第92話 レイス
異様な雰囲気が部屋に充満していた。固まっていて迂闊に身動きのできないグリムナ、ヒッテ、フィー。そして3人の間を品定めするようにゆっくりと歩く、汚いローブに身を包んだ顔色の悪い男、レイス。
このレイスの目的が何なのか、もし敵対的であるならばどうやって攻撃するつもりなのか。それが分からないから身動きが取れないのだ。足音がしないことから、実態はないのかもしれない。ならばどうすれば撃退できるのかが分からない。
それどころかこういった手合いは下手に行動を起こして禁忌を踏めば取り返しのつかない事態となりかねない。
おそらく、カルケロの家はしっかりと魔除けの処置が施してあったのだろう。だからこそこういった強い魔の存在は家主に許可を得られないと入ることができなかったのだ。そして、家主が死んだ今、先に入室していたグリムナがバッソーに外見を偽ったレイスに対して入室の許可を出してしまった。失着である。
レイスとは、死霊とも生霊とも言われるゴーストの一種であり、一説には幽体離脱に失敗して体と泣き別れになってしまって、帰る場所を失った魂だとも言われる。生きているときと同じような人間の姿を保った、実態を持たぬエネルギー体である。意志を持たない幽鬼のような存在であることもあれば、生前の記憶を持って、魔術の研究を続けていることもあり、また、見た者を呪い殺す邪悪な幽霊であるとも、交渉次第では助けてくれる存在だとも言われる。
包み隠さず言うと、良く分からない存在なのだ。
だからこそグリムナ達も迂闊に敵対行動がとれない。もし敵対したとしてどんな攻撃手段が有効なのか、アンデッド系の御多分に漏れず太陽の光に弱いということは分かっているのだが、生憎夕日は先ほど山の稜線に消えたところだ。
今のところレイスから攻撃の気配はない。穏便に済むのならば穏便に済ませたい。日が完全に沈んで、明かりのついていない家の中は夜の闇が支配しつつあった。その視界の悪い中をレイスはまだウロウロと何かを探すように歩き回っている。
このレイスはグリムナ達が来る前から何度もここに尋ねてきていたという。ならば目的はカルケロの研究のはず。
『早く消えてくれ』グリムナはそう心の中で呟く。『お前の目的のものなどここにはもうない』……おそらくはヴァローク、もしくはヤーン……いや、この状況だとヤーンはヴァロークの一員の可能性が非常に高いが……どちらにしろそのどちらかが研究の成果は持ち去ってしまったのだ。レイスの目的のものはもうここにはないはずである。
しばらくするとレイスはヒッテの前で立ち止まって、ゆっくりと顔を覗き込んだ。
口を開けて何か話しかけているようだが全く声が聞こえない。しばらくそうやって何か喋っていると、諦めたのか、少し俯いて残念そうな表情で顔を横に振った。
グリムナはもしかしたら、そのままレイスは諦めて出て行くかとも思ったのだがさすがにそれは甘い予測であった。レイスはヒッテの左手首をグイッと掴んで自らの元に引き寄せ、連れて行こうとしたのだ。
実態があったのか、ヒッテが連れていかれる、グリムナはそう思うが早いか、「やめろ!」と叫びながらレイスを止めようと彼の腕を掴もうとしたのだが、なんと彼の手はレイスの腕をすり抜けた。
打つ手なしかとも思われたが、グリムナがそのまま体勢を崩してレイスの体に重なると、レイスは「アアアァァッ!!」と叫び声のような音を漏らして、昨晩のように何もない空間にスゥッと消えてしまった。
「はぁ、はぁ……大丈夫か、ヒッテ?」
グリムナが彼女を気遣うと、ヒッテは掴まれた自分の左手首を見ながら答えた。
「い、今のは……掴まれた感覚はありませんでした。でも、何だろう……掴まれたように感じた……引き寄せられる感覚があった……」
「フィー、明かりをつけてくれ!」
グリムナがヒッテの手首を見ていて何かに気づいたようで、部屋の中に明かりをつけるようにフィーに指示をした。フィーはすぐに炎の魔法で明かりをつけると、部屋の中が一気に明るくなった。
夜の闇に隠されていたカルケロの遺体を見て一瞬グリムナはいたたまれない表情をしたが、すぐに視線をヒッテの手首にやった。
