第125話 女神の気持ち
(よし……もう慣れたぞ……大丈夫だ)
グリムナは心の中でそう呟いた。
何が慣れたというのか、もちろん今彼の置かれているこの状況にだ。幼い頃から常に彼の周りにつかず離れずでまとわりついていた美少女、そしてその苛烈な性格と意味不明な行動で常に彼を恐怖のどん底に陥れていたラーラマリア。
彼にとってはそれは恐怖の対象であると同時に、あまりにも美しく強い、近くにいても自己評価の低い彼にとっては決して届かぬ存在であろうと思っていた女神のような女性。
彼にとって神とは、崇拝する対象ではあっても、決して触れてはならない存在であった。触れればいったいどんな災厄が降りかかることか。触らぬ神に祟りなし。
しかし、シルミラはその気持ちをずっと昔から知っていた。レニオもだ。そして、彼がいつまで経っても触れようとしないからこそ、彼女を見ようとしないからこそ、ラーラマリアは狂ってしまったのだということを知っていた。
そのラーラマリアが、もはや我慢の限界だったのだろう、プライドも地位もかなぐり捨てて、グリムナの胸に飛び込んできた。
女神が、自分のことを愛していると打ち明けたのだ。女神が、衆人の耳目に晒されている中、愛を乞うてきたのだ。
はじめは、グリムナは大いに狼狽えていた。そうだったのか、彼女の今までの意味不明な行動は、全て自分への好意の裏返しだったのか。いや、そうだったとしてもいくら何でも意味不明が過ぎるが。
ともかく、普段主張が弱く流されやすい性格のグリムナにとってこれは、『もしも、旅を続けたいなら』乗り越えがたい困難となはずであったが……
しかし、もう『慣れた』
この数分のやりとりに、驚くべき事態が発生してからわずか数分で、彼はその衝撃に『慣れた』のだ。恐るべきマインドマネジメントである。
グリムナは両の手に力を込め、ゆっくりと彼女を自分の体から引き剥がした。その明確な拒否の姿勢に、ラーラマリアの瞳からは輝きが消え、衝撃のあまり涙は止まり、表情は絶望の色に染まった。
「ラーラマリア……君の気持ちに答えることは、出来ない……」
グリムナの口から、だめ押しの一言が放たれた。
或いは、ここでもし、彼がラーラマリアの気持ちを受け入れ、ヒッテ達を捨て、世界を救う旅を諦め、二人でどこか遠くへ、誰にも邪魔されないどこか遠くへ隠遁していたならば、この物語はハッピーエンドで終わっていたのかもしれない。
かくん、とラーラマリアの膝が折れ、地に座り込んだ。彼女の人生で、初めての、挫折である。彼女はその力と美貌で、望む物は全て手に入れてきた。彼女に逆らえる者など居なかった。それはたとえあの最大宗派、ベルアメール教会の大司教メザンザであろうと同じであった。
しかし、彼女が本当に望むもの、愛する人の抱擁だけは、何をどうしても手に入れることが出来なかったのだ。これは、彼女にとって、世界の終わりを意味する。
もしも、村にまだ居た頃に想いを打ち明けてたならば。もしも、彼をパーティーから追放などしていなければ。
彼の心を手に入れることはできたかもしれないのだ。しかし、もう遅い。何もかもがもう遅かった。何か一つでも、どこかでボタンの掛け違えに気付いていたならば、違う未来があったかもしれなかったのだが、『もしも』など、語ったところで意味がない。
グリムナはラーラマリアに背を向け、一歩、二歩、と歩みを進め、ヒッテ達のところまで歩み寄った。
「よいのか……? グリムナ……」
バッソーが心配そうな面持ちでグリムナに問いかける。しかしグリムナは伏し目がちに顔を俯かせ、その問いに答える様子はなかった。
「ヒッテと居ることを……選んでくれるんですね……グリムナ……」
