表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ASTRAL LEGEND  作者: 七瀬渚
第4章/破壊と再生
87/100

14.鍵〜Nicole/Lana〜(後編)



ニコルがその知らせを受けたのは同日の夕方だった。ラナからあの話を聞いて以来、そこかしこから感じる甘ったるい視線から努めて意識をそらしながら何度か通った病室を目指した。



「少尉さん、お見舞いですよ」


一つのベッドの前で待っていたラナが声をかけた。彼に。ゆっくりと前へ出たニコルが彼女の立ち位置と入れ替わる。じゃあ、と言ってラナはすぐに立ち去った。



残ったニコルをベッドの上の彼が見上げた。当初よりも面積の狭くなった包帯。縫い目の入った痛々しい口元も今では露わになっている。身体はまだ思うようにならないらしく、動きがぎこちない。


そんなその人を前にしてニコルは一瞬、息を止めた。傷跡などではない、それ以上に主張してくるもの。鋭い狼のような目が見開かれ、意味ありげに絡み付いてきたからだ。



「ご気分はいかがですか、少尉」


自身を落ち着かせるよう努めて言った。ヘッ、と吐き出す息の音がした。


「これが気分良さそうに見えるか?」


さもつまらなそうに目を背けた彼の様子にニコルはぎくり、となった。すみません、そう返すのがやっとだった。


聞いていた通りの人…それが率直な印象だった。話したことなどない。自分のことを知っているかどうかもわからないこの30代くらいの男のことは、いつだったか噂で耳に入ってきた。お世辞も愛想も通じない偏屈な男。血も涙もない冷酷な奴で、自分の出世のことしか考えていない。決して関わるな、と。


険しい表情はまるで身体の痛みだけでなく、その噂まで受け入れ認めているかのよう。ニコルは次に何を話せばいいものかもわからず黙るばかり。低くハスキーな声が届いた。



「お前のことは聞いているよ。ニコル…本名はニコラスだったか」


「ニコルでいいですよ」



「そうかい、ニコラス」



気遣いさえ受け入れない、冷たく暗い目。真一文字に結ばれた唇…参ったな、とニコルはそわそわし出す。ベッドの上の男はやはり鋭く見上げている。


「噂通りだな。確かに妬けるぐれぇの色男でいやがる。その上貴族の家系のボンボンとは…」


再びヘッと鼻を鳴らした後、いい身分だなという捨て台詞のような一言が続いた。悪意以外の何ものでもないとわかる口ぶり、それでもニコルはあくまでも笑顔で返そうとした。結果として困ったような顔になってしまったが。



「貴族というのは昔のことですし、中身は普通の男です」


「…恵まれた人間の言い訳なんざ、信用に足らんな」



吐き捨てて視線をそらす男を前にニコルは少しうつむいた。ずっと思っていたことを何故かこの人に言う気になった。



「…僕が凄い訳じゃないですから」




ーー沈黙が訪れた。傷だらけの強面に驚きと思われる色が浮かんでいた。



「変な奴だと言われねぇか?お前」


「変…ですか?」



困惑しているニコルに彼は、ああ、変だ、と容赦のない返答を返す。張り詰めていた糸が千切れたようだった。無性に可笑しく感じたニコルは思わずふふ、と笑い声をこぼしてしまった。


「むしろ嬉しいですよ?それは」


何故だかもう怖くない、訝しげな表情に向かって続けて言った。



「このままじゃいけないって思ってましたから。時代を変えたい、なんて大それたことまで…」


やっぱり変ですよね、と笑い混じりに言うそこへ、もう一つの笑い声が混じった。さっきまで恐れていた彼の初めて見る笑顔に今度はニコルが驚く番だった。その人はやがて言った。



