第182話 ようこそここへ
「私は……マフィアになんかなりたくなかったのに……」
グリムナの目の前にいる少しトウの立った女性は、そう言って泣き出してしまった。絹のようにつやのある黒髪にグラマラスな体、そして右目には眼帯をしている。紫色のセクシーなドレスには似つかわしくない武骨なデザインの眼帯であるが、それが一層彼女の美しさを引き立てているように感じられた。
グリムナはこの女性に見覚えがあった。
ガラテアファミリーのボス、ノウラ・ガラテアだ。つい数時間前にメキを助け出すために向かった組織の大ボス、その女ボスが少女のようにグリムナの前で泣きはらしていた。グリムナは困ったような表情で彼女の頭をなでながら慰めた。
「あんたが学校へ行くことができたのも、この危険な町で生きてこられたのも、父親がマフィアのボスだったことも……全部含めてあんた自身なんだ。それを否定しちゃいけない……」
グリムナがそう言うと、ノウラは涙をにじませたままの瞳でグリムナの目を見つめた。グリムナはその悲しげな瞳から目をそらしたくなる衝動を必死で抑えた。ここにいるということは、おそらく彼女ももう死んでいるのだ。ヤーンに殺されたのか、それとも別のところですでに死んでいて、その後ヤーンに吸収されたのか、それは彼には分からないが、しかし彼女がグリムナの目の前にいるという事は、すでに死んでいることだけは確かである。
ノウラの外見が人間に変化したリヴフェイダーに非常に似ていることも少し気になったが、あの気まぐれなトロールが姿を似せていることにさほど意味はないだろう、と思ってグリムナは言葉を続ける。
「否定したいことでも、逃げたいことでも、事実は全て受け入れるんだ。何かアクションを起こさなくても、受け入れるだけなら意外と簡単なものさ……そうすれば……」
ノウラはまるで年端もいかない少女のように、不安そうな、しかし希望に満ちた表情でグリムナの言葉を制して口を開いた。
「そうすれば、私も前に進めるのかな……?」
この言葉にグリムナは思わず眉間にしわを寄せたが、しかしすぐに優しげな表情に戻して答えた。
「ああ……きっと前に進めるさ」
もう何度目か。このヤーンの精神世界に入ってから、数えてはいないが、何十回目かの嘘を彼はついた。すでに死んでしまったノウラが進むべき場所も、進める場所も、もうない。それが分かっていても、彼は嘘をつき続ける。グリムナは、彼女が安心したような柔らかい笑顔を見せると、少し悲しそうな表情を見せながらも、その場を後にし、次なるドアの前まで歩いて行った。
(もう、限界だ……)
心の中でそう呟いた。この精神世界に捕らえられて、身動きのできなくなった『後悔の塊』を慰めるために嘘をつき続ける。いったいこれがあと何回、何十回続くのか……この悪徳の町が、こんなに後悔と絶望に満ちていたとは。町の有様以上に、ここまで人々の精神が退廃していたとは、そこまでとは思っていなかったのだ。しかし、それでもヤーンを助けるために、彼はドアを開ける。
ドアを開けると、そこは見覚えのある部屋だった。それほど懐かしいわけでも、縁が深い場所でもないが、しかしその小汚い部屋には彼が見覚えがあった。そして、そこに何をするでもなくボーっと地べたに座り込んでいる少女にも、見覚えがあった。
「ヒッテ……!?」
その部屋は、アンキリキリウムの町で、彼女を購入した奴隷商館だった。
「ヒッテ!? なぜこんなところに? 外にいるんじゃなかったのか?」
一瞬ヒッテもヤーンに殺されたのかと思ったが、しかし彼女は他の亡者どもとは明らかに雰囲気が違った。はっきりと、グリムナを認識しているようであり、彼に話しかけてきた。
「ご主人様……ヒッテは……ご主人様を助けに来て……」
「そんな危険なことを……なんて無茶をするんだ……」
そう言ったが、すぐに彼は気まずそうな表情をしてしまった。自分の姿というものは自分ではなかなか認識できないものであったが、おそらく彼女らからしたら、彼自身も、今のグリムナから見たヒッテのように無茶をしているように見えたのだろう、と気づいたのだ。
ヒッテは少し俯いて、話を続けた。
「ヤーンさんを探していたんですけど、ここにいる人たちの絶望にあてられてしまって……自分自身が……分からなくなってしまって……」
そう言ってから、ヒッテはグリムナの入ってきたのと違うドアを目線で指さした。
「あそこのドアの向こうに、ヤーンさんがいます……でも……」
「でも……どうしたんだ?」
言葉を止めてしまったヒッテにグリムナが問いかけると、彼女は少し考えこんでからゆっくりと、しかし何かに駆り立てられるように、焦燥した表情で話した。
「ヤーンを……お願いします、ヤーンを助けてあげてください! 彼は……ヒッテと……同じなんです……」
ヒッテと同じ……それが何を意味するのか、グリムナは分かりかねたが、しかし必死な表情でそう懇願するヒッテの話しかけに頷き、そして、ドアの方に顔を向けた。どちらにしろ、あのドアを開けて次の部屋に行けば分かるのだ。そして、彼はそのためにここへきて、精神をすり減らし、嘘をつき続けたのだから。目的の部屋は目の前にある。
グリムナは、もう一度視線をヒッテの方に戻し、まだ苦しそうな表情で懇願しているヒッテを優しく抱きしめて言った。
「ありがとう、ヒッテ……助けに来てくれて。もう外に戻って待っててくれ……ヤーンは、必ず俺が連れて帰る」
グリムナに抱きしめられると、ヒッテはやっと安心したような表情を見せ、グリムナに話しかけた。
「ご主人様……何があっても、ご主人様だけは無事で必ず帰ってきてください……それだけは絶対に守ってください……お願いです……」
そう言ってヒッテはゆっくりと目をつぶり、グリムナに抱きしめられたまま、光の粒子となって霧散した。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きながら、ゆっくりとヒッテは触手の『繭』から手を離した。やれるだけのことはやった……あとは、グリムナの『優しさ』が、何とかしてくれる。そこに期待するしかないと彼女は考えた。
改めて目の前の『繭』を見ていると、彼女の両肩にそれぞれポン、と手がかけられ、フィーとバッソーがサラウンドで話しかけてきた。
「よぅこそ……役立たずゾーンへ……」
「…………」
「お前らと一緒にしないでください……」
ヤーンの精神世界はホントに書いててつらかった




