2.再会〜Reunion〜
ぼんやり、ゆっくりと、瞼を開く彼女を迎えたのは、遠い天蓋の内側とそこから滝のように流れる白いベールだった。普段から夜はこんな場所で過ごしている彼女。だけど気付いたようだ。普段のものではないと。
少し顔をしかめ、頭を押さえながら身体を起こしたスピカは恐る恐るな動きでベールに手をかけた。照明はついておらず、月明かりのみで青く染まった室内。いつもと異なる家具の配置と形状を目にした彼女の顔には更に確信が宿る。
今度は胸元に視線を落とす。慣れたネグリジェ姿、そこは変わっていない。状況がわからない、とばかりに彼女は不安気な視線を辺りに彷徨わせていく。
やはり恐る恐るな動きで柔らかな絨毯の上へ生身の足で降り立ったスピカは、当てもない足取りで青の室内を少しだけ歩いた。すぐに止まった。窓際に佇む後ろ姿に目を止めて細く息を飲んだ彼女。
窓からの明かりで白っぽく見える髪。はみ出している尖った両耳と、すらりとした身体のライン。
スピカは駆り立てられるように一歩を踏み出した。わずかな笑みをその顔に宿して、唇は慣れた形を作ろうとしていた。しかし。
気配に気付いたのだろうか。背を向けていたその人が一瞬彼女の方を振り向きかけて、また窓へと向き直った。そして、声が。
「ーー目覚められたのですね」
寂しく細く、それでいて何処か少年じみたような甘い声。独特の声色。足を止めた、彼女の顔色も変わった。もうわかっているようだ。彼ではないと。
あの…
怯えが滲んでいく、彼女が恐々と口を開く。
「ここは?あなたは…どなたなのですか…?」
返事は遅れて返ってきた。振り返らないままの背中から。
「ーールナティック・ヘブンの本部です」
恐ろしい、この上なく恐ろしい答えを告げられたはずだった。それなのにどういう訳かスピカの足はふらりと前へ進んでいく。
「あなたは、どなたなのですか?」
彼女はもう一度繰り返す。知りたいのはこっち…そう訴えるかの如く、低くゆっくりと変わった口調に、後ろ向きの背中が一瞬ぴくりとした。答えはまた、遅れて。
「…恐れ多くも、貴女様をさらった当人です」
歩調を緩めた、スピカがゆっくりかぶりを振った。そしてまた歩き出した、早く。
絨毯に足音が掻き消された為か、それとも彼女の歩みがあまりにも滑らかだった為か…いや、聴力の優れた蝙蝠魔族なら本来聞き逃すはずはない。それなのに窓際の彼は背後から迫り来る気配に気付くことができなかった。
強く、引き寄せられ、虚ろな双眼はやっと、驚きに見開かれた。息を詰まらせたその白い顔を、スピカの円らな瞳は容赦もなく見つめ上げて離さない。
あなたは…
逆光を受ける姿勢になってなお、わずかな光を集めて輝く彼の瞳。下から探るように顔を寄せるスピカ。絡み付く、エメラルドとアメジストの視線。
「…シャウラ様、ですね?」
呆然として固まる彼にやがてスピカが見せたのは、笑顔とも泣き顔とも受け取れる、くしゃっと崩れた顔だった。彼女は言った。
「ずっと、あのときのお礼が言いたかったのです。助けてくれて本当にありがとう…。レグルスに伝えておくよう言ったのですが、そのご様子だとまだ聞いていないのですね?」
あの人ったら…そうこぼして可笑しそうに笑う。見下ろす紫が不安定に揺れ出す。
「なっ…何を言っているのですか、こんなときに…」
コートの裾を掴まれたままの彼、シャウラは小さく狼狽すると彼女から視線をそらした。それでも手を離さないスピカはまるで再会を心から喜んでいるかのよう。微笑みかけながらなおも続ける。
「あなたに助けられた事実は変わりません。今度は私があなたを助ける番なのです、シャウラ様」
ついにシャウラは怯えたような目で彼女を見下ろす。振り払いたいけれど振り払えない、澄んだ目を前に、そんな様子で。
