第74話 人々の想い
『もう一度言う。お主はよくやった、グリムナ……』
悲しそうな表情で、足元を見ながらベルアメールはそう呟いた。
彼女の足元には聖剣エメラルドソードが刺さっており、その周りには土くれが固まっている。
いや、よく見ればそれは土くれなどではなかった。
人の形をしているように見える。腕がある、脚がある。まだ若い、青年の顔が見える。
けれどもその肌は、ぼろぼろに錆びて、腐食した青銅のように荒れ、色は黒土の様だ。人の形をしているが、まさかそれが元々は人であったなどと誰が思おうか。
ぼろり、と青年の顔の頬から下が崩れ落ちた。
敗北を自覚し、自分の行ってきたことも全て無駄だったと悟ったグリムナは、全ての生きる力を失ってしまった。
人の無意識の集合体の存在である竜の背に於いて、生きる意志を失うということは、つまりこういうことなのだ。意識と体が相互に影響し合い、全ての力を失ったグリムナの体はぼろぼろに腐食し、土くれとなった。
今は何とかその形を保っているが、いずれは風に吹かれて消え去る事だろう。
オオオォォ、と竜は遠吠えを一つ上げた。
東の空が少しずつ白んできたように見える。
冷たい風の吹く空の下、日はまた昇る。いつの間にやら雨もやんではいるが、その朝日は残念ながら人の勝利を祝福するものではなく、全ての希望が潰えたことを知らせる滅びの狼煙に過ぎなかった。
『本当に……よくやった……人の身で、ここまでできるとは思わなんだ……』
ベルアメールがそう呟くと、体の回復した竜は、ゆっくりと、ゆっくりと脚に力を込め、その鈍重な体を持ち上げる。
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遠くで、竜の遠吠えが聞こえた。
長く、恐ろしい夜であった。竜の地ならしはどこまでも聞こえてきたし、火山の噴火は遠く離れた隣の国にまでも視認することができた。
ようやく明けた、夜を払う日の光は、明るい希望を指すのか、それとも変わらず続く苦難の日々か。しかし、竜の鳴き声が聞こえたことを考えれば、おそらく後者であろう。
「大丈夫よ……」
村の廃墟で、そう呟いて、アムネスティは幼い娘の体を抱きしめた。
「あの空の向こうでは、グリムナさんが戦っているんだろうか……」
リカウスがそう呟くと、娘のミシティは涙を流した。
「怖いの? ミシティ。大丈夫、遠くで起こっている事よ」
「ちがう、ちがうの」
ミシティは首を振る。
「グリムナのおじちゃんは一人で戦ってるのに、ミシティ達のために戦ってるのに、ミシティには何もできない……自分の事なのに……」
震えているミシティの頭をリカウスは優しくなでた。
「できるさ……グリムナを応援しよう。私達のために戦っている彼を、応援することくらいはできるさ」
ミシティはゆっくりと父の顔を見て、涙を流した。
「グリムナ……」
アムネスティの口からその名がこぼれ、そして彼女は空の向こうに思いをやった。
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「グリムナ……本当にあなた、あの竜と戦っているのぉ……?」
不安そうな表情でリヴフェイダーが呟く。
ボスフィンから離れ、自身のファミリーと市民を引き連れて山に避難している彼女も、トロールの持つ鋭敏な感覚で、最期の戦いを感じ取っていた。
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「グリムナ……世界を変えることができるのは、お前の強い意思だけだ……」
同じようにアンキリキリウムの市民の避難を率いているゴルコーク。西の空に見える黒い雲を見ながら、彼も呟いた。それを知る方法などないのだが、なぜか、グリムナと竜の、最後の戦いを感じ取っていた。
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「みなさん、落ち着いてください」
少数の難民を前にして、竜の足音を感じながらベアリスは静かに話しかけた。
「大丈夫です。人間は、必ず竜に勝ちます。なんたって、『勇者』グリムナがいるんですから!」
避難民たちの間に希望の光が差す。口々に『勇者』の名を呟く。
「私達が希望を失わない限り、グリムナがいる限り、人類は決して負けません!」
笑顔でそう語って、ポケットからスキットルを取り出したところで、隣にいたビュートリットにそれを取り上げられた。
「あっ……」
