第166話 屋根の上のポルカ
ボスフィンの町がまた今日も闇に包まれる。
ここから先は女子供は町に出てはいけない。魑魅魍魎が跋扈する悪魔の時間である。だが最近は本物の『悪魔』が町に出現すると言う。標的となるのはいつもの男達、ガラテアファミリーの構成員だ。
町のひときわ高い煙突の上に人影が見えた。おそらくそんなところに注目する者はいないだろうが、しかし確かにそこには人のような……何者かが煙突の上にしゃがんで、町の様子を窺っていた。
ヤーンは目をつぶり、静かに精神を集中させる。すると、建物の外で話をしている男たちの声が耳に入ってきた。
「またガラテアの奴らが狙われたってよ……え? うちは関係ねぇよ」
「今日こそ牛肉が食いてえよ……鳥はもうたくさんだ」
「また女に騙されたのか、懲りねぇ奴だな」
人間であれば、聞こえるはずのない遠くの雑多な声が彼の耳には届いてくる。今ヤーンは人の姿をしていたが、もはや彼にも自分の体がどこまでが人間で、どこからがトロールなのか、それが分からなくなってきていた。
自分の精神をむしばむ破壊衝動、それが自暴自棄になった心から発生したものなのか、それともトロールの体が彼にそうさせるのか、それも分からない。しかしただ一つだけはっきりと言えることがあった。
どうせ暴れるなら、大切な人を守るために力を行使したい。もう、大切な人を、失いたくない。
「メキと言ったか? あのガキを追い込みたいから、協力してくれよ……」
その言葉が耳に入ったとき、彼の今夜の標的が決定した。
ぐらり、と力なく人形のようにその人影は煙突から落ちる、いや、下りた。器用に、くるりと身をひるがえして屋根の部分で足を下にして音もたてずに着地をする。ヤーンはそのまま声の聞こえた方向に進路を取ろうと顔を向けたが、その時であった。先ほどまで音にも匂いにも全く気付かなかったが、彼の前に一人の青年が立っていたのだ。
「君がヤーンか……初めまして」
鎖帷子のような簡単な鎧と申し訳程度の籠手、それに腰に片手剣を指していることから彼が堅気ではないことは見て取れた。風にたなびく美しい金髪は夜闇の中ですらその存在を派手に主張している。
ヤーンに見覚えはない。彼の言う通り『初めまして』の人間だ。
静かな落ち着いた口調は聞くものを安心させるような独特な響きがあったが、今のヤーンにとっては恐怖でしかない。彼は即座に右手を振りかぶりその青年をなぎ倒そうとする。手のスイングのさなか、彼の腕はみるみるうちに膨張していき、トロールの腕となって青年を襲ったが、彼はそれをバックステップで軽々と躱した。腰の剣は抜いてさえいない。
「いきなりご挨拶だね……」
青年は笑いながらそう言う。気を悪くしたような素振りさえ見えない。彼にとってはこの程度の攻撃は『ご挨拶』程度なのだろうか。
ヤーンはますますその顔色を恐怖に染める。いったい目の前の青年は何者なのか。思い当たる節は色々とある。自分たちが狙われているという事に気付いたガラテアファミリーの雇った用心棒か、それともヤーンの名を知っているという事はヴァロークの手の物か。いずれにしろあまり対峙したくない相手だ。しかも相当な手練れである。
「あまり派手にやりすぎると目を付けられる……私はそれを忠告しに来ただけなんだがな……」
静かな口調でそう言う青年を前に、ヤーンは完全にトロールの姿に変化していた。たとえ何者であろうが、ここで斃してしまえば関係ない事である。青年は敵対姿勢を見せるヤーンに対し、ようやく腰の剣を抜いた。
「ヴァロークが君を追っているのはこのトロールの力があるから? それとも何か別の理由があるのかな?」
言い終わるか終わらないかのうちにヤーンは青年に殴りつけたが、まるで捉えられる感覚がしない。霞のように躱していつの間にかヤーンは切りつけられていた。派手に出血するが、すぐに血は治まった。
