5.鈍感〜Insensitivity〜
ーー向かい合う二つの群れ。その距離は大体10mくらいだろうか。
見下ろす星空はこの状況に似つかわしくない程、実に美しい。側では囲む木々がザワザワと騒いでいる。ものも言わず揃ってこちらを見ている黒服たちの間から彼は現れた。
初めて見るはずの姿にセレスは即、寒気を覚えた。似通った身なりの人影の中で明らかに別格のオーラを放つ中年くらいの男。下へ伸びる闇色の翼、風に踊る白い長髪は絹糸のよう。瞳の片方は紫。そして、前髪に覆われたもう片側からは時折チラチラと覗く赤色。
激しく身体を震わせ獣のような目で睨み上げているレグルスの側、セレスが感じたのは怒りよりも何よりも先に、悲しみだった。本当に似ていると思った。蝙蝠魔族・ガルシア家の血を引く彼と、余裕の表情で向かい来る憎き敵は悲しい程、何もかもが揃っていて。
否定したくてもできない、確かな“血縁”がそこにある。虚しく、胸の奥が崩れていく音がした。
「ーー我々の演出は気に入ってもらえましたか?」
足を止めた、その男の声は澄んだ冬の空気によく響き渡った。演出…?セレスはぽつりと呟いた。虚ろだった目がみるみる尖っていった。小刻みに震え出した。10℃を下回るであろう寒さの為ではない。そんなことなど忘れてしまう程、熱くみなぎる感覚に、だ。
「メイサを死なせたのは私たちを怒らせる演出だったって訳?そんなことの為に、よくも…!!」
気が付くとすでに声を張り上げていた。おのずと立ち上がり食ってかかろうとする身体をマラカイトの腕が押さえ付けた。高くから見下ろす男の持つ紫が真っ直ぐ静かにこちらを向いた。
ーーまだ信じられない。だけど、頭蓋骨が砕けそうな程に激しく何度も繰り返している。目にしたばかりのあの光景と、あの…
凄まじい風に引き寄せられて身体が浮きかけていた。マラカイトに守られ必死にすがりついていたセレスが再び顔を上げたとき、そこにレグルスの姿はなかった。
あったのは口を開けたドアとそこから覗く星と雲の群れだけ。
「馬鹿な!一体いつ扉の解除を…!?」
レイの狼狽を耳にしてやっと状況がわかった。座席に壁にしがみ付き、風圧に耐えている皆の姿が目に飛び込んだ。ドアに当てがわれたままの彼女の手も。
外に投げ出されたレグルスは彼の持つ特性からして恐らく無事だろう。問題は今、別にある。そう確信して座席につかまり続けた。もう全てわかっていたと思う。こんな勝手で哀しい思惑通りになってたまるか、その一心で。
しかしそのときは無情にもすぐ側まで迫っていた。
「もう間に合わない。みんな、脱出するぞ!」
レイの声がした。待って、というセレスの叫びは瞬く間に強風に掻き消された。
マラカイトが強く手を引いた。開け放たれたもう一方のドアへと身体を引きずられながらセレスは滅茶苦茶にもがいた。未だ座席にしがみ付いている彼女へ必死に手を伸ばすも届かない。何度呼んでみても彼女は断固としてその場を動こうとしない。
「メイサ…!!」
もう何度目かもわからないその名をありったけの力を込めて叫んだとき、やっと、やっと目があった。視線が絡み付いた。時間の流れがそこから変わった。
ゆっくり流れていく光景の中で、ゆっくり細まっていく漆黒の瞳。じんわりと柔らかい三日月のような形。
今までに見たどんな黒よりも、優しい、黒。
身体を連れ去っていく重力にセレスは息を詰まらせた。仲間の小型機から降ろされたロープに掴まって去っていくレイ。腰に回された腕はマラカイトのものだっただろう。
飛ぶことさえすっかり忘れている中、やがて降下の速度が緩まった。レグルスとクー・シーが支えているのだとかろうじてわかった。
小さくなっていく機体。彼女一人を乗せた鉄の塊。戻ってしまった時の流れ。どんなに手を伸ばそうが叫ぼうが、もう、届かない。
霞み、ぼやけていくセレスの視界に恒星の終わりのような眩い閃光が映った。
音なんて、感じなかった。
ーー初めまして、女帝セレスタイト殿。
全てを仕組んだ、そして彼女を独りにした元凶の男が今、目の前にいる。悪びれもせず微笑みかけてくる。
「私のことはルシフェルとお呼び下さい」
「…知ってるわよ」
深々と一礼してみせる、紳士的な立ち振る舞いを前にしてもなお、セレスは変わらず睨み続ける。それから言う。低く。