「貴族や色男なんてのは、たまたま持って生まれたモンを鼻にかけているいけ好かない野郎ばかりだと思っていた。お前のような変わり者がいるとはな」


ひとしきり笑った彼は少しばかり疲れたように肩で息を整える。狼の目がまたシャープな形へと戻り始める。


「俺を助けたことも、その妙な信念が絡んでいるのか?」


何処までも疑り深い人だ。よりによってそんな難問を…ニコルは苦笑しながらも。


「わかりません。ただ…」


答えなど見つからない中で、ただ一つ確信しているもの。



「あのとき、倒れているあなたに気付いて本当に良かった。死んでしまったら嫌だ…そう思っただけですよ」



暗かったその人の目の奥が揺れたように見えた。物悲しい瞳孔の動きに胸が詰まった。



「…死んだほうが良かったと思っている奴は、きっと大勢いるぞ」


「馬鹿言わないで下さい」



言った後ではっとなった。馬鹿はさすがにないだろう。慌ててすみませんと言うと、また笑い声がした。それで…と同じ声が続けた。



「お前、マリアはどうやって射止めたんだ?」


「えっ…」



ニコルは思わず固まった。ぽかんとしたその様子に痺れを切らしたように、男はベッドの上で身を乗り出しそうに動いた。


「さっきの娘だよ。彼女とそういう仲なんだろ?」


合点がいったニコルは、はは、と乾いた笑いをこぼす。平静を装おうとするも、滲み出る汗は抑えられそうにない。


「ラナとは実家が近くて、その…仲のいい幼馴染といいますか…」


へぇ…と返す低い声。当初よりも更に信用されていないとわかる視線にニコルはたまらず小さく唸る。顔の熱は更に上昇していくようで。



「もう手ぇ出しちまったのかい?」


「いや、ですから、その…」



…本当、勘弁して下さい…。



容赦のない質問にもう一杯一杯で、語尾が細く消えかかっていく。ニヤリと意地悪そうな男の笑みはもはや楽しんでいるとしか思えない。…噂以上だ。そう思った。



フィアンセなのか?と更なる問いが続く。ついにニコルはふーっと息を吐いた。もう観念するしかなさそうだった。


「そんな形式ばったものではないんですが…」


認める発言を受けた男が満足気に笑む…少し、悔しい。痛むはずの身体をよじりながらその人はまた。



「それじゃあお前、これから大変じゃねぇのか?親も説得しなきゃいけねぇだろうし、モテる者同士誘惑も多いんだろう?」



一瞬、止まってしまった。大変、ですか…そう呟いて視線を落とした。何故だか切なさが込み上げた。



「確かにそうかも知れません。でも…何とかしますよ。親も説得してみせます。きっと、わかってくれる」



今、自分はどんな顔をしているのだろうか?見開かれていく鋭利な目を前にしてそんなことを考えた。それでも答えは決まっていた。小さい声量ながらもはっきり、言った。



「僕には、ラナしかいませんから」



呆然としていた男が遅れて笑った。お熱いこった、そんな呟きが混じって聞こえた。


「色男のクセに一途とはもったいねぇ」


その人は面白そうに言う。頬を染めるニコル。


ーー彼女と生きることを選ばない方がもったいない。


そんな一文が脳裏に浮かんだが、さすがにそれはクサ過ぎると思って口をつぐんだ。


何か話を切り替えよう。ここは…そうだ、さっきラナから聞いた退院予定日を伝えるのがいいだろうか。希望を与えて更にこのいたたまれない状況からも逃れられる、なんて想像して口を開いた。



「それで、少尉…」


「エドガーだ」



思いがけない形で言葉を遮られた。初めて人間を見た獣のようだった顔が今では何だか柔らかい。ニコルは頷いた。素直に嬉しかった。



「早く元気になって下さい、エドガー少尉」


「俺なんかと関わっていたら、お前、嫌われるぞ?」



未だ偏屈を貫こうとする彼…エドガーに首を横に振って微笑んで見せた。




それから数日後、自力で歩けるくらいになったエドガーが退院した。顔を合わせる機会は前よりも多くなった。相変わらず無口な人だったが、時折肩を叩いてくれる大きな手はとても温かく優しいものだった。