「…やめて下さい。僕の名を知っているということは、僕がルシフェルの息子だということもご存知なんでしょう?あなたと、あなたのご両親の自由を奪った、あの悪魔の…」
ーーシャウラ様。
彼の言葉は終わる前に遮られた。ついさっきまでの崩れた表情とはうって変わり、凛とした眼差しを得たスピカが彼へと語りかける。
「あの方とあなたは例え血の繋がりはあっても全く別の人格なのですよ?それぞれに道を選ぶ権利があります」
あなたはあなたとして、生きていいのです。
最後に続いた言葉のあたりでシャウラの表情が静止したのは、覚えのある響きだったからだろうか。掴まれたコートの裾には更に多数の皺が寄っている。そこを呆然と見下ろす。
「あなたは今、何処にいますか…?」
掴むスピカの手がすっと離れて無防備に垂れた彼の指先へと向かった。ゆっくり触れるなり、シャウラはまるで静電気でも受けたかのようにびくっと一瞬の震えを起こした。それからまた目をそらした。センターパートの銀に隠された横顔から、沈んだ声で。
「僕は…自分が何者なのか、知りません」
そうこぼした彼の顔はもう、彼女へは向かない。スピカは再び首を横に振った。彼には見えないはずなのに。
「あなたがあなたに戻れば、きっとわかるはずです。どうか解放してあげて下さい」
「僕が…僕に……?」
視線を外したままのシャウラの瞳が弱くぶれ始める。見上げるスピカの方へと流れていく意識を戻し、離れてはまた戻し、を繰り返しているかのよう。
やがて鳴り響いたノックの音に、その動きは終わりを迎えた。柔らかな手をすり抜け、無表情に戻り、ドアの方へと歩いていくシャウラ。そんな彼の後ろ姿にスピカはためらう様子の一つもなく、言った。
「私は信じています。レグルスも、あなたのことも…!」
進み行くシャウラの足がほんのわずかに速度を落としたが、それはもはや気のせいではないかというくらい本当にわずかのことだった。
構わずに彼はドアノブに手をかける。開いた隙間から組織の者とおぼしき人影が覗く。スピカがもう一度、彼の名を口にしたが、ちょうどそこへ閉ざされる音が重なった。
おもむろに胸の前で指を絡ませて目を閉じる彼女の元へ、施錠の音が、届いた。
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機体に乗り込んで間もない頃は何らかの会話があったものの、今では皆、疲れ果てたように黙り、おのおのの方向を向いている。そもそも楽しい道のりなどではないのだから、むしろこの方が自然なくらいに思えた。
セレスは窓枠に頬杖をつき、続く夜の色を眺めている。しかし、意識はしばらく前から前方へ偏っていた。
ある時点から全く会話に入ってこなくなったレグルスの背中を時折横目で見た。これ程の沈黙が続いているのは、恐らくムードメーカーである彼が口を開かない為だと踏んでいたからこそ。
彼もまた大切な人を連れ去られた立場だ。平常心でなどいられるはずがない。その状況を考えれば当然と捉えるべきなのだろうが、どうもそれだけでは説明がつかない。
明らかに何かが違う。セレスは感じていた。今、この場で問いただすのは果たして正解なのだろうかと、この沈黙の間で何度も悩んだ。だけどこれから始まることの大きさを思うと、見過ごすことの方が間違いかも知れないという判断に今にも辿り着こうとしている。
セレスは意を決して口を開いた。
ーーねぇ、レグルス。
俊敏とは程遠い動きで座席越しの彼が振り返る。ぼんやり定まらない目、軽く開いた唇が乾いている。その表情にセレスは覚えがあった。記憶の断片が紐付けられていく。その過程で同じ顔を見付けた。
最愛の人に秘め事をしていた彼。何年と言えずにいたという思いをまず先に、こちらに打ち明けた。強い意志を示す言葉とは裏腹に隠し切れていなかった、罪悪感と葛藤。