そこには、先ほどのレイスの手の跡が黒い痣のようにくっきりと刻まれており、目を凝らすと煙のように痣から何かが漏れ出ていた。
「まずいわね……何か呪いを受けたのかも……」
フィーが小さい声でそう呟く。グリムナはすぐに「どんな呪いなのか分からないのか、解く方法はないのか」とすごい剣幕でフィーに食って掛かったが、フィーはただ「呪術には詳しくない」と言って、戸惑って首を振るばかりである。
「ご主人様、今のところ実害はないですし、ただの霊障で、呪いじゃないかも……何の意味もないかもしれません。それより今は分かっていることを片付けましょう」
ヒッテはそう言いながら捲っていた長袖を元に戻して手首を隠した。気丈な言葉である。グリムナにはそう簡単に気持ちを切り替えることはできなかったが、先ほど拾った何も描かれていない紙を思い出してポケットからそれを出した。
「なんなの?その紙……」
フィーが興味深そうにのぞき込んできたが、明かりのある今の状態で見ても、やはり何も描かれていない真っ白い紙である。しかし、よくよく目を凝らしてみてみると、うっすらと何か色の変わっている部分があるように見えた。
グリムナはそのまま紙を先ほどフィーがつけたろうそくの場所まで持っていって、紙を軽く炙り始めた。
「あ! もしかして……」
何か思い当たったようでフィーも声を上げる。そう、『炙り出し』である。炎でリンゴや柑橘類の果汁で白い紙に文字を書いて、それを後から炙ると、果汁の方が紙よりも先に焦げて黒くなるので文字が浮かび出るのである。
「たまたま近くにあったリンゴを使ったんだろう……これは、ヴァロークに知られずに俺達に情報を教えるための、彼女の『ダイイングメッセージ』だ……奴らに気づかれるかどうかは、賭けだったろうけど……」
紙をあぶり終えて、グリムナはそれをテーブルの上に広げた。
「ヴァロークが世界を滅ぼす……ネクロゴブリコン……」
「どういうことです……? なぜここでお師匠さんの名が……?」
書かれた内容を読み上げたグリムナの声にヒッテが疑問を投げかける。確かにこの部分だけ、何か唐突ではある。まさか彼の署名というわけではあるまい。いくら時間がなくて詳細に書けなかったとしても、やはり唐突に感じる。ネクロゴブリコンが何か事情を知っているということであろうか。つまり、彼に話を聞けば何かわかる、と。
そして『ヴァロークが世界を滅ぼす』この部分もやはり不穏である。ヴァロークは竜を倒すために聖剣エメラルドソードを探しているのではなかったのか。むしろ世界を滅ぼす竜に敵対している、とグリムナは考えていたのだが。
全員でそんなことを話し合っていると、外から声が聞こえた。
「はぁ、はぁ……お~い、みんな~」
窓から見ると、外から呼びかけているのはバッソーであった。
「ふぅ……疲れた……やっと追いついた。なあ、入ってええか?」
「ダメです」
「え……?」
間髪置かずそう答えたグリムナに、バッソーは思わず固まってしまった。
というかこのじじい、いつもは中に入るだけで許可なんて求めないのに、なぜ今日に限ってこんなやり取りをしてしまうのか、間の悪い。
「書き残せたメッセージは、これだけみたいね……他に目ぼしいものはないし」
外のバッソーを無視して、フィーが辺りを見回しながらそう言った。
「とりあえずは、一旦南の方に戻って、師匠に話を聞いてみるか。約定がどうのと言ってはいたが、こうやって名前が出て来たんだ、もう無関係ではいられないからな」
グリムナがそう発言すると、再びバッソーが外から声をかけてきた。
「ねえ、そこで倒れてるのってカルケロ? いったい何があったの? なんで入っちゃダメなんじゃ? なあ、入っていいじゃろ?」
「ダメなもんはダメです」
再びグリムナは拒否する。同じ轍は踏まない男である。
「その前に、カルケロさんの遺体を埋めてやらないとな……ヒッテ、悪いけど納屋に行ってスコップか何か探してきてくれるか? 穴は俺が掘るから」
「分かりました」
そう言って外に出ようとするヒッテにグリムナはおって声をかける。
「外にいる生き物には目を合わせるなよ」