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「どうした? レイティ……?」
今日の炊き出しの準備をしていた赤い装束の男、ファング枢機卿が話しかけると、レイティは不安そうな表情で振り向いた。
「なんか……なんとなく、竜が動き出したような気がして……」
二人は、西の空を見上げる。竜が進んでいった先、その向こうの空に、不穏な空気を感じた。彼に最後にあったのは、この廃墟と化したローゼンロットの町。
疲弊しきって、今にも倒れそうなグリムナの表情をよく覚えている。しかしそれでも、彼は市民を助けることを決してあきらめていなかった。その顔を思い出すと、不思議と勇気が出てくる気がした。
「グリムナは……竜に勝てるんスかね……」
ファング枢機卿は少し考えてからぽりぽりと額を搔いて答える。
「さあなぁ?」
その言葉にレイティは思わず彼を睨みつけたが、しかしファング枢機卿は慌てて付け加える。
「だが奴は決して負けないさ。何度でも立ち上がる。そういう男だ」
そう言いながら火を起こして、瓦礫の石で作られたかまどの上に巨大な鍋を乗せた。
「だから俺達も負けない。さあ! 炊き出しの準備を手伝ってくれ」
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砂漠なのに妙に湿度の高い部屋。
朝日の光を取り入れるために窓を開けたイェヴァンは何か胸騒ぎがして西の空を見上げた。
思考とは切り離された感情で、何の理屈もなく、何の根拠もなく、ただ一人の男の顔を思い出した。
「グリムナ……あんたはきっと、世界を救うよ……」
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幾度かの大地の揺れを感じ取り、しかしそれでもその村の夜はまるで人など住んでいないかのように静寂に包まれていた。恐怖におびえる悲鳴も、避難しようとする者もない。
赤毛の女性は、普段通り椅子に座ったまま、しかしいつもなら褥に入るはずなのに、西の方向を向いたまま、その方向の窓を開けたまま夜が明けるまで空を眺めていた。
「どうしたの、シルミラ……もう夜が明けちゃったよ……」
レニオは優しく彼女の肩に手を置く。
「あ……」
珍しく彼女が声をあげる。
椅子から降りて立ち上がろうとして、しかし衰えた彼女の脚は体を支えられずに床に崩れ落ちる。レニオは慌てて彼女の肩を抱いて抱え上げようとする。
彼女は……涙を流していた。
この数ヶ月、全く情動の変化がなかった彼女が、涙を流していた。
「ど、どうしたの!? シルミラ!」
生きる力を失っていた妻に生気が戻ったのか、驚いてレニオは声をかける。
「グ……」
シルミラは、ぽろぽろと涙をこぼし、すがるように西の空を見上げる。
「グリ……ムナ……グリムナ……!!」
レニオもつられて西の空を見た。火山の噴火と地鳴りから、もくもくと黒煙を巻き上げている西の空。その空の向こうに、誰よりも優しく、誰よりも強い、かつて愛し焦がれた、幼馴染みの顔が見えた気がした。
「グリムナ……そこに、いるの……?」
誰もが、その男の事を思い浮かべた。
自らの弱さを恥じ、変われなかった愚かさを憎み、そして希望の姿をそこに思い浮かべた。
この大陸に住む多くの人々が、聖者の名を、そしていつか自分達を助けてくれた男の顔を思い浮かべた。
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『なぜじゃ……』
ベルアメールは恐怖に歪んだ表情を浮かべる。土くれのように崩れ、死んだと思われたグリムナ。
その体だったものを取り込もうと触手で包み込んだが、しかしいつまでたっても変化がない。吸収できない。
『まさか、まだこんな状態になっても生きているとでも言うのか……?』
聖剣エメラルドソードのもとに、触手に包まれ、こんもりと盛り上がった竜の背。
『聖剣は……人の想いと、魂を集めるという……いったい何が起きているんじゃ』
そう言って彼女はその剣の根元に手を当てた。しかしすでに人の身ではない彼女にはその力の正体が分からない。
『まだ抵抗するというのか……いいじゃろう』
ベルアメールの眉間に皺が寄り、強い意思をうかがわせる決意の表情が見えた。
『儂とて人の呪いを一身に受け、四百年の長きにわたり苦悩し続けた身、この儂が、全身全霊をもってお主の精神を直接叩いてやる。体だけでなく、心の奥底までも、ボロボロに腐食して、二度と立ち上がれぬほどに!!』