どうやって手なずけたんだ?なんて仲間からは聞かれた。みんな関心しているようだった。


いくつかの新しい噂も聞いた。



「あの人、若い頃に弟を亡くしたらしいぜ。目の前で馬車に跳ねられたって。しかもろくな謝罪もなしにただ金だけ握らされたとか…」



相手が貴族だったらしいからな。



ああ、それで…内心で呟きをこぼすニコルの側で仲間たちの好奇に満ちた会話が続いていた。胸が疼き出した。



ーーそう考えると可哀想だよな、あの人もーー


ーーいや、可哀想なのは弟だろーー


ーーそれであんな頑固者に…ーー



やめてくれ、と言いたくなった。何故かたまらなく嫌気が差した。


死と可哀想をイコールで結ぶのはあまりに安直ではないか。そんな考えが脳裏をかすめた。そして直後に戸惑った。


ではさっきの感情は何だ?同情ではないのか?



僕は一体、何と重ね合わせて…?



その答えは結局、見付からなかった。全てを思い出す、あのときが来るまでは。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー季節はすっかり夏。晴れた空は昼間から抜けるように遠かった。日が傾けば赤と紫のグラデーションが息を飲む程美しい夕焼け、そして沈むと星々が眩く浮かんだ。立派に夜空を飾る星座に目を奪われた。したたかなる女神の使者、蠍座があった。



まさに運命の夜だった。


敵軍の者が10人程、捕虜として連行されて来ると聞いた。妙な胸騒ぎはこのときすでに始まっていた。確信を覚えるまで、それ程時間はかからなかった。



目の前で列を成して通り過ぎていく捕虜の兵士たち。その中に、いた。変わらず細く頼りない体格。人一倍自信のなさげな青白い顔には面影がしっかりと残っていた。



ライアン…



思わずその名を呟いていた。ある程度距離があったのに、何か感じ取ったのだろうか。ゆっくり振り返った気弱な顔が驚きに染まっていく過程を見た。震えるその唇が何か言いかけたとき。


「何をしている。早く歩け!」


ライアンの身体はどん、と前へ弾かれた。険しい表情のエドガーが太い片腕を突き出していた。



列に混じって遠くなっていくか弱い背中を呆然と眺めている途中、ニコルはやっと気が付いた。自分へと向けられているナイフのような鋭い視線。ついさっき口を突いて出た、幼馴染の名を耳にした者がいたことに。




人気ひとけのない基地の裏側にニコルは呼び出された。


「知っている奴なのか?」


腕組み、仁王立ちのエドガーがこちらを見下ろして言った。ニコルはためらいながらもに頷いた。


「小さい頃、親戚があっちに住んでいて…ライアンはそのときからの…」


言葉が思うように出てこない。ただ壁のような身体だけをちら、と見上げた。顔までは見れなかった。



「それで、お前はどうしたいんだ?」


しばらくの沈黙の後、声がした。ニコルは目を伏せる。何が最善なのか答えもわからないまま、今確かに思えることだけが乾いた口からこぼれていく。



「アイツは病弱だったんです。多分、今も…」



そう、ライアンの顔色は悪かった。身体も相変わらず痩せていた。


捕虜が連れて行かれる先は、日の光一つ届かない地下の外れ。人間が人間扱いされない場所。まとわり付く湿気が漂い、血や汗や汚物や吐瀉物としゃぶつといった悪臭が立ち込める、そんな場所にあの頼りない身体が放り込まれて、気の遠くなる程の時を過ごすことになる。


おぞましい想像に耐え切れず、ニコルは弱々しい息を吐いた。顔を上げられないまま言った。



「あんな劣悪な環境に居続けたら、アイツはきっと真っ先に死んでしまう。こんな…こんな形は、あまりにも…」



ニコル、と呼ぶ低い声に、纏まらない言葉が遮られた。恐る恐る顔を上げてみると強く睨む視線がこちらへ…びく、と身体が震えた。しかし、続いて届いた言葉は意外なものだった。


