1.友達〜Friend〜
この状態に置かれて一体どれくらいの時が経ったのか。ベッドにテーブル、照明や暖房設備も整っているが、窓や時計といった類はない。施錠された扉の内側に一人きりで残された彼女に時を知る術はない。
することもない、どうしようもない、そんな彼女はぽつんとベッドの淵に腰掛けている。床まで届かない宙ぶらりんの両足をただ虚ろな目で眺めている。
あのときも同じだった。スモークガラスに閉ざされた薄暗い車内でミラはただ呆然と為す術もなく揺られていた。やがて車は停車した。
強引とは程遠い、むしろ丁重な扱いで車から降ろされた彼女はある建物の中へと導かれた。鬱蒼とした木々の中に佇むのっぺりとしたコンクリートの塊の内部は意外に広く、一面磨かれた綺麗なものだった。
目立った装飾品さえなく、ただ両の壁にシンメトリーの間接照明が続くだけの長い廊下。氷のように光を反射する見るからに冷たそうな床を進み行くメイサは後ろ手に小さな彼女の手を引くだけで何ひとつとして語らない。眠り続けるスピカを抱きかかえ、前を歩くシャウラも一度として後ろを振り返ることはなかった。
やがて一つの部屋の前で立ち止まり入室を促されたミラは、そのまま過ぎ去っていくシャウラに気付いて声を上げた。
「待って、せめてスピカ様と一緒に…!」
すがる声にシャウラは一瞬歩みを止めた。しかしすぐにまた歩き出した。小さくなっていく後ろ姿にミラは嫌…と蚊の鳴くような声を漏らした。…彼の元から離れた、あのときのように。
力なく立ちすくんでいた彼女をメイサは実に自然な流れで部屋の中へと誘導した。メイサ…すぐに退室しようとする彼女の背中にミラは呼びかけた。そして尋ねた。
「どうしてこんなことを…何故、言ってくれなかったの…?」
ドアの前でぴたりと止まったメイサの足。しばしの沈黙の後、フッという小さな笑みのような音がした。
「…私はスパイです、なんて言うと思いまして?」
「メイサ…っ」
向けられた冷たく美しい笑み。よく知るかつてのものと同一とは思えない口調に息を詰まらせたミラ。違う、違う、とばかりにかぶりを振る彼女に微動だにしない顔のメイサが続けた。
「貴女様はシャウラ様の大切な妹…悪いようにしようとなど毛頭考えておりません。どうかご安心を」
「いつから…だったの…?」
恐る恐る問いかけるミラにゆっくりと向き合う体勢をとる。血の気すら感じさせない氷の女優が答える。
「私は何年も前からルシフェル様と同じ志を持ち、共に歩んで参りました。あのお方に救われたときからずっと、弟の永遠と私、未来はこちら側の人間だったのです」
崩れない淡々とした口調と鉄面皮を前にミラは円らな瞳を潤ませていく。ネグリジェの裾をぎゅっと握り締めて消え入りそうに細い声で言う。
「だけど…あの日、メイサは私の命を助けてくれたわ…」
しばらくの間があいた。変わらぬ冷たさを貼り付けたメイサをわずかに期待の入り混じった表情ですがるように見つめ上げるミラ。しかし、そんな彼女に返ってきたのはあまりにも温度の感じられない残酷な答えだった。
「まず先程申し上げましたように、貴女様が我々ルナティック・ヘブンの跡継ぎでいらっしゃるシャウラ様の妹だから。そして恐れ多くも貴女様は、私共にとって大切な情報源だったからです。亡くなられてしまっては困る理由があったのですよ」
「そんな…」
ミラの水色の瞳が砕けたガラスのように乱反射する。破片に映る彼女はまるで全身で訴えているかのようだった。
私は貴女の知る“メイサ”ではない。そんな人間はいない、と。
それでもミラはやめなかった。感情の見えないはずの彼女の中にかつての温かみを探すように、尋ねた。
「この一年も、全部、嘘だったの?本当に、何もかも…?」
眉を寄せる表情も、あざとくさえ聞こえる言葉も、彼女の心に響かせる為なのか。
やがて氷の二つ名を持つ彼女が低い声色で、ええ、と呟いた。わずか、ほんのわずかに生まれた間の中で、濡れたミラの目尻がぴくりと動いた。
「私は、私の任務を遂行しただけです」
「嘘よ…!!」
ミラはすかさず叫んだ。相変わらず微動だにしない彼女に向かって。
「それが本当なら、どうして…」
先程のほんの一瞬の間に見つけたものを、突き付けた。
「どうしてそんなに哀しい目をしているの、メイサ…!」
そこまで言われてなお、氷の彼女は動かない。それどころか冷めた瞳が更に冷たい輝きを放ち、整った形の鼻先からはフッと小さな音が漏れた。
ーー考え過ぎですよ。
