3.未来〜Mirai〜
高度はだいぶ下がったものの決して楽になったとは言えない。空を飛ぶ属性とは言え、これ程気圧の低い上空を生身で飛ぶ機会などそうそうあるものではない。
セレスやクー・シーも恐らくは同じことだ。空を飛ばないマラカイト、ましてや人間のレイはどれ程苦しいことかと気にしつつも、そこはもう信じるしかなかった。
今、最も優先させるべきなのは…
「それは…魔石だな?」
羽交い締めにされたセレスの後ろから時折覗く赤の艶めきにレグルスは目を奪われていた。それが魔石だと知っている。そして、意味することも知っている。表情は次第に強張って。
「そいつは…その石は、爆発する。半径10mは間違いなく、木っ端微塵だ」
口にすると同じように強張った皆の視線がこちらに集まった。続いて届いてきた、聞き覚えのある声が。
「さすがですね、おっしゃる通りです」
淡々としたその言葉はよく知る声質でありながらよく知る口調とはまるで違う。だけど、それでも、紛れもなく…メイサ。
「魔力を発動させて1時間後に爆発。残り5分弱。あなた方はここで私と共に消え去るのです」
爆発。消え去る。
すなわち、死。
その響きはあまりに、重い。
恐怖に耐え切れなくなったのか、クー・シーが嫌だ、嫌だと繰り返して泣きじゃくる。それをマラカイトが大丈夫だ、と言ってなだめている。しかし彼の顔もまた、焦燥に引きつっている。
動けないセレスは涙に濡れた顔に更に悲壮を深めていく。そしてついに叫びを上げる。
「何故そんな風に自分の命を使うの、メイサ…ッ!」
爆発する魔石は確かに彼女の胸元に埋め込まれている。共に消えるという彼女の宣言はまやかしなどではないと確信を覚えさせてくる。胸元から無理矢理引き千切ったらどうなるか?最悪の場合、魔石はその場で暴発するだろう。どうしたらいい?レグルスもまた動けないまま。
「私はルシフェル様と思いを共有して参りました。あのお方が手を差し伸べて下さったから私は目的を見出し、ここまで生きることができた。あのお方の為なら、命など惜しくはありません」
「そんな訳ないじゃない…!!」
淡々と容赦なく降り注ぐ声を振り払わんとでもするように、セレスが悲鳴に近い叫びを上げた。側のマラカイトがあっ、と声を漏らした。かぶりを振った拍子に当てられた刃物の切っ先が彼女の首筋に食い込んでしまったのだ。
気付いたレグルスも当然息を飲んだ。幸いなことに急所は外れていたものの、確かに胸元へと伝っていく赤い筋。しかし…
「命を惜しいと思わないのは、今のメイサがメイサじゃないからよ…」
少しばかり下へ傾いているヘルメットに覆われた顔に向かってセレスは訴え続ける。
「何処に自分を捨ててきてしまったの?取り戻してよ、本当のメイサに戻ってよ…!!」
静かに、腕の中のセレスを見下ろしている、黒に覆い隠された彼女からやがて声が。
ーー本当の、私?
