6.決断〜Decision〜
ーー深夜と呼べる時間さえ、もうすぐ通り過ぎそう。だけど長い夜、冬の夜。
闇は晴れない。気休めばかりの星々が浮かんでいる。血を流し、骨を粉砕する。時には跡形もなく消し去ってしまう。
そんな無情な夜であるのが、嘘のように…静か。
宇宙ばかりにのめり込む日々の中で、いつかふと手に取った宝石の図鑑。まだちょっとだけ、覚えている。
いくつも羅列されていた宝石の名と宝石言葉。その中でこれを覚えていたのはまるで奇跡のよう。
【アメジスト】
宝石言葉は…決断。
ーー身体に受ける柔らかな感触に気が付いた。セレスはゆっくりと瞼を開いた。
反射的に指先が動き、その柔らかい表面をこする。摩擦にきゅっ、と音が鳴る。間近で漂う匂いを不快に思った。苦手な匂い、革素材のものだとわかった。
うつ伏せの体制のまま、セレスは頭を上げる。間接照明が一つあるだけの質素で狭い部屋。後頭部の鈍い痛みに小さく呻いた。やがてぼやけた視界の中に横たわる姿を捉えた。意識が覚めるのはあっという間だった。
「カイト…!」
セレスはおぼつかない足取りのまま降り立ち、向かい側のソファにすがり付く。力なく腕を垂れて動かない彼の名を何度も呼んだ。夢中で。
もう何度目かわからないくらい繰り返した頃、答える呻き声が返ってきた。ソファの上のマラカイトがうっすら目を開くところだった。
「カイト…ああ、良かった…」
セレスは深いため息をこぼしながら崩れる。セレス…と呼び返すマラカイトも手を伸ばして。そっと頭に触れた、そのぬくもりはまるで魔法のように安心感を与えてくれて。
「ここは…?」
マラカイトが上体を起こしながら呟く。我に返ったセレスも顔を上げた。
対に並べられた黒い革のソファ、飾り一つないコンクリートの壁…と視線を移していく。小さな天窓のすぐ下に誰か佇んでいるのに気付いたセレスは、心底驚いて飛び上がった。
「だ…誰…?」
言ってすぐに気が付いた。背を向けているとは言え、冷静になって見ればわかる人物だと。
「若…!」
口を開くより先にマラカイトの方の声が上がった。セレスは意識が途切れる前に目にしたその姿を脳裏に浮かべた。
想像していたよりもはるかに冷たかった表情は恐らく本来のものではないのだろう。“洗脳”…レグルスの口からそう出てきたのを覚えている。
それはマラカイトも同じだったようだ。身を乗り出した彼の言い放った言葉が示していた。
「若、しっかりして下さい!元の若に戻って下さい!」
必死の呼びかけにも、後ろ向きの彼は、動かない。若…諦め切れないとばかりにマラカイトは更に前へと乗り出す。
「あのときは…すみません。俺、わかってたのに、言えなくて。恐れ多いなんて思って…」
でも…
彼は続けた。一呼吸置いた後、覚悟したような顔で。
「どんな立場でも変わりません。若は……友達です!」
悲痛な響きを聞きながらセレスも口を開いた。おのずとだった。
実際に接するのは初めてでも、他人事だなんて思えない。もちろん好感なんてない。それ以前の段階だ。
だけど、取り戻したい。呼びかけたい。そんな、存在。
ーーシャウラ。
気が付いたらもう、その名を放っていた。すらりとしたシルエットが反転して、澄んだ宵の色の瞳が見つめ返した。星空の下で見たものとは、まるで違う…
「…僕を、知っているのですね、女帝殿」
セレスは目を見張った。今、この場にあるシャウラの顔に浮かんでいるのは、驚き。むしろ今度はこちらが驚く番だった。秘められた意図を目の当たりにした感覚で。
「あなた、まさか…?」
そう言いかけたとき、二本の細い脚が動き出した。こちらへ向かった。寄り添い固まっている二人の妖精の元へ彼はあっという間に辿り着いた。視線を合わせるようにそっとしゃがみ込んだ、彼は言った。
「頭が、痛みますか?」
ゆっくり伸びてくる手を目にしてセレスは縮こまった。髪を撫でられる感覚。ためらいもなく触れてくるその意図はさすがにわからない。だけど少なくとも悪意は感じられなかった。
シャウラはもう片方の手も伸ばし、そちらはマラカイトの後頭部へと当てがう。彼もまた抵抗もせず、じっとそれを受け入れている。
頭から首筋へと移っていく温かさをセレスは心地良く思った。目を閉じて何やら集中しているようなシャウラの白い顔は変動する光に照らされていて、彼の両手から光が放たれていることを二人に知らせているようだった。
「…ありがとうございます、若」
ごく自然に礼を言うマラカイトの横顔に目を止めた。何が起こったのか…?そう考えていたところへ隣の彼が向き直って。
「若にはこういう力があるんだ。傷も痛みも治してしまう…」
…こういう人なんだ。
呟くようなマラカイトの声を受けて、セレスははっとした。気が付いた。
重苦しい頭の痛みも、じん、と残っていた頸椎の痛みも、消えている。首筋に手を当てた。あの傷も…ない…?
「治癒能力…」
呆気にとられたままぽつりと呟くと、マラカイトが頷いた。固く内側へ結ばれた唇。治癒されてなお、痛みに耐えるような顔をしている。
セレスにとって彼をそうさせる思いに共感するのは難しくなかった。小型機の中で彼の口から語られた言葉が蘇る。若…!離れていくシャウラの手を追いかけるようにマラカイトが口を開いた。彼は言った。
「若はここに居ちゃいけない。俺らと一緒に本来の場所へ戻ってほしい…若を、傷付けたくないんです…!」
静かに自らの足元へ視線を落とすシャウラの横顔。それを眺めながら、セレスの中で今伝えたい思いが、固まった。
「ミラから全部聞いているわ。あの子は待ってる。あなたも、知っているんでしょう?」
言いながらやっぱり、と思った。確信した。“ミラ”という名を口にした時点で、センターパートの銀髪の間からわずかに覗く瞳が揺れたのだ。何故、と悔しさが胸を這い上がった。何故、と問いかけようとしていた、そのとき。
そむけていたシャウラの顔が再びこちらを見下ろした。再び視線を同じ高さへ合わせた彼は、まず、マラカイトへ。
「マラカイトは、まだ…僕が、大切…?」
そう問いかける。憂いを帯びたその眼差しも、その口調も、聞く者にある種の危機感を覚えさせる、そんな感じだ。だけど。
当たり前じゃないですか…
マラカイトは答えた。ごく自然な様子で、柔らかい笑みまで浮かべ。
「若は、友達なんですから」
はっきりと言い切った。弱々しい紫の双眼が湿った光を帯びた。
ちら、とこちらを見た彼はすぐにまたすぐに目をそらした。ちょっぴり頬が染まっているのは、人見知りだとか、女性慣れしていないとか、そんな類の仕草に見える。有無を言わせず髪を撫で回しておきながら今更、という感じはするが、これにもまた、悪意は感じられない。
シャウラは黙って立ち上がった。二人も追うように身体を立ち上がらせる。若…と細く呟き、探るような目で見つめるマラカイトへ彼もまた目を向けた。儚げな中に強い意志を宿したような凛とした表情で。
「あなた方の頼みを聞く前に、僕の頼みを聞いてもらえませんか?」
セレスは喉を鳴らした。最初に感じた突き刺さるようなあの感覚を、刹那に覚えたからだった。




