。
他人の空似と流していれば良いものを、元令息は事情を調べようとした。
もちろん、王冠連邦貴族になったウルスラを利用するために。
令息の放った探偵や間諜などその手の輩はカールと同志達が“スペクター”として全て闇に葬った。当然、件の令息も暗殺した。カール自身が最も信頼する手勢を率いて。
思い返すに不愉快極まる男だった。
元令息はカールを嘲笑った。
【王国】高位貴族にして高官たる己を、下賤な殺し屋風情が手に掛けられるはずがない、と高をくくって。あれには言葉も無かった。どうすればあそこまで己を特別視できるのやら。
元令息は問うた。なぜだ、と。
――貴様もあの女を利用してるんだろ? 王冠連邦の貴族にあてがって利用してるんだろ? なぜ我々にも利用させない?
その言葉だけでも八つ裂きにすべきだったが、真に許し難い発言は嘲笑と共に紡がれた。
――ひょっとして惚れてるのか? あの女に惚れてるのか? いや、そうか。あの女はお前の愛人だな? あの女の子供はお前の子なんだろう?
直後、カールは元令息を生きたまま“解体”した。見かねた手勢達に停められるまで徹底的に。
自身のウルスラに対する至誠を、自身の尊厳たる忠誠心を“下世話”な恋愛感情に貶められ、怒りに我を忘れてしまったのだ。
そして、元令息の抹殺には成功したものの、情報が【王国】に届くことを防げなかった。
【王国】にウルスラが生きていることを知られた。このままではウルスラの平穏な生活が護られない。
だから、カール達は“スペクター”として【王国】を滅ぼすことにした。
5年掛かり工作を続け、周辺国に対【王国】同盟を結ばせ、戦争を起こさせた。もちろん、ウルスラも事を承知している。カールは主君たるウルスラを決しておざなりにしない。
剣も握ろう。弓を構えよう。銃砲の照準を合わせよう。毒を用意しよう。
しかし、実行の是非は主たるウルスラの決断を仰がねばならない。
その決断を自分達に都合よく促してはならない。
忠誠を誓ったカール達の絶対的掟だった。
ウルスラは選択肢を突きつけられた。自分と家族の幸せと【王国】――正しくは王国に暮らす大勢の命。
数日に渡る苦悩の末、ウルスラはカール達へ命じた。
成すべし、と。
命を受け取り、カール達は忸怩たる思いを抱いたものだ。
王国を滅ぼしたことにではない。ウルスラの御宸襟を騒がせたことに、だ。彼らの忠誠心と良心はウルスラにしか向いていない。
ふん、と鼻を鳴らし、カールは瞑目し、記憶のページをめくる。
――あの日。まだこの廃墟の学生だった頃。
貧乏騎士爵家の四男坊であるという理由だけで周囲から侮られ、蔑まれ、見下され、おもねりへりくだることを強いられる。自分自身がどれほど優れた頭脳を持っているかを示しても何ら評価されず、それどころか虐げられる理由にされてしまう。
そんな環境に疲れ果て、心身ともに完全に擦り切れ、涙ながらに相談した父母や兄達から『泣き言をいうのはお前に意気地がないからだ』と頬を張られた時、本当にもう本当に何もかもどうでもよくなった。
家族がどうなろうと家名がどうなろうと知ったことかあのクソ野郎共をぶっ殺して死んでやる、と昏い決意を固め、祖父の遺した剣を佩いて教室へ向かっていた、あの日。
たまたま階段で出会ったウルスラ様にお声を掛けられた。
――もし、カール・デ・ショール殿。その剣は御祖父様に授けられたものではなくて?