ヒッテが瞳に涙をためて、小さい声でそう語りかけた。グリムナはこの言葉にもやはり答えなかったが、しかし少し辛そうな表情ではあったが、それでも優しく、彼女に微笑みかけた。
地べたに座り込んだラーラマリアの元には、レニオとシルミラが駆け寄って心配そうに様子をうかがっている。
「ど……どういうつもりなの、ラーラマリア……勇者をやめてでも、なんて……いや、言いたいことはそう言う事じゃないんだけど……」
レニオがラーラマリアに語りかける。しかし何を言いたいのか、自分でもまとめ切れていないようである。話の要旨がいまいち見えない。しかしラーラマリアはぼそぼそと、注意深く聞かなければ聞き逃してしまいそうな、か細く、途切れがちな声で答える。
「私は……別にこの世界を救うなんて……どうでもいいのよ」
この言葉にレニオとシルミラは流石に目を丸くして驚いているようである。彼女は更に言葉を続ける。
「グリムナが一緒にいてくれるなら、世界を救えと言うなら救うし、滅ぼせと言われれば滅ぼす……でも、彼が側にいてくれないなら、こんな世界……」
「こんな……こんな世界ッ……!!」
ラーラマリアの瞳孔が開き、息が荒くなる。過呼吸のように荒い吐息である。βエンドルフィンの禁断症状だ。尋常でないラーラマリアの様子にレニオとシルミラが思わず息を飲む。
これまでもラーラマリアはグリムナと別行動をとってはいたが、しかしいつか必ず彼は自分の元へ帰ってくると言う自信があった。その糸が、今まさに切れてしまったのだ、完全に。
子供の頃からともに過ごし、彼女にとって世界そのものであった親しいものとの別離、それは耐え難い苦痛であった。βエンドルフィンはモルヒネの6.5倍の鎮痛作用があるという。彼女の心は今まさに別離の苦痛によりズタズタに引き裂かれているのだ。ローゼンロットにいたときはその苦痛を酒で紛らわしていたようだが。
何か……何か代替行動をとって、この苦しみを紛らわさなければ、心が壊れてしまう。それも彼女の心がまだ最初から壊れていなければ、という前提の上での話であるが。
彼女は瞳孔が開いたまま、全く意思と言うものの感じられない瞳で、ゆっくりとその場から立ち上がった。
「私から……世界を奪うというなら……その元凶を……絶たねば……」
その異変に最初に気付いたのはヒッテであった。彼女は焦った表情でグリムナに語りかける。
「ご主人様! 何かまずい気がします! ここを早く離れましょう!!」
しかしその呼びかけにグリムナが答えるよりも早く、彼らに声をかける者がいた。
「おい! お前等!! ここでいったい何をしている!!」
その大きな声にグリムナ達だけでなくラーラマリアもビクッ、と反応した。どうやら外部からの刺激により一瞬正気を取り戻したようである。
声の主はこの町の衛兵であった。三人ほどの衛兵が槍を片手に厳しい表情でグリムナ達を呼び止めたのだ。
「ラ、ラーラマリア、ここは一旦落ち着いて! 宿に戻ろう!」
一瞬の正気に返ったラーラマリアの意識を逃さず、即座にシルミラが彼女に声をかけて落ち着けるようにゆっくりと、彼女の手を引いて去っていった。レニオも、グリムナ達に一言二言、何かを告げると、彼女達と共にその場を去った。
「な、何!? そんなに怒って、何かあったの?」
フィーが半笑いで衛兵に問いかける。普段あまり役に立たない彼女であるが、こういった場面では美女がいると言うだけで場を和らげる効果がある。衛兵は大道芸の衣装のまま、若干セクシーな服装のフィーを見ると少し表情をゆるませたが、相変わらず厳しい口調で彼らを問いつめる。
「ここで、殺人事件があったと、胴体を両断された者がいると、通報を受けてきたんだが……」