「お前の気持ちはわかる。誰にだって情はあるもんだ」


「エドガーさん…」


屈強な彼が示した共感の意に救われた気がした。だけど、それも束の間のことで。



「だが、今は過去を引きずっていては勝ち抜けない時代だ。一時の感情に流されるな、ニコル」



その瞬間、ニコルの中で抑え切れない衝動が突き上げた。わずかな希望さえ痛みと共に打ち砕かれていく。割り切れるものならとっくにしている…!そんな怒りさえ感じた。



「…一時の感情なんかじゃ、終われない…」



ニコル!


叫ぶ声と共に太い両腕が伸びてきた。強く肩を掴まれた。それでも…



「僕が強くいられたのは、アイツが僕を頼ってくれたからなんだ!アイツがいなければ、今の僕は…っ」


「馬鹿を言うな!!」



声を荒立てたエドガーが激しく肩を揺さぶってきた。彼に怒られるのは初めてだった。ありふれた怒りなどとも違う、こんな顔を見るのも。



「強い人間は誰に頼られようと強いんだ。お前を必要としている者はそいつだけじゃない、きっとこの先にも何人といるんだぞ…!」



ニコルは息を詰まらせた。ラナが遠くで微笑んだ気がした。そして目に映る光景に胸の奥が軋んだ。


「いいか、早まった真似だけはするな」


そういう彼の姿に見入った。怒りよりも更に主張するような、“焦り”のようなものが、全身に伝わった。





当然ながら、納得などできなかった。だけどとりあえずは首を縦に振った。そうしなければきっと、エドガーの手は離してくれなかったからだ。


深夜、2時を回った頃だった。眠れずにいたニコルはふらふらと基地内を歩いていた。気が付くと目指していたのだ。まるで冥界への道のりのような暗く湿った地下道を。



きっと少しだけ、様子を見たかったんだと思う。何が出来る訳でもないけれど、遠くから見届けたならすぐに引き返すつもりだった。



足音を潜めて進んでいくと、やがて手にしているランプの灯りが遠くの金属をぼんやり照らした。横たわる数人が黒い塊となって土の地面を埋めている。その中に見付けた。一つだけ、縦になっている影を。


自分と同じように眠れずにいたのだと知った。だけど、理由はきっと全く違う。今の彼の状態が示している。



連行されて来たときより更に青ざめたライアンは何度も何度もむせ返っては吐いている。もはや吐く内容物さえなく、胃液ばかりをこぼしては呻いている。



ライアン…



呼びたくてもそれは叶わない。無念にそむけようとしたニコルの目はすぐ側の小さなテーブルで止まった。いや、正確にはその上で光るものを捉えたのだ。



テーブルへ、そっとランプを置いた。光る小さな金属を手にした。ひやりと伝わる感触を受けたが最後、突き動かされるのは、あっという間だった。



ニコル…?



驚いて見上げる彼の元へ、テーブルからのわずかな灯りを頼りに近付いた。しぃっ、と人差し指で黙るよう命じた後、細心の注意の元、鍵穴へ差し込んだ。



「ニコル…まさか…?」



真っ青な顔のライアンが弱々しくかぶりを振る。やめてくれ、訴えるような眼差しをニコルは強く睨んだ。格子越しにぐっと顔を近付け、小声で言った。


「いいから、黙って付いて来い」


ここからはまさに一発勝負。素早さが決め手だ、と覚悟をしたとき。



…カチャ




避けられない解錠の音が立った。ニコルは一気に引っ張ろうとライアンの手を取った。そのときだった。



ライアンが小さく息を飲んだ。彼を反対側から引く力。


ニコルはライアンの足元に視線を落とした。ぞっとした。闇に二つの目が浮かび上がっていた。



「ーーえこひいきは感心しねぇな、色男さんよ」



地から沸き立つような声だった。ライアンの足首を掴み、不気味な笑みを浮かべている男。衰弱している人間とは思えない力が負けじと引いて離さない。


やっと我に返ったニコルは必死にライアンの身体ごと抱え込む。痛みに耐え切れなくなったライアンからついに小さな悲鳴が漏れた。まずい。そう感じたときには手遅れだった。床に伏せていた他の捕虜たちが、何だ何だなどと口々に呟きながら身体を起こし、そして目の色を変えた。



柵が開いてるぞ…!



