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第161話 夜闇の無法地帯

「遅くなっちゃった……」


 石畳の上を少女の軽い足音がとっとっと、と響いて聞こえる。しなやかな筋肉を持つ彼女の足から放たれるその足音は実際の彼女の体重よりも相当軽く感じられるものであった。しかしそれは彼女の心が軽やかであったからではない。彼女の身体的特徴から由来するものである。むしろ心は重かった。恐怖、不安、そして閉塞感。


 猫の獣人の少女メキ。数代前からこの町で暮らしている彼女たちは元々は南のウェンデントートに暮らしていたウォプ・イーと呼ばれる種族であったが、もはやそれが話題に上がることすらない。必要なのは自分の出自ではなく、日々の糧を得るための金だ。


「早く帰らないと」


 焦っている表情のメキはまた小さく呟いた。靴の配達を終え、家路につく頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。こういう時にはできれば大通りだけを通りたい。人目に付く大通りならば酔っ払いや暴漢に絡まれることはあっても人攫いなどの組織的な犯罪に会うことは少ない。暴漢に襲われて慰み者になるくらいならまだいい方だ。しかし人攫いにあって奴隷になるのはさすがにごめんである。

 法律上、主人は奴隷を庇護する責任がある、という事になっている。しかし事実は法律に則しない。実際には生殺与奪権を主人に握られ、甚だしくは戯れに奴隷を殺す者もいるという。特に獣人の奴隷の扱いは酷い。文字通り『人間扱い』されないのだ。


 悪漢につかまって慰み者や奴隷になるのもごめんであるが、家に帰ったからといって何かいいことがあるわけでもない。母親のやっている靴屋の仕事を夜遅くまでひたすらやらされ、仕事が遅ければ鞭で叩かれる。それでも母親はまだいい方だ。どうせ仕事が終わった後酒を飲みに行っているのだろうが、遅くなると、果たしてこの男は人間ではなく暴力の化身か何かではないのか、と思われるような男が家に帰ってくる。

 あの男が自分を見る目は苛立ちと、怒りであったが、最近それ以外の暗い情欲にかられたものが混じってきている……そんな風にメキは感じ取っていた。その目つきを思い出しただけで体中の毛が逆立つ。


 閉塞感……家の外にも、中にも、自分の安心できる場所がない。自分の居場所が分からない。メキは、いくら現状を耐えても、その先に明るい未来が待っている気がしない、そしてそれは、おそらくこの町を出て、他の国に行っても同じような、そんな気がした。

 安心が欲しい。それはこの少女のかねてからの願いであった。家の中でも、親と一緒にいても、その願いが叶えられることがない。安心、それはいったいどこにあるのだろうか。暖かくて、食うに困らなくて、心休まる人に寄り添って、安心してぬくぬくと眠りたい。彼女の思い描く『理想の世界』とはその程度の物である。しかしそれすらもこの町では容易に手に入らないのだ。


「あっ!」


 曲がり角に入った瞬間、彼女は思わず声を上げた。何者かにフードを取られてしまったのだ。普段だったら軽い身のこなしでその程度の『嫌がらせ』なんて軽くいなせる彼女だったが、考え事をしながら走っていたのが悪かった。


「何するのよ!」


 メキは耳をピン、と立ててフードをとった男を警戒する。


「そこは『何をするにゃ』、だろうがよぉ!」


 そう言ったのは大柄で無精ひげの生えた、風体の汚い太った男であった。堅気ではないのが見て取れる。彼女は母親と違って語尾に『にゃ』とつけない。意識的にそうしているのだ。他の人と同じように仕事をして、飯を食って、税金を納めているのに、違う喋り方をしているだけで、なんだか疎外感を受けているような気がして嫌だった。


「ちっ、あんたなんかに構ってるほど暇人じゃ…あっ!」


 その大男に向き合っている隙に小脇に抱えていたかごを後ろから何者かにスリ取られた。思わず小さい悲鳴を上げるメキ。振り返ると、大柄な男の仲間か、背は前にいる男と同じくらいだが痩せている、これまた風体の悪い男がにやにやと笑いながらメキのカゴを持っていた。メキは細い路地の中で太った男と痩せた男に道の両側を挟まれてしまった形になる。これが本当の猫であれば男たちの股の間をすり抜けて逃げることもできようが、さすがに半人半獣のメキにはそこまでの素早さはない。


