4.混沌〜Chaos〜
窓を染めているのは深い、藍の色。届かなくなった月明かりが時間の経過を示している。確実に朝へと向かっている中、それでも居座り続ける闇が冬の夜の長さを物語っている。
窓際に佇むルシフェルは手にした木製の枠を見つめている。それは小さな写真立てで中身もちゃんとある。
写っている四人の人物は文字の書かれた横長の布を一緒になって持っている。【Orion revolution army】…そう読むことができる。
その文字の真ん中あたりを持っているのは他でもない彼だ。しかし、今より艶のある銀の髪、まだ瑞々しさの残る肌、憂いを秘めたような微笑は現在のシャウラに少し似ている。
右隣には角の生えた渋みのある大きな男。あまり変わらない彼は恐らくミンタカだろう。そして左隣には10歳前後と見られる黒髪の少年少女がいる。幼いながらも強い意志を秘めたような髪と同色の漆黒の眼差しが揃って今の彼を見つめ返している。
ルシフェルの蝋のように白い指先が写真の中の少女に近付いた。そっと重なった。
「ーー未来」
小さな呟きが呼ぶ。それに続いてまた彼の血の気のない唇が動いた。一瞬で終わった、何らかの語りかけをしたようだった。
遠くから唸るような音が響いた。一人目を閉じるルシフェルの姿はさながら厳かなる儀式のよう。
やがて瞼を開いた彼は手にしていた写真立てを机に伏せ、もう一つ同じくらいの大きさの写真立てを取り上げた。さっきのものよりも更に若い彼と見られる男の傍で柔らかな笑みを浮かべた女性、そして彼女にぺったりとくっついている小さな子。
照れているのだろうか。枠の中の少年はいかにも気が弱そうに身を縮め、紫の瞳を上目遣いにしてやはり今の彼を見つめている。覆うガラスはひび割れている。発作に倒れた、そして噛み付くように指先を刺されたあのときのまま。
「待たせたな、カフ…ついにこのときが来た。君が本当に安らげる世界を創るときが来たのだよ」
彼は言う。今は亡き妻に向かって。見下ろすその顔は若かりし頃のものに皺だけ刻んだような儚い笑顔。しっとりと濡れたオッドアイは愛おしい者に向けられる眼差しそのものだった。
しかしその色もやがてゆっくりと変わり始めた。まるで長い夜を越えた冬の朝焼けのように、決して強くはない、でも確かな光を得て。
「共に進もう。世界を創ろう。ニコル…」
いや、
シャウラ。
写真の中で未だ戸惑っているような少年に、ルシフェルの落とす深い色の影が、重なった。
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細長い廊下には外へ向かう行列ができていた。ほとんどが見慣れた闇色の服。しかしその中にはちらほらと全身武装している者の姿もある。魔力も妖力も持たない人間だ。
全員が出動の準備を終えた。その流れを確認したシャウラがふと何か気付いたように振り返った。
「ミンタカは…いないのか?」
側を通りかかった一人に声をかけた。気付いた魔族の青年がはっ、とキレの良い返事の後に答えた。
「ミンタカ様は先に済ませたい用事があるとのことで、最後にここを出られるそうです!」
「用事…?」
シャウラが怪訝そうに眉をひそめる。そんな話は聞いていない、といった顔だ。彼の険しい表情を目の当たりにした部下の青年は素早く一礼すると逃げるようにその場を去った。ぞろぞろと群れを成し、ちょっとずつ前へ進んでいる流れとは反対へ、シャウラは歩き出した。その歩調は徐々に早まった。
やがて行き着いたのはしん、と静まった人気のない場所。ついさっき、数十分前に居た場所。ちょうど一つの部屋から出てくる人影があった。ちょうど探していた、そんな風にシャウラは声を上げる。
「ミンタカ!」
呼ばれた人影が顔を上げた。間接照明に照らされてはっきりとした、驚いたような顔。か細い脚でづかづかと近付くシャウラ。その表情はやはり険しい。しかし向かう先の人はあくまでも動じず、むしろ正面から向かい合う姿勢さえとった。
「用事とは…姫に会うことか?」
シャウラの鋭い眼光と問いかけにミンタカは困ったように笑う。
「前々から思っていましたが、若には探偵の素質があるようですね」