誰かの鶴の一声の後、雪崩のようにわぁっと押し寄せた。ライアンに絡み付く男を蹴って離して柵を閉めようとするも、10人近い大の男たちの全力を一人で抑えられるはずもなく。



ライアンは薙ぎ倒され、ニコルも呆気なく突き飛ばされた。振動でテーブルから落ちたランプが火を上げた。無数の足音は冥界の道のりを逆走して消えていった。



ニコルは腰を落としたまま呆然としていた。近付く気配を感じた。ライアンだった。


「まずいよ、ニコル。どうしよう…」


おどおどとした表情で近くをうろついている姿を目にして頭がカッと熱くなった。ニコルは叫んだ。



「まだ居たのか、ライアン!」



怒鳴られた彼がびくっ、と飛び上がる。泣きそうなその顔に向かってニコルは更にきつく言い放つ。他の捕虜たちが去って行った方とは別の方を指で示して。


「抜け道はあっちだ、行け!こっちだって命がけなんだ、無駄にしてくれるな…!!」


ライアンの目にいっぱいの涙が浮かんだ。ニコルもそんな彼の様子から自分が今どんな顔をしているのか、察した。



「大丈夫…何とかなるから」



少しだけ笑って、精一杯の強がりを言った。もう遅過ぎることも、どうにもならないことも、わかっていて。


わぁっ!という雄叫びが聞こえた。指し示した暗闇の奥へとライアンが走り出していた。




ーーこれから起こるであろうことなら容易に想像がつく。怖くないと言ったら嘘になる。


だけど…



そんな恐れ以上に頭の中を占めるのは、彼女への愛しさばかりだった。こんなときに滑稽だと知りながらも、思い描かずにはいられなかったのだ。




ごめん…



ラナ。




やがて始まった外の騒ぎを聞きながら、ニコルは暗雲の夜空のような天を仰いだ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



闇の地下牢で仲間の一人に発見されてからはあっという間だった。もう抗う気もないニコルは素直に両手を上げて見せた。全ては自分が起こしたこと。覚悟ならできているから上官の元へ連れて行け、と戸惑う同期に命じた。


外にはすでにいくつかの遺体が転がっていた。ニコルは虚ろな目でその数と形を順に見ていた。良かったなんて言えない、こうして人が死んでいるのだから。だけど小さく息をこぼした。あの痩せた姿でないことにわずかな救いを覚えていた。



看護師たちを呼べ!死体の処理を…



そう叫ぶ声がした。彼女の顔がまた浮かんだ。ラナ…どうか君は来ないで。こんな最期は、見ないで…連れられていくニコルはただ願うだけ。



「ニコラス…本当にお前がやったと言うのか?」


外で捕虜の始末に追われていた大佐が静かにこちらへ向かって問いかけた。ニコルははい、と答えた。


「いかなる処分もお受け致します」


深々とこうべを垂れてから見上げた。少し前、本当に少し前まで、自分を信頼してくれていた大佐の目が、今では鋭く尖っている。当然の反応だ。わかっているはずなのに胸が苦しく詰まって、思わず顔を伏せてしまう。



「覚悟は…できているんだな?」



重々しい声にニコルはやはり、はい、と返す。大佐の足が後ろへ下がるのがわかった。恐らくその手には銃が握られている。…こちらへ向けて。


距離を取ったのは無惨な亡骸とならない為のせめてもの配慮なのか。ニコルはうつむいたまま、そっと目を閉じた。そのとき、遠くから呼ぶ声がした。覚えのある太い声色に顔を上げた。二人がかりで羽交い締めにされたエドガーの姿が目に飛び込んだ。



「ニコル、謝れ!お前はこんなところで死ぬべきではない。今謝ればきっと大佐も許して下さる!」


声を枯らし、我を忘れたように叫ぶエドガー。その身体が一瞬のうちに張り倒された。



貴様が決めることではないッ!!