“罪人”
いつか彼に向けられた呼び名を今更のように思い出す。それを口にした当人、マラカイトに聞いたところできっと晴れはしないだろう。言わされていた、そんなところだろうと思った。
きっとまだ、何かを隠している。
何だ、と聞き返しもしない、虚ろな彼の中に潜む得体の知れないものの気配に恐れを感じながら、それでも踏み込まなければならないというある種の使命感にセレスは駆られた。口を動かし、問いを投げようとしていた、そのとき。
ーーおい。
低い声色が空気を一変させた。レイのものだった。そちらに顔を向けるセレス。操縦席の向こうへ目をやるよりも先にレイが叫んだ。
「前方約950m先に7体の飛行物体を確認!応戦の準備を!」
え、と思わず漏らした。随分ギリギリではないかというのが正直な感想だったが、決して不注意などではなかったことがレイの険しい横顔から伺える。一体何処から如何にして浮上したのか、彼にも予測がつかなかったようだ。
ついに肉眼で確認できるまでに迫った7つの銀の小型機からおびただしい数の光が放出された。突如機体が急降下してセレスは内臓が浮き上がる感覚に息を詰まらせる。守ろうと肩へ手を回すマラカイトとの間で目を覚ましたクー・シーがキョロキョロと辺りを見渡した。
「何だあの魔力兵器…見たことねぇぞ」
寸前の距離を流れる青っぽい光の筋にレイは戸惑いを隠せない様子だ。眼下では煙が上がっている。出処は森の中。高度が下がった為に、そのすぐ近くに町らしきものがあるのがセレスにも見て取れた。同時に脳裏をかすめた先方の狙い。どうやらレイも同じことを考えたらしく、機体を大きく旋回させながら今度は機内の皆へ。
「すまないがあともう少しだけ持ちこたえてくれ!ここではマズイ…!」
機体が町を避け森の奥を目指す中、セレスは後方を振り返る。窓から見える白の小型機は1体だけ。レグルスの座る座席に両手でしがみ付き、残る味方の機体が無事であることをただ祈るしかなかった。
「レグルス!!」
町が見えなくなった辺りでレイが叫んだ。名を呼ばれたレグルスが彼を見て頷いた。何を求められているのかわかっている様子の彼は、当然のように操縦桿のすぐ側へ手を当てた。
「みんなしっかりつかまってくれ!!」
レイの呼びかけから間もなくして、どんっ、という突き上げが機体に響いた。赤い炎の塊が彼方へと走り、銀の機体を一つ撃ち落とした。爆風に激しく揺さぶられる中、セレスはやっとそれがこちらから放たれたものだと理解した。
「魔力には魔力で対抗だ!」
前方の二人がパチン、とハイタッチをする。レイの言葉に同意するかのようにレグルスは鼻を鳴らした。それはセレスにとっても見慣れた彼らしい得意気な笑顔。心の靄はまだ晴れないものの、いつもの彼が戻ってきたのを目にして、少しばかり安堵の息をこぼした。
しかしそんなのは束の間のこと。機体が激しく揺れる度に我に返らされてしまう。自分がいかなる力を持っていようとここは自由の効かない機内。撃墜されてしまえば終わりなのだと緊張が走る。
撃ち落とされた敵側だって当然命はないだろう。だけどこんな状況では…もはや理想を語っている場合ではない。やらなければやられる。セレスの中で痛みと共に新たな覚悟が固まっていく。
「あと2機撃ち落とせばあっちは全滅だ!奴らのアジトも近い」
「すごい、レイさん!レグルスさんも!」
レイの報告を耳にするなり、怯えていたクー・シーにも笑顔が戻った。
レグルスがまた力を込めるよう手をかざすと機体が震え、炎の塊が放たれる。青と赤の光が夜空に交差する様はまるで流星群のよう。だけどそれらが持つ威力はそんな幻想的なものではないともう知っている。