「あの方に何をしたんだ?」
見上げるシャウラは厳しい表情を崩さない。対するミンタカもあくまで落ち着き払った態度を崩さない。両者共に一歩も譲らない、まさにそんな状況だ。
ーー若。
少しして、沈黙を破ったのは見下ろす彼の方。
「これからは強き者が率いる時代となるのです。姫君には本来あるべき姿になってもらわねばなりません。若だってあのお方には生き伸びて頂きたいのでしょう?」
淡々と続く話の途中から、すでにシャウラの双眼は見開かれ始めていた。何か察したような彼がやがて、音が立つ程にきつく奥歯を食いしばった。それから言った。睨み上げながら。
「暗示をかけたのか…巻き込まないと言ったのに…!」
今にも食らいつく獣に変貌しそうなシャウラの元へ静かな面持ちのミンタカが歩み寄る。そっと肩へ当てられる手、しかしシャウラはそれを荒々しく振り払って叫ぶ。
「何の暗示をかけた?姫をどうする気だ!」
「若、これは必要なことなのですよ」
再び触れようとする手をシャウラは断固として受け入れようとしない。寄ってくる度、滅茶苦茶な手つきで押し戻す。その様子ははたから見ると、駄々をこねる子を親がなだめすかしているかのよう。
ふっ、と小さなため息がした。やっと諦めたように横をすり抜けて歩き出す大きな背中を振り向くシャウラの身体が追う。
「いつもそうだ。“若”なんて持ち上げるようなことを言いながら、いつだって肝心なところははぐらかして…!」
「ーー若にもいずれわかりますよ」
「それはもう聞き飽きたッ!!」
最後の方はもはや泣き声のようだった。ミンタカはついに足を止めて振り返った。いかついはずのその顔には優しく労わる笑みが浮かんでいた。彼は言った。
「若は少年にも劣らない程、純粋かつ繊細でいらっしゃいます。優し過ぎるが故に危険に身を投じてしまう恐れがある。…そう、まさにあの夜のように、ね」
シャウラは猫背がちな体勢で大きな彼を見上げていた。徐々に弱まっていく息遣いが、言葉の意味を理解していることを示していた。
「ルシフェル様の治癒があと少し遅れていたら…危ないところだったのですよ」
慈愛を思わせる眼差しを眼下に落としながらミンタカは続けた。
「メイサもマラカイトもいない今、若にはなおさらしっかりして頂かなくては…」
え…
小さな呟きが漏れた。静止した空気の中で、同じく時を止めたように変わらないミンタカの表情は薄気味悪ささえ感じさせる。佇むシャウラの足元には微弱な震えが起こり始める。
「あの二人が…どうしたって?いないって、どういうことだ」
特に失言をしたという訳でもないのだろう。まるで予測していたかのように事情を知る彼は静かな口調で。
「メイサはレグルスの乗る小型機を破壊する為に魔石を身に付けて機内へ乗り込みました。寸前のところで逃げられたようですが…」
「死んだのか?」
「それがあの子の任務ですから」
「…死んだんだな?」
食い入るシャウラの視線からミンタカはすっと目をそらした。寂しげな視線を何処ともつかない場所へ流した。ぽつりと言った。
「名誉の殉職ですよ」
返す言葉もなくなってしまったのか、シャウラは口を閉ざしてうつむいた。共に目を合わせない沈黙。その姿勢のままの彼が、また…
「マラカイトも…なのか?」
いえ。そう答えたミンタカが首を横に振った。
「マラカイトは無事ですよ。記憶を完全に取り戻したようで…今はレグルスたちと一緒に居ます」
「…そうか」
自身の言葉のある部分で、わずかに紫の瞳が揺れたことにミンタカは気付いたようだ。夕闇迫る空みたいな色になった。記憶…その部分で。
「…若」
迷子のように何処か心細げな顔をしている若き主君へ彼は微笑みかける。そしてまた語る。
「ご安心を。必ず取り戻しますよ。女帝セレスタイトと共に、ね」
元気づけているつもりであろうその言葉にもシャウラは更に不満気に押し黙るばかり。見下ろす黄色の目の瞳孔が縮まった。
一歩、前へ出るミンタカ。気付いたシャウラが顔を上げた。渦巻き始める奥深い黄の色が獲物を狙う蛇のように立ちすくむ彼へねっとりと絡み出した。
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セレス!