この時、カールの受けた衝撃は大きい。
なにせこの瞬間までカールとウルスラは、一切の関わりなど無かったのだから。貴族社会の白鳥たる侯爵令嬢がまったく縁もゆかりもない貴族社会最下層の鼠たる貧乏騎士爵家四男坊の顔と名を把握していた。
その衝撃的事実に加え、カールが佩いていた剣の由来まで知っていた。
この剣は、とある戦で木端騎士だった祖父がたまさか小さな手柄を上げ、国王陛下から授けられたものだった。家族は家宝と誇っていたが、真実はお寒い。当時は国庫をケチるためと士気高揚のため、見てくれだけはそれなりの粗製濫造の剣を、褒美として頻繁に下賜していたのだ。
そんな大量にばらまかれた剣を、ウルスラは全て暗記していた。後に王妃となり、式典などで当時の剣を佩いた者から挨拶を受けるかもしれない。その時、剣の来歴を知っていて一言掛けたなら、相手は誇らしく思うだろうから。
先祖が国に尽くし、貢献したことを認められる。いずれ王妃となる方に己の来歴を知って貰えている。世と社会に拗ね、家族にすら愛想が尽き、何も恃むものを持たなくなった者に取り、それがどれほど誇らしいものか。
ましてや、この瞬間まで一切の関わり合いを持たなかった己の名前さえ、覚えていて下さったという事実が、惨めなほどすり減ったカールの自尊心をどれほど慰め、癒したことか。
カールは階段でウルスラと別れた後、教室に行かず自宅へ帰った。感激の涙を流しながら。
ウルスラ様は覚えてもいないだろう。侯爵令嬢として大身貴族と付き合う彼女にとり、この程度の声掛けは些事にも当たらない。
けれど、あの日の出来事はカール・デ・ショールにとって決定的な出来事だった。
あの日、カール・デ・ショールという卑賤な人間は、ウルスラの言葉で確かに救われたのだ。
あの日、カール・デ・ショールという己に何の価値も見出していなかった少年は、自分が誠の忠を尽くすべき人間を見つけたのだ。
さらに言えば、カールだけではなかった。
決して人を嘲らず、決して人を貶めず、どれほど身分が低かろうとも人間として敬意を示すウルスラに心を救われ、脳を焼かれた者は、カールだけではなかった。
ウルスラを心から敬愛し、忠を尽くすことに生きる甲斐と意義と意味を見出した者は、カールだけではなかったのだ。
カールを始めとする彼らは動いた。
――あの素晴らしい佳花を奴らが要らぬと棄てるならば、我らが奪い取り、戴こう。我らが誠に忠を捧げ、真に尽くすべき主君を手に入れるのだ。
そして、成した。
この20年、なんと満たされてきたことだろう。
忠義を尽くすに相応しい主君に全力でお仕えし、幸福を陰日向に御守りするというカタルシス。なんと充実し、誇らしい日々であったことか。
であるからこそ、【王国】の痴れ犬共にウルスラ様の生存を知られたことは痛悔の一言であり、【王国】を滅ぼすなどという“しょうもない決断”を主に強いてしまったことを強く恥じ入ったのだ。ウルスラ様が抱いたであろう御心痛に比べたら、戦争で失われた命など、物の数ではない。
大きく深呼吸し、カールはホールを後にする。
分割した【王国】の利権についての話し合いを済ませ、さっさと帰ろう。ここにはもう何の用もない。
真に忠誠を捧げるに相応しい主君の許へ戻るのだ。
○
時は流れ、臨終が近づく最期の日々。
忠を尽くした主君は既に泉下へ旅立ち、同志達の多くも世を去った。ようやっと自分の番が回ってきた今、カールの心は大いなる充足感に満ちている。
彼を見舞った少女が問う。
「ヴァルツの大おじ様は……お婆様のことを愛してらしたの?」
若き日の主君によく似た少女へ、カールは微苦笑を返した。
「そうですな。心より愛しておりました。ですが、それは男女の間で持たれるような愛ではありません。真に敬うべき方へ心の底からお仕えし、全力で尽くしたいと欲する愛です」
「奉仕の精神、みたいな?」
「少し違います。この愛はそう……古臭い言い回しを使うならば、騎士の忠誠心ですな」
「……よく分からないわ」
少女は戸惑う。
【王冠連邦】は今も貴族制が存在し、騎士の称号を持つ者もいる。でも、それはもう社会的ステータスでしかない。
「今はそれでよろしいでしょう。いずれお分かりになられます」
慈しむように柔らかく微笑み、カールは少女へ問い返す。
「他に何かお聞きになりたいことはございますか? 冥府へ旅立つ置き土産に何でもお答えいたしますよ」
「じゃあ、一つだけ」
少女はカールを真っ直ぐ見つめ、尋ねた。
「“スペクター”とは何なの?」
カールは真剣な顔でぽつりと告げる。
「内緒です」
「なんでも答えるって言ったのに……っ!」
ぷくりと頬を膨らませる少女へ、カールは大きな笑みを返した。
ウルスラへ忠誠を誓った時と同じ笑みを。
カール・デ・ショールの墓はなく、エルンスト・ヴァルツの名で建てられた質素で小さな墓には『忠誠こそ我が証』と記されているのみだ。
彼の墓はモーズリー男爵領の墓地、アーシェ・モーズリー男爵夫人の墓を見守れる場所にひっそりと建っている。
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