怒号が彼に浴びせられる。更に深くねじ込むように彼の巨体が地面に押し付けられた。やはり二人がかりで。それでも抗うことをやめようとはしないエドガーは、今度は大佐に向かって。



「大佐、ニコルは敵と通じている訳でも我々を裏切るつもりでもない…こいつが助けたかったのはたった一人の幼馴染だけなんです!一時的な気の迷いだったんです!どうか…っ」


ぐるり、と大佐の顔が彼の方へ回った。


「お前、知っていたのか」


ドスの効いた声にはっとした。ニコルは言った。



「エドガーさんは僕を止めようとしてくれたんです。聞き入れた風を装って、僕が勝手に動きました」


やめろ、と叫ぶ声が割って入ろうとしたが、それでも続けた。ライアンもどうなってしまったかわからない。これ以上の犠牲は沢山だと思った。



ケジメをつけさせて下さい、大佐。



そう言うと、振り向いた大佐が頷いた。


「ニコラス…残念だ」


再び銃が向けられ、カチャ、という音が鳴った。荒れ狂うエドガーの叫び以外にも聞こえた。遠くからの甲高い悲鳴…看護師たちが到着したのだと知った。



不思議と怖くはなかった。ただ願っていた。


きっとこれから深い悲しみに暮れることになる彼女…せめて見なくて済むことを。君がここに居ないことを…



思いを馳せた、ニコルは目を閉じた。




ラナ…




彼女だけを思い浮かべていた。そのとき一瞬、背後がざわついた気がした。



名前を呼ばれた気がした。




すぐ傍で風を切る気配がして目を開けた。



懐かしいような匂いがふわりと鼻先をくすぐった。



柔らかく。






ぱんっ






乾いた音のすぐ後に、白金の長いウェーブを顔に受けた。崩れ落ちてくる身体を受け止めた。ただ、それしかできなかった。


事態を理解するまでに、どれくらいかかっただろう。




ニコルは腕の中の彼女を呆然と見つめた。


「ラ…ナ…?」


純白のナース服の中央で赤い染みがゆっくり広がっていく。まるで、悪魔が蝕むように。


ふんわりとした胸が苦しそうに大きく上下している。



「ラナ…ッ!!」



もう一度、叫んだ。


それから何度も彼女を呼び続けた。ガクガクと全身が震えて止まらなかった。



いやーーっ!!