わずかな微笑を残した彼女はひらりと踵を返してドアに手をかける。メイサ、とミラが呼びかけるもその声には答えず、ドアが閉まる間際に淡々とした口調だけを返した。
「ここは施錠させて頂きますので、ご用件がありましたらベッド付近のブザーでお呼び下さい。引き出しに温かな服を用意してございます。風邪を引かれませんよう、着替えておいて下さいね」
バタン、と虚しく響くドアの音。それに続く施錠の金属音が残された彼女のわずかな希望さえはるか底まで叩き落とすようだった。
必要最低限の家具と備品が置かれたただの箱のような空間にミラは佇むことしかできない。彼女はやがて表情を失くした。何処か別の場所を見ているかのように。
遠く。
ーーミラ!ーー
ーーミラ、どうした?おせーぞ!ーー
ーーメシ行くぞ、メシ!!ーー
せっかちな“メイサ”はおっとりとした彼女をよく急かした。それでもおてんばな少女のような“メイサ”の無邪気な笑顔はよく彼女を笑わせた。仲間が深く悩んだときには一緒になって悩み、時には楽観的な振る舞いと絶妙な適当さ加減で元気付けていた。
ーー馬鹿だねぇ、ミラはーー
共に罪を犯した日、重い罪悪感に泣いた彼女をいつもの明るさで立ち上がらせ、それからもずっと傍で見守っていた。
大切な人と生き別れた痛みを共有していた、ミラと“メイサ”。
外見的な年齢は違っても、中身は大人の女同士だった、ミラと“メイサ”。
クー・シーをからかってばかりの悪戯好きな“メイサ”。レグルスと喧嘩ばかりしていた男勝りな“メイサ”。
アストラル王室の専属看護師、そして、仲間だった
「メイサ…」
ぽつりとこぼしたミラの頬へ降りていく雫。まるで乾ききった唇を潤そうとしでもするように、下へ下へ、とめどなく、続いた。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
ーー瞬きも忘れるくらい澄んだ冬の夜空の中を駆け抜けていく。
シャープな形状をした機体の内部は思いのほか広かった。操縦席のレイモンドこと“レイ”の隣にレグルス、その後ろにセレス、クー・シー、マラカイトの三人が乗り込んだ。彼らを守るように周りを囲む小型機には、出動可能な兵士たちが乗っている。
レグルスとの情報交換を終えると、レイは目的地をルナティック・ヘブン組織本部に定め、迷いのない進路を辿った。どうやら彼も敵の居所をある程度把握していたようだ。
「今回の事件…実行犯は、看護師の女とシャウラなんだろ?」
レイの重々しい口調が届いた。マラカイトがぱっと顔を上げた。
「若を…知ってるんですか?」
彼が問いかけると操縦席からえっ、と短く声が上がった。前面の窓ガラスに目を見開くレイの顔が写った。
「ああ、そうか。カイトさんはしばらくあっちに居たんだもんな」
一人納得したようなレイの口ぶりにマラカイトははい、と頷いて返す。窓ガラスのレイの目がちらりと動く。それから口を開く。
「アイツ…どうだった?何か変わったこととか、言ってたか?」
彼の問いを受けたマラカイトがしばらく黙った。うつむき考え込んでいるような表情。だけどそれからすぐに首を横に振って、いいえ、と答えた。そうか…レイの呟きが聞こえたとき、マラカイトの唇は再び動き出した。
「自分は鈍いので若の気持ちにちゃんと気付くなんてできなかったと思います。でも…」
ためらいがちながらも、彼は言った。
「助けたい、です」
「カイトさん…」
予想外の返答だったのかレイの声は少しばかり上ずっていた。レグルスも、クー・シーも、そしてセレスも、一同が神妙な面持ちになって続く彼の言葉に耳を傾けた。
「…優しい人なんです。本当はこんなことしたくないって、それだけはわかるんです。自分が怪我をすれば治してくれて、悩んでいれば相談に乗ってくれました。図々しいのは承知の上ですけど、自分は…」
友達、だと。
「カイト…」
セレスも思わずこぼした。初めて知る、彼があちらで過ごした時間と関わり。レグルスやミラから聞いた話も相俟って、まだ一度たりと対面したことのないシャウラなる人物がますます身近な存在に思えてきてしまう。
「前に若が言ったんです。自分を大切に思っているか、って。俺、答えたけど、本音じゃありませんでした。本当はわかってたのに、若が何て言ってほしかったのか…」
ついさっきまで固く強張っていたマラカイトの表情がほんの少し、和らいでいく。そこへ混じる哀しげな色。言えば良かった…彼は最後にそう呟いた。そのすぐ後、更に意外なことが。