「私はあなたを許さない。絶対に…!」
どんな悪人に見える者でもそれぞれに理由があった。完全なる悪なんていないって信じかけていた。だから壊したくないって、命だけは奪いたくないって…
だけど…
「この…悪魔…ッ!!」
抑えられないその響きは自分でも恐ろしくなる唸りと共に喉を割って出た。綺麗事が叶わない。こんな風に心の底から恨むときが、そんなときがまた来てしまうなんてと実感を覚えるなり、また目の奥が虚しい痛みを帯びて、染みて。
「気高き女帝殿、こんな一説があります」
消化しきれない感情と闘うこちらにはお構いなしとばかりにその男は切り出す。
「【ルシフェル】とは“明けの明星”…光と知恵をもたらすかつての大天使の名。神に最も愛されたという彼はある過ちに気付いた。神が人間すなわち弱者を愛し過ぎているのを知って食い止めるべき反旗を翻した。自らが神になって世界をあるべき方向へ導こうとしたのです」
しかし、彼は堕天してしまった。
神の過ちを止められないまま…
彼の声は続いていた。睨み上げるセレスの視線などまるで見えていないかのように。
「私はルシフェルに誓ったのです。無念に終わったその意志を継ぎ、世界をあるべき方向へ導く。神の元へ返り咲くと」
「…こんな神なんて御免だわ」
セレスは唸る。そしてまた叫ぶ。
「仲間を見殺しにするような神なんて御免だわ!!」
再び身体が突き動かされた。しかし思うように動けない、進めない。セレスは振り返った。腰を押さえ続けている腕の持ち主へ。
「カイト…?」
顔を伏せ、決して腕を振りほどかない、まるで自分の方がしがみ付いているみたいな彼の姿は酷く怯えているように見える。上がった息も落ち着いていってしまう。
ーー未来、のことですかね?
まだあの顔とは結び付かない、だけどもう知っている名が届いた。セレスはまた元の方へ。
「貴女は何か勘違いをしておられる。彼女はアストラルの未来に貢献しようと自ら判断したのです」
「何が貢献よ…この後に及んでまだ自分は悪くないとでも言うつもり?」
セレス、と呼ぶ声がした。後ろから。抑止するような視線を送るマラカイトを見下ろした。セレスはついに苛立ち、強い口調で。
「いいのよ、離して、カイト!私は戦う為にここへ来たのよ!」
困惑したような彼の顔がかぶりを振る。絡み付かせたままの腕も解く気はないようだ。何故そうするのかならわかる気がする。自分がその位置にいたら…想像すれば容易に答えが出る。
それでも戻るつもりはない。変わらない意志を訴えるべく、ぶれずに彼を見つめ返した。どちらも譲らない、彼とこんな状態になったのはきっと、初めてで。
「さすがは伝説の妖精女帝…2000年の時を経てもなお、その勇敢さは失われていないようですね」
甘く特徴のあるルシフェルの声。まるで自分の言葉に酔っているかのような口調は実に勝手で一方的。更に恍惚とした表情…呆れたセレスは思わず顔をしかめてしまう。
感情がいくらか冷めかけていた。しかしそれもすぐに覆された。
「貴女は革命を起こした。過去とそして、未来でもね。私には見えるのですよ。貴女は宇宙の研究者になろうとしているのでしょう?その夢、叶いますよ」
「何ですって…?」
ドク、という脈打ちが内側を揺さぶる。過去なら散々聞いたし思い出した。だけど今語られているのは…未来?
夢や理想とは違う。予知、あるいははったりか。疑惑と得体の知れない恐ろしさがよぎってセレスは喉を鳴らした。少なくとも良いことを言われる気はしなかった。予感は的中した。
「研究者になった貴女は極秘に画期的な論文を遺されます。それを後世の人間が受け継ぎます。宇宙から兵器を落とし、地球上の生物を一掃…いわば“リセット”する。実行されるのはずっと先の世ですが、そこで貴女は再び伝説となるのです」
動きを忘れた。唇が乾き、わずかに震えた。
「お忘れですか?魂に刻まれた記憶、フィジカルに転生した真の目的を」
男は問う。その深い眼差しで容赦もなく抉ってくる。
「2000年もの長い時の中で貴女が望んだものは、ただご自身の人生を謳歌すること…本当にそうお思いですか?」
セレスの中の脈打ちが速まっていく。凍てつく風に身体が冷やされる一方で、脇や胸、額の生え際と、至るところにベタついた汗が滲んでくる。
セレス!