「この時期トロールフェストってお祭りがあるって聞いたけど、仮装にしては気合が入ってるね」
そう言うと今度は青年の方から切りかかってきた。片手剣の攻撃を右手で握って止め、左手で拳を打ち付ける。しかしやはり霞の如く躱し、青年は剣を捨てて素早くヤーンの背後に回り込んだ。彼の後ろには屋根がない。
そのまま青年は自身の体重を利用して、ヤーンに裸締めを決めつつ後ろに体重をかけ、建物から飛び降りつつヤーンとの位置を反転させて、彼の脳天を地面に打ち付けようとする。
「飯綱落とし」
ヤーンの表情が恐怖に歪む。剣で切り付けても効果がないからスープレックスに攻撃を切り替えたのだ。確かに斬撃の傷はトロールの場合すぐにふさがる。だが自重を利用した投げ技でその脳天を潰されればさすがに助かるまい。
ヤーンはすんでのところで建物の壁を空中で蹴り、衝撃を横方向に逃がし、事なきを得た。いつの間にか青年はヤーンの体から距離をとって着地していた。
「ぐうぅ……」
ヤーンは地に伏して、何とか震えながら上半身を支えて起き上がろうとする。
「トロールが……これはいったい……」
ヤーンたちが着地した地点には四人ほどの若者がいた。その若者の発した声に、彼は聞き覚えがあった。
「グリムナ……?」
そう呟いて、ヤーンは振り返るが、グリムナと目が合うと、すぐに手で顔を隠して、大きく跳躍して夜の闇の中に消えていった。
「いや、手で顔を隠さなくても誰か分からないんだけど……」
グリムナがトロールの消えていった方を眺めながらそう呟いた。しかし、思わず反射的に顔を隠したという事は、グリムナの知合いである、という事を意味することは鈍いグリムナでもさすがに理解できる。彼は、先ほどトロールと一緒に落下してきた青年の方を見て、驚いて声を発した。
「聖騎士ブロッズ・ベプ……」
「うんこ漏らしじゃないの、なんでこんなところにいるの?」
「…………」
「…………」
「聖騎士ブロッズ・ベプト、なぜこんなところに?」
フィーの発言は、無かったことにされた。ブロッズはそのことに当然触れたくないし、グリムナもそれが分かる。人には触れちゃならん傷みがあるのだ。其処に触れたら後はもう生命のやり取りしか残らないのだ。
それはともかく、先ほどトロールと交戦し、斬撃が効かないと見るや即座に投げ技に切り替えて、あと一歩のところまで追いつめた見事な戦士の正体は、聖騎士ブロッズ・ベプトであった。
「なに、大した用事じゃない。半分プライベートで来たようなものだよ。君達が追っているヤーンというのが何者か、気になってね……」
『ヤーン』……その言葉に思わずグリムナはトロールが逃げて行った方向に振り返った。なんとなくそんな気はしていたのだが、やはりあのトロールの正体がヤーンだったのか、と。
「気になって……? それだけのために来たのか? あんたは別にヤーンの知り合いってわけでも、彼が何者なのか知ってるわけでもないんだろう?」
グリムナは脂汗をかきながら訪ねる。彼が何者か……実を言うとそこが一番のキモなのだ。すでに離反してしまったとはいえ、彼は元々ヴァロークの隠し玉、竜の復活のカギを握るコルヴス・コラックスの純血種だ。それが知れ渡れば、彼の命は教会側からも狙われることとなるかもしれないからだ。
「そこも気になるけどね。しかし私が一番興味をひかれたのは『君がこの町に来る』という事だ」
ブロッズはグリムナに歩み寄り、彼の胸元を指さしながら鼻が触れそうな距離まで近づいてそう言った。にわかにフィーの鼻息が荒くなったがそれを無視して彼はさらに続ける。
「君はこの町を見てどう思った? この『悪徳の町』を見て、君に何ができるのか、それが知りたいのさ」