ずっ、とすする音が、前から。セレスは目を見張った。ガラスに映る強面が素早く目をこするのが見えた。察するには十分だった。
「カイトさんはどんな相談をしていたんだい?」
場を和ませようとでもしたのか、今までよりか少し高めなレイの声が切り出した。またいくらか考え込んだ様子のマラカイトが、やがてぽつりと呟いた。
「ーー許されない恋、とか」
えっ、とやや間の抜けた反応が周囲から起こると彼はやっと顔を上げた。我に返ったみたいなそこには焦りらしき形が現れて。
「それってセレスのこと?」
好奇の視線で身を乗り出すクー・シーに目を止めるなり彼の顔はほんのりと赤みを帯びてくる。それから更に奥のこちらを伺う。そしてうつむく。そんな顔をされたらこっちまで…セレスもいよいよ頬を紅潮させる。
「俺はその…もう意味がわかったんですけど、若はただ聞いてくれただけで自分のことは何も。やけに動揺しているように見えたから、ちょっと引っかかってたって言うか…」
どもりながら続くマラカイトの声を聞きながらもセレスは気が付いた。興味深げに目を輝かせているクー・シー以外の誰もが意味ありげに口をつぐんでいることに。しかしさすが鈍感とでも言うべきか、マラカイトは苦笑しながら締めくくる。
「でも自分、鈍いから気のせいかも知れません」
…本当に、鈍感。セレスはため息を漏らした。辺りを見た。
反応のない操縦席、うつむき加減のレグルスの後ろ姿、これで何も気付かないとは…と思いながら、セレスは窓の外へ苦笑を投げる。
「あ、あれ…?」
地雷を踏んだときと似通った空気に鈍い彼もようやく気が付いたようだ。そんな中で考えていた。自然と浮かんだ言葉で、セレスは沈黙を破った。
「私も…わかっているつもりだった」
外を眺めたままだったけれど視線が集まる気配がした。何が、と尋ねる声はしない。皆まで口にしなくてもきっとわかるのだろう。
よし!すっかり重くなった空気を一変させるような気合いの一声がレイから上がった。彼は言った。
「みんな守りてぇモンがあるってよくわかったぜ。かっ飛ばしてくからシートベルトしっかり締めとけよ!」
機体が唸り声を上げて震えた。流れていく夜空の景色はこの上なく幻想的でけぶる雲さえ星雲のように見えた。このまま遠く、遠くまで、時を超えてしまうのではないか、と思う程、早く。
しばらく、誰の言葉も起こらなかった。エンジン音だけが残された静寂。クー・シーは疲れてしまったのかマラカイトの膝の上で寝息を立てている。規則正しい生活を送っている少年が明け方間近の活動に耐えられないのは無理もない話だ。慣れないものを見下ろすようなマラカイトだが、その片手はまるで壊れものを守るかのようにそっと小さな背中に添えられている。セレスはそちらに微笑みを残した後、再び窓の外へと目をやった。
まだきっとこの空の何処かにある、オリオン座。λ星の“メイサ”。慣れ親しんだその名も実は真実でなくて、オリオン座β星の本名を持つルシフェルへの忠誠の為に付けられたのだろうか、などと考えた。
星の名前に意味があると言うのなら、オリオン座の子である彼のものは?蠍座λ星…その名に込められた意味って…?また考えてみるけれど、さすがにそこまではわからない。結局のところ推測は推測でしかない。真実はまだ見えない。
そう、証拠を突きつけられてなお、まだ信じがたいことがあるのだ。
ミラを庇おうと声を荒げた彼女。浴場でのぼせた自分をなりふり構わず介抱してくれたときの手のぬくもり。弟の死の後、レグルスの励ましに気の強そうな猫目が潤んだ。
…あれ程のリアルな感情が全部まがいものだったと言うのだろうか。彼女にとってはあの王宮こそが舞台で、そこでは完璧な女優だった、とでも言うのだろうか。
確かに本物と見紛う程の完成度の高い演技をやってのける役者はいる。だけどそれと同じだとは、セレスにはどうしても思えなかった。“理屈じゃない”…桜庭伊津美として生まれ落ちてからずっと嫌いだった言葉が、今では胸の中の大部分を占めていて。
ーー他人に興味がない、ねぇ…ーー
ーーどっかの段階で、自分を騙してるってこと…ない?ーー
自分に向けられた言葉だと思って疑うこともなかった。今日という日が来るまでは。だけどもし、そうじゃなかったら?あの言葉がもっと近い場所に向けられたものだったとしたら…?
見出した一つの可能性は、折れそうなセレスの心を支える柱の一つとなっていた。