そのとき、声がした。振り向いた。レグルスだった。
「そいつの言うことに耳を貸すな!アンタを動揺させる為の出鱈目だよ。未来を見透かすなんて神にだって出来るはずがないんだ!」
心細さが隠せないセレスに向かって、彼は険しい眼差しと共に呼びかける。しかしルシフェルはまるでそんな彼の姿が見えていないかのように続けた。
「…ご安心下さい。今はお忘れでも貴女は必ず思い出す。そして偉業を成し遂げるのです。しかしそれではまだ完全なる破壊とは言えない。地球上の生命は一掃できても、フィジカルは残ってしまう。また新たな生が芽生え、あの世界を蝕むことでしょう」
ルシフェルが一歩、踏み出した。ゆっくりと手を差し伸べた。こちらへ。
深い紫。侵食する妖しい色。敬意と賞賛を思わせる微笑。セレスは身動き一つとれない。
「さぁ、我々と共に新たな世を創りましょう。貴女が魂に刻み付けた本来の目的…逃れることはできませんよ?貴女の魂が許さないでしょう。未来にて実を結ぶ素晴らしい革命は我々と手を組むことでより完全なものとなるのです」
さぁ…、呟きながらじりじりと迫り来る魔力の塊のような男。彼は言う。招く。抉る。神秘の引力を持つ沈みかけの月を背に従えて。
女帝セレスタイト。
恐れは捨てて、こちらへ…
「違う…!!」
突如高らかに上がった声が迫る男の声を遮った。我に返った、セレスは振り向いた。
「カイト…」
現実に覚めた青の目に映るマラカイトは真っ直ぐルシフェルを睨み上げている。少し前までの怯えた表情とはまるで別人のようだった。彼は言った。
「セレスはそんなことの為に生まれ変わったんじゃない!俺は見ていた。2000年もの間、片時も離れずセレスだけを見ていたんだ!」
澄んだシトリンの色がセレスの元へと移る。背中から包む彼の腕に力が込められていくのがわかった。
「信じてくれ、セレス。俺が見ていたんだ…間違いないから」
しばらく彼の瞳に囚われていた。胸の奥が震え、目の奥はツン、と突かれた。やがて力強く頷いた。宙ぶらりんになっていた両足が地の感触を覚えたようだった。
ーー眩しいね。目が眩むよ。
引き締まった夜風に乗ってきた。低い声色。
明らかに口調が変わったルシフェルを二人揃って見上げた。見下ろす顔は至って穏やかなもの。だけど気のせいなどではないと確信した。
唯一、無を感じさせるパーツがあった。目…目が、笑っていない。セレスは背筋にぞくりと悪寒を覚える。
「まぁあなた方の絆はそう簡単に破れるものではない。2000年超えですからね。わかって頂けるまで…こちらも長期戦覚悟、ですよ」
それは不穏なシグナルだった。立ちすくむ二人の元へ落ちる陰。レグルスが何か叫んだようだったが、時はすでに、遅く。
「カイト…!?」
上半身から折れ曲がり、地に伏せたマラカイトにセレスはとっさにすがり付く。直後、強い力に両腕を引っ張り上げられた。筋が裂けるような痛みに思わず悲鳴が漏れた。見上げると筋肉隆々の魔族の男が背後に立っていた。
「何を…っ!」
前へ向き直り睨み付けるセレスに冷たく静かな面持ちのルシフェルが告げる。
「憎むべき相手が違いますよ、女帝殿」
無の色をしたその瞳はふい、と横へ流れた。クー・シーを胸にかばって立て膝を着いている、彼の方へ。
「憎むなら、そこの弱者。そうだよね?レグルス君…いや…」
【ライアン・グレンジャー】
耳慣れない名が上がった。同時に見開かれた赤の双眼。
「あの子…未来の亡くなった母親はね、歴史研究家だった。フィジカルで見た伝記のいくつかを一冊の本にまとめた。出会った頃、あの子はそれを大切に持っていたよ。栞はいつも同じ場所に挟まっていた。私は…哀れに思った」
こんな人間に陶酔している彼女を心から、ね。
拘束されたままのセレスは抗うことさえ忘れていた。ライアン、グレンジャー…当然話の全容はわからない。だけど、確かに感じることがあって。