レグルスの眉はぴくりと動いた。今確かに聞こえた声の質感を優れた聴力は逃さなかった。
「ご安心下さい。メイサなる人物ならもうこの世にいません。死にました。私が私に戻ったときから、もう存在すらしません」
冷感を取り戻した口調、だけどその顔は…
「私は未来。氷の女優。演じることこそが私に与えられし尊い使命。殉職した弟、永遠も同じでした」
しっかりと、一点で止まって。
「彷徨える“おどとい”だった私たちは離れていてもルシフェル様と思いを共にすべく、オリオンの名を戴きました。だけど本来に戻った今、もう、それも…」
無機質な言葉が続く差中でセレスも気付いたようだ。彼女はゆっくりと視線を落としていく。声の主と同じ方へ。
セレスの首筋から溢れ、鎖骨、胸へと伝うそれは今、背後から回された腕で止まっている。撥水が施されたと見られるボディースーツの生地の上でいくつかの水滴が揺れてはやがて宙へ散っていく。赤く、花弁のように。
今だ。そう思った。
レグルスは動いた。
跳ね飛ばした冷たい塊は光る銀の筋を描いて後ろへ飛ぶ。追うように見上げるヘルメット。その隙にマラカイトがセレスの腕を強く引く。
後方の床で、カラン、と音を立てて落ち着いたナイフ。座席の上でへたり込む彼女は黒ずくめの腕を押さえている。そこがわずかに湿っている。傷付けてしまった…胸が痛むけれど、それでもとレグルスは向き合った。血液の残る剣を手の内で消し去って。
ーーメイサ。
機体の揺れに耐えながらレグルスは言った。
「やり直すのは、悪いことじゃねぇ。アンタにまだ少しでも心があるなら、そいつを脱ぎ捨てて俺のところへ来い」
そうして顎で指し示した魔石の光る黒い服。彼女…メイサを覆い隠す、闇。
口をつぐんだ彼女はあろうことか胸元の生地を握り締めている。更に心を閉ざそうとでも言うのか、それとも…
そのとき、わかった気がした。今更ながらはっきりと、わかってしまったような気がした後、レグルスの中で抑えようのない熱が突き上げた。滾る苛立ちのままに怒鳴った。
「こんなときに恥じらってんじゃねぇ!馬鹿ッ!!」
記憶が蘇っていた。一年程前のある日の何気ない会話、それは今や“心当たり”と呼べるものへ。
アンタ、名前は?
王宮の皆より遅れて顔を合わせたレグルスは尋ねた。何故か一瞬、溜めた彼女は答えた。
ーーメイサ。
【メイサ・グレンジャー】
艶やかな漆黒の前髪の形もある日、変わった。眉の少し下で平らに切り揃えられたその形状は…
スピカと、同じで。
ーーレイ!ーー
突如、操縦席の方から女性の声が響いた。
ーーロープを垂らすわ!こっちに飛び移って!!ーー
その声にレイがはぁ!?と声を上げる。しかし女性の声は構わずに続ける。
ーー観察中だった魔獣が町に入り込んだの。どっちにしてもその機体じゃ無理よ。みんなで脱出して、あなたはこちらに移るのよ!ーー
声はやがて止まった。いや、止まったような気がした。ゴウゴウと打ち付ける風の音だけが残ったような、錯覚だった。
隣のレイがくそっ!と叫んだ。彼の置かれている状況はきっとその場の皆に伝わっていた。やがて口を開いたレグルスにも、もちろん。
「ーー行けよ、レイ。俺らも一緒に脱出する」
促すとレイが目を見開いてこちらを向く。戸惑った面持ちの彼が返す。
「奴らの狙いは俺ら隊員をここから遠ざけることだ。奴らの戦略に乗れと言うのか…?」
はぁ、とレグルスはため息を落とした。治まらない苛立ち。呆れたような顔と鋭い視線を容赦もなく彼にぶつけてやった。それから言った、力一杯。
「それでもアンタにはアンタの役割があるんだろう!向こうだってこっちの状況くらい知ってるさ。その上でアンタが必要だから言ってだろうが!」
葛藤しているのだろうか。再び操縦桿に視線を落としたレイからは一切の返事も返ってこない。どいつもこいつも馬鹿野郎が…!胸の内で毒づくも様子は変わらず。
ーー聞いているの、レイ。お願いだから戻ってきて。あなたがいないと困るのよ…!ーー