爆風が機体をあおる。残る2体のうちの片方が大破したのがわかった。操縦席で、よし!と呟いたレイは気合いを入れ直そうとばかりに強く操縦桿を握り直した。
攻撃をかわしつつも、相手を見失わないよう旋回を繰り返す。そのうち向こう側からの攻撃が途絶た。操縦席を伺うとそこにある、眉をひそめたレイの横顔。
こういうとき頭をよぎるのは皆同じだろう。“嵐の前の静けさ”…マラカイト、クー・シーと寄り添うセレスの額にもじんわりと汗が滲む。
「気味が悪りぃな。一体どんな操縦士が乗ってるんだ。ガツガツ攻撃してくるクセにこっちのは器用にかわしてやがる」
レイの不機嫌そうな声が言った。セレスは返した。ごく自然にだった。
「天才、じゃないかしら」
何故そう出てきたのかはわからなかった。しかし何か予兆と呼べるものを感じていたのは事実だった。
そんなこちらの感覚に答えを示すかのように動きは起こった。セレスを含む皆の目前で、銀の小型機がひらりと高くへ舞い上がった。何かアクションを起こそうとしているのは誰の目から見ても明らかだ。当然、対抗の姿勢を取ると思われたレイが何故か、高くを見上げたままあんぐりと開いた口からこぼした。
「…おい、マジかよ」
何だ?何?と口々に言いながらみんな揃って身を乗り出した。未だ呆然としているレイの呟きの意味を、すぐに知ることとなった。
どん、とのしかかるような振動はすぐ上からだった。みんなが見上げるより先にけたたましい金属音と火花が散った。凄まじく吹き込んだ強風と舞い降りた影にセレスは思わず目をつぶった。機体の上部が切り落とされ、何者かが侵入したのだとわかった。
「くそっ…高度を落とすぞ!」
激しく風に揺さぶられる中、レイの声がかろうじて聞こえた。飛ばされないように前方の座席やらドアやらにしがみ付いているのがやっと。息さえもままならない。低過ぎる気圧に耐えられないのは誰もが同じだった。
侵入した影の詳細がやっと見えた。タイトな黒のボディースーツに身を包んだその人物は同色のヘルメットにゴーグルを着用している。豊かな胸の上で不自然に艶めく赤の石。
顔を伺い知ることはできず、わかるのは女ということだけ、のはずだった。しかしセレスの脳裏でその名が閃くまでに時間はかからなかった。
今でも覚えている。このメリハリのある曲線、このプロポーション…
かつて一糸纏わぬ姿で見たことさえあるのだから。
導かれるように口を開きかけた。しかし、相手の方がより早かった。
「セレスッ!!」
マラカイトが声を張り上げた。レグルスも前方から身を乗り出し目を見張った。素早く動いた黒の人物の手でシートベルトは外された。そして動くことなどできなかった。
冷たい氷のような感触が振動で首筋に付いたり離れたりを繰り返す。背後から回された腕だけは決してぶれることなく鎖のように固くこの胴を締め付けている。動けば間違いなく、当てがわれた刃物に頸動脈を切り裂かれるということくらい、容易に想像がついて。
「セレスを離せ!!」
怒りに目を剥いたマラカイトが全身から妖力をみなぎらせる。打ち付ける強風に吐き出す息を押し戻される中、セレスはやっとの思いで、待って、と言った。
その声は届いた。驚いたマラカイトの身体から妖力の波が薄れた。制止された意味がわからないであろう彼に、セレスはかすれた声で、教えた。
「この子…メイサよ」
えっ、とクー・シーの声が上がる。赤の目を見開き、何か言いたげに口を震わせているレグルスは、もうとっくに気付いていたのかも知れない。
微動だにしない腕と、背中に感じる柔らかな女性の身体の感触。そこには確かに体温がある。セレスは潤む瞳で見上げた。首に走った細い痛みすら気に止めず。
ーーそうなんでしょう、メイサ。
霞がかった視界の中で、漆黒の瞳が見えた。