背後で女性の叫び声がした。何人もの声が彼女を呼んでいるのがわかった。



ニコ…ル…



消えそうに小さな声が名を紡ぐ。ぬくもりを求めるように伸びてくる指先をニコルは力強く掴んだ。


切れ切れな吐息を漏らすラナはあろうことか微笑みを浮かべていた。その姿がみるみる滲んでいった。


もう一度名を呼ぶ彼女にニコルは、ん、と弱々しく返した。血の気の失せた小さな唇が震えながら語りかけた。



「あなたの…お嫁さんに、なりたかったわ…」



照れたように笑うラナ。ニコルもはは、と笑いをこぼした。大粒の雫を両の目から落としながら。



「なれるさ。何言ってるんだ…」



握る手に力を込めた。ラナは嬉しそうに目を細めた。目尻から頬へと光る筋が流れた。



お願いがあるの、ニコル…



彼女は言った。ニコルは何だい、と言って顔を近付けた。今にも消えそうな愛しい声を欠片だって逃したくなかった。



「生まれ変わったら、また、私を見つけて。そしたら…」



今度こそ…




浅い息遣いがすっと消えた。力なく傾いたラナの顔が胸元にうずまった。ニコルはその身体を力強く抱きすくめた。嗚咽が奥から沸き上がった。




夜明けを迎えるはずの空が鬱蒼うっそうと曇ってやがて冷たい雨を降らせた。広がる悲しみを表すように、いくつものすすり泣きに混じって全てを濡らしていく。


ニコルはそっと顔を上げた。




ーー僕を殺して下さい、大佐。




そう口にすると、激しい唸り声が聞こえた。


「駄目だ、ニコル…!!」


地に伏せたまま叫ぶエドガーを押さえ付ける者は三人となっていた。目の前の大佐が固く目をつぶった。迷いに苦しんでいるような、悔しさに耐えるような、そんな顔へニコルはゆっくりかぶりを振る。



「いいんです、僕は許されないことをしてしまった」


それに…



視線を落とした。抜け殻と化した彼女を見つめた。



「僕の未来は…もう、消えてしまった」



きっと懇願するような声だったに違いない。しばらくの間の後、わかった、と返ってきた。光る銃口が視界の端に見えた。


「お前の最後の願い、聞いてやろう」



これでいい。彼女のいない世界に生きる意味なんてない。


僕は、その為に生まれたのだから。



夏なのに凍りそうに冷たい雨の中でニコルは確信を覚えていた。


エドガーを中心としたいくつもの叫び声を聞いた。何処までも身勝手な自分自身を思い知った。誰にでもいい顔をして、要領がいいなどと羨まれたけれど、本当は違う。


掲げる正義なんて、いつでも中途半端で薄っぺらだった。


生きる意味は最初から決まっていて、その範囲ときたら極めて狭いものだった。



それでもきっと、また、たった一人を求めるだろう。しつこく絡み付くように求めてしまうだろう。



そんな自分を愛し、信じてくれた人がいた。その気持ちに応えようとした、実に、中途半端に。


彼女以外の愛を受け止めるのが本当は怖くて、返し方もわからなかった。


今更のように知った、己の不器用さをニコルは可笑しく思った。何が出来る男だ…心の中で笑った。






さようなら。







“ニコル”としての意識が、そこで途切れた。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー中央で折り重なった二人は誰の目から見ても、もう二度と目覚めることはない。湿った空気が満ちた。夜は終わった。夏の星座ももう沈んでいる。


いくつものむせび泣く声が続いていた。そんなとき、奥の草木ががさ、と鳴った。


刹那の稲光が現れた人影の正体を照らし出す。怯えたように歪んだ顔が白く現れる。誰よりも早く気付いたのはエドガーだった。鋭い瞳の奥がみるみる収縮した。くる、と身をひるがえすその姿に向かって彼は食らい付くように叫んだ。



あいつだ!



何人かが驚いて彼の示す方を見た。


「あのガキを捕らえろ!!」


我に返った軍人たちが、待て!と口々に声を上げながら、走り去る人影を追う。エドガーも続こうとするが、周りを囲む三人は更に彼を地面へと押さえ付ける。低く唸りながら彼は暴れた。


細身な人影が吸い込まれていった森の中からは何度も銃声が鳴り響く。次第に遠のいていくそれは、標的が未だ逃げ続けていることを意味している。噛み締められたエドガーの奥歯がぎゅうぎゅうと音を立てた。



許さない…



彼はついにこぼした。尋常じゃない殺気が伝わったのか、周りの三人が一層表情を強張らせて無我夢中といった様子で彼を押さえ続けた。それでも恨めしげな呟きは、なおも。



「貴様のような弱虫野郎が何よりも悪なのだ…!」



殺してやる…



殺してやる…!




怒りなんて言葉では収まらないものがエドガーの口から繰り返された。



銃声はいつの間にか止んでいた。静寂が戻った。


丁寧に布で包まれ、運ばれようとしている若い男女の姿を前にエドガーは、はは、と笑い声を漏らした。徐々に大きくなっていくそれは、辺りの皆の注目を集めた。壊れたように笑い続ける彼を誰もが怯えた目で見ていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