しっかりしろ、セレスッ!!
一つの破壊を見届けた夜空の下、開けた白いコンクリートの地面に一同は固まっていた。翼を垂れたまま座る、レグルスもまた。
側では先程からマラカイトの声が続いている。散々揺さぶられたセレスがうっすらと瞼を開く。
空には星。火の粉も失せた。全て燃え尽きた。辺りには黒焦げの虚しい残骸が散らばっている。
レグルスの指先に何か当たった。手元に転がっていた、一つを手に取った。鈍く光っている金属片…違う。また一つ手に取った。これも、違う。また一つ、また一つと手にしては投げ捨てた。どれもこれも違う。骨なんかじゃない。彼女のじゃ、ない。
虚ろにぼやけた赤の目で見上げた。のっぺりとした白い建物がこちらを見下ろしていることにやっと気付いた。
見れば見る程につまらない、これと言った飾りも遊び心の欠片も伺えない巨大な箱のようだった。その周りをぐるりと囲む密集した木々。かすかな夜風が吹き抜ける凍りそうに冷たい空気の中でやがて届いてきた少年の泣き声。クー・シーの声…
レグルスさん…!
近づいてくる確かな気配はすぐに重みとなって胸にのしかかった。半ば押し倒される体勢になったレグルスの眼下ですすり泣きは続いた。胸を濡らした。
「何で…何でメイサが死ななきゃならないのさ…!!」
ついにわんわんと大声で泣き出す。弱々しく、やっと動かせたのは指先で、小さな背中にそっと触れるくらいで、何か声で返してやるなんてとても叶わない。
「僕、もう嫌だ…こんなの、嫌だよ…っ!!」
「クー…シー……」
やっと少しだけ出せた、かすれ切った声。実感も何もまだない、わからない。わからないまま、背中をさすっていた。
そうしているうちに地から伝わってきた振動。それは遠くから、でも確実に大きさを増している。見なくたってわかる。相当な人数であると。
少し取り戻した自分の感覚を決して離さないようにと、胸元の少年ごと胸に引き寄せた。マラカイトもまた大切なものをその腕で守りながら、音のする方を睨んでいる。
反対側からも向かい来る複数の足音が地を揺らした。それもまた気配でわかる。こちら側の者、無事だった兵たち。音が意味する密度は王宮を出る前と変わってはいない。レグルスは小さく息を漏らした。
今ある唯一の希望に限界までひび割れた心が何とか繋ぎ止められそうに思えた。しかしそれも束の間だった。
感じる、前方から。
あの気配。
建物の陰からぞろぞろと蠢く群れを捉えた。気配の出処はまだ見えない。それでも沸いてくる、いや、燃える感覚にレグルスは呻いた。
大きく目を見開くと自然と武者震いが起こった。怒りなんて単語では到底おさまらないと自分でもわかる、激しい憎悪に器の身体は限界を迎えていた。
はっきり明確になっていく、黒の群れ。あの姿。
悪くない、何も悪くなんかない、アイツと同じ色をした左目。そして、もう片方は…
ーーレグルスーー
こんな時に、脳裏でリアルに響く懐かしい声。今はもう居ないその人の色を、自分と同じ色を、当然のように従えている目の前の男が、憎く恨めしく、哀しくて。