先程と同じ女性の声が響く。はっきりとしていながらも何処か焦燥の感じられる声。
軋む歯ぎしりを続けていた、レイがついに頷き、答えた。
「ーーわかった」
苦渋の選択だったはずだ。そんな判断を下した彼にレグルスは力強く頷いて見せる。苛立ち、睨んだ先程とは反して、少し笑ってわずかばかりの余裕を見せつけてやる。
レグルス。
レイの低い声がゆっくり、はっきりと言った。
「アイツを、頼む」
「ああ、心配すんな。必ず連れて帰る」
アイツ…アイツな。胸の内で繰り返した。あの男らしからぬ軟弱な姿も、この世界で与えられた名の響きも、しっかり内側へ抱くようにだった。
それからレグルスはまた元の方へ向き直る。力無くへたり込んだままの彼女を見下ろした。
「時間がない。俺らも行くぞ」
いつものように上からの視線で、いつものように言った。自分でも驚く程自然だったその振る舞いにはやはり彼女も驚いたのだろうか。ぱっと跳ね上がるように顔を上げた、ゴーグルの隙間からわずかに見えた漆黒の瞳もまた見開かれていて。
帰ろう…メイサ。
慣れた姿を慣れた名で呼んだ。未来?氷の女優?そんな女は知らない。俺が知っているのは…
「そうだよ、一緒に行こうよ、メイサ!」
「…行きましょう」
クー・シー、マラカイトも続いて言う。メイサ…首筋から鮮血を伝わせるセレスも祈るような声で。
ゴーグルの奥の二つの漆黒は時を止めたように瞬きもせず開いている。少し前まで、頑なに見せようとしなかった隙がありありとそこにある。やっと、やっとの希望を見出した気がした。
なのに。
ーーもう、遅い。
届いた響きはあまりにも小さく、低く、強風の中で聞き取れたのがもはや奇跡であろうかというくらい。レグルスの中は再び煮え滾る。内なる烈火が透けたみたいに両の目の赤さが増していく。
「だからさっさとそれを脱げって!!」
張り上げた怒鳴り声、そして突き動かされるのも同時だった。
もう一刻の猶予もない。待ってなどいられない。暴発の危険もあるけれどメイサが言うことを聞かないなら一か八かだ。どっちみちこのままではみんな死ぬ。
忌々しいその赤の呪いを引き千切ってやる。
レグルスは立ち塞がる座席を乗り越えて向かった。縮こまる彼女の元へ。
「アンタがやらねぇなら俺がやるぞ!」
胸に埋め込まれたそれに手を伸ばした。そのときした。
細く、泣くような
「嫌……っ!」
触れるか触れないか、寸前のところの、はずだった。
それが突如凄まじい風にさらわれて、訳もわからず、流された。
夜空へ投げ出されたレグルスの身体は遠ざかる機体を見上げていた。一体、いつ、誰が、ドアを…?答えならもう見えていたはずなのにぼんやりと問いかけていた。満天の星へ、無機質な機体へ…
よく知る、彼女へ。
メイサ…
今更怒ったりしねぇよ。何を聞いたって、何を知ったって、女扱いなんかしてやらねぇから安心しろ。アンタはいつだって…
ーー嫌だよ、汚ねぇーー
ーー…私にもよこせよーー
スローモーションの中で蘇ってくるいつかの声。
ーー見るんじゃねぇよ…馬鹿野郎…ーー
ーーレグルスーー
ーーおい、レグルス!ーー
そう、アンタはいつだってこんな声で俺を呼ぶんだ。ガサツで女らしさの欠片もない。美人で才女なくせにコスチュームマニアの残念な変態医師だ、それがアンタだ。なのに…
ーー嫌……っ!ーー
何だ、何だよ、その声。ふざけんなよ。アンタは…
アンタは……!
落ちていくのはゆっくりで。
砕ける様もゆっくりで。
全ては一瞬のことだったはずなのに、全てがゆっくりで。いい加減危ないというところまで、翼を出すのも忘れていたくらい。
機体の破片は炎を纏ってやがて星と見紛う煌きとなった。チラチラと舞うそれは次第に温度を失い闇に溶けた。やっと翼を広げて持ちこたえた、レグルスの瞳は捉えていた。
無情な程に美しい星々が織り成す冬の星座。もう覚えている、知っている。きっとこの先もずっと忘れることのない、オリオン座。