「配達の途中か? 家の手伝いなんてえらいねぇ、メキちゃんわ」


 痩せた男はそう言いながらメキの肩を掴もうとする。メキはそれから後ずさりして逃げたが、反対側にいた太った男に掴まれてしまった。


「触らないで! 返してよ、そのカゴがないと家に入れてもらえない! あんた達、ガラテアファミリーの奴らね!」


「へへへ、なんだ、話が早ぇじゃねえか。家に入れてもらえなくても大丈夫だぜ、ちゃんと俺らが住まいの面倒は見てやるからよお!」


「やめて、放して! 誰か!!」


 メキは思わず助けを求めたが、しかしこの町で実利もないのに他人を助ける者などいないことはよく知っている。そうだ、助けを求めたって誰も来やしない。太った男に羽交い絞めにされて、メキは路地の奥に引き摺られていく。(……ああ、ダメだ) 抵抗する方法が彼女は思い浮かばなかった。自分はおそらく、この醜悪な男どもの慰み者として一通り弄ばれて、その後はきっとガラテアファミリーのアジトのどこかに連れていかれるのだろう。奴らが最近熱心に獣人の若い女を求めていることは知っていた。ウェンデントートやオクタストリウム以外では獣人は非常に珍しい種族で、愛玩用としてそれを手に入れたいという金持ちが多いのだという。


 ガラテアファミリーが自分の両親に「娘を売らないか」と持ち掛けていたことも知っていた。それでも彼女が売られることはなかった。ただそれだけが、彼女にとっての救いだったのだが、しかし事ここに至ってはもはやそんなことはどうでもよかった。男たちに乱暴されるのは……嫌だが、まあ仕方ない。少し我慢すれば済むことだ。しかしその後奴隷として売られれば、その先の人生はほぼ終わったも同然だ。偶然人のいい主人に買われて、人間扱いしてもらえて何不自由ない人生を送れる……そんな奇跡みたいな偶然を自分の身に期待するのは愚か者のすることだ。


 虚ろな目で、もはや抵抗する力も薄れてメキが引き摺られていくが、その途中、痩せた男が暗闇に向かって何か話しかけていた。


「おい、何見てやがる! 俺達ゃガラテアファミリーだぞ! 何か文句でもあんのか!?」


 メキは夜目が効く。男の声に、路地の奥の方を見てみると、そこには毛布にくるまったままこちらをじっと見ている、黒髪の青年がいた。おそらくホームレスだろう。街の片隅で、誰に気兼ねすることもなく朝までの寝床を確保したと思ったところに大騒ぎしている奴らが近づいてきたのが気に障ったのか、こちらをじっと見ていたようだ。そして、痩せたファミリーの男に声をかけられても、返事をせず、目もそらさず、ただこちらをじっと見ている。


 これはよくない。こういったチンピラは臆病で見栄っ張りだ。目が合えば敵と認識する。敵と見れば必死で威嚇する。威嚇に応じなければ行動はどんどんエスカレートする。絡まれたらすぐに謝罪しなければいけないのに、その青年は全く感情の読み取れない表情でただただじっと見ているだけである。


「おい、よさねぇか、そんな浮浪者に構っても一文の得にもならねぇぞ」


 太った男が咎めるが、痩せた男は完全にヒートアップしてしまっているようで、止まらない。


「うるせぇ、マフィアは舐められたらお終いなんだ! 景気づけに血祭りにしてやろうか!?」


 血走った目でそう言いながら、痩せた男は浮浪者の青年の襟首をつかんで立ち上がらせた。太った男はしかしこの事態にも油断せずにメキの手首をつかむ力を緩めようとはしない。このどさくさに逃げられるかも、そう思っていたメキはしかし慎重に隙を窺う。


「何するんですか……ヤーンに何か用ですか……」


 青年は、そう言いながら、痩せた男の手首を掴んでいた。


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