「あの子がその名を名乗ったときは驚いた。だけどあの子はちゃんと動いてくれた。ある種の覚悟だと思った。でも、でもね…」
レグルスも同じように動かない。低温の炎のような両の目だけが揺れていて。
「やっぱり女の子なんだよね、あの子も。君が呼び起こしてしまったんだよ?あの子は覚悟を決めていた。君が中途半端な優しさなど与えなければ彼女はもう二度と迷うことなんてなかったんだ。涙なんて流さずに任務を全うできたはずだ」
無知は罪悪…
ひときわ低い響きが小さく言った。
「本当に気付かなかったのかい?鈍いね、相変わらずだね」
…悪い男だね、レグルス君。
「……っ」
唇を噛み締めた、レグルスの目が、赤の目が、鈍い光と潤いに、更に揺らぐ。
だんだん、見えてきた気がした。いや、少なくとも“彼女”の気持ちなら薄々感じていたんだ。今更どうしようもない、決まった相手もいる…割り切ったように振舞ってはいたけれど、メイサ、隠し切れてなんか、いなかったよ。
せめて、何か…そうこみ上げた濁流のような悲壮がまた激しい熱を連れてきた。セレスは声を上げた。
「メイサの気持ちを利用したあなたに彼を責める資格なんて、ないわ…!」
かぶりを振るといくつも雫が弾けて宙に踊った。ルシフェルは振り向かなかった。振り向かないまま、声だけがした。
「ーーお二人をご案内しなさい」
セレスはすぐに違和感を覚えた。何故か後方に顔を向けているルシフェル。それは今の命令が腕を拘束する背後の男に向けられたものではないことを示している、と。
違和感に回答するかの如く、一つの人影が迫り来る。黒服の群れが当然のように二つに割れて道を作った。
月明かりに照らされて逆光を帯びた。それでもいくらか見えた。近付いて確かになった姿を捉えるなり、セレスは息を飲み、同時にレグルスの呟きが聞こえた。
ーーシャウラ…
その姿を見るのは久しぶりだった。いや、正確には遠目から見たことがあるだけで、対面したことはただの一度もないのだ。
陶器のような青白い肌。中性的で儚げな男。…ミラの愛する人。レグルスとよく似ているがやっぱり違う。瞳の色のせいか、痩せた体型のせいかと考えたがそれも違う気がした。
男が憧れる要素をことごとく削ぎ落としたような容姿でありながら、肉食獣の牙のように突き刺さる波長を感じる。それも獅子のような類ではない。地を這うようにして迫る、静かなる気配のよう。
ただ目を奪われるセレスは麻酔を打ち込まれたように身体が動かず、少なくともそれは腕を捻じり上げられているせいなどではなかった。
てめぇ…
ふつふつと沸き上がるマグマのような唸りはレグルスのものだった。彼は言った。
「シャウラまで洗脳したのか…!?」
その言葉を耳にして、やっと気付いた。虚ろな目はこちらを捉えていながらまるで見えていないかのよう。気付いたら最後、実感を増す。目の前の男がもはや操り人形のようにしか見えなくなって、恐ろしさと入れ替わるみたいに悲しさが込み上げる。
「我々の大切な跡取りなのでね…本来すべきことに目覚めてもらわねばならない」
「跡取り…だ?」
レグルスがギリ、と歯ぎしりをした。
「それ以前にてめぇの息子だろうが!てめぇは父親失格だッ!!」
荒々しく叫ぶ彼へとルシフェルの視線が動いた。その目が一層冷ややかな色に変わったように見えた。
セレスもその顔つきには覚えがあった。まるで虫嫌いな人間が足元を這う虫を煩わしげに眺めているときの顔…軽蔑の眼差しだ。
「私はシャウラの本当の姿を知っている…貴様もそうだろう?」
貴様。ルシフェルの口調は本格的に変わっている。
「…やっぱり間違いねぇんだな。てめぇは、あのときの…」
特に口調が変わった訳でもない、レグルスの様子もまたわずかに違って。
やがて囚われの若頭、シャウラがルシフェルの横に並んだ。彼は静かに頷いた。セレスの背後に向かって。
直後、首の後ろに衝撃が走り、息が詰まった。遠のいていく意識が完全に闇へと落ちる前に、レグルスの呼ぶ声を、聞いた。




