25.交差〜Intersection〜
……っ!
詰まる息の音と共に彼は目を覚ました。体勢はうつ伏せのまま、薄く開いた瞼の隙間から覗いた紫の瞳がゆらりと動く。
カーテンの間から射し込む光、薄く染みのついた壁、シーツを握る自身の手元…と、順に見ていく。
半身を起こし、まず背中に腕を回す。服の下から直にまさぐる。驚いたような目が更に見開かれる。覚えのないものなのか身に纏った黒いTシャツをしげしげと眺めている。
双眼は静かに細まった。はぁ…とため息が落とした彼が呟いた。
アイツ…か。
ベッドの上、そのまま片手で額を抑える。前へ流れた銀のセンターパートの髪がそこへ被る。
「おはようございます、若!」
「わっ!!」
突如下から起こった声にベッドの上の彼がのけぞった。驚愕した顔の前に緑の草原…もとい、髪が露わになった。
「マラカイトか…」
はい!と大音量の返事が返ってくる。足元まで小さく縮こまったシャウラは胸元を押さえ、びっくりさせるなとでも言いたげにそちらを見て息をつく。
「何故、僕の部屋に?」
「覚えてないんですか?」
マラカイトが心配げな顔で尋ねる。ベッドの上に両肘を付いて乗り出しながら言う。
「野犬に襲われて怪我をしたんですよ。ミンタカ様が助けて、ルシフェル様が治したんです」
もう大丈夫ですよ!元気付けるように彼はにかっと笑う。向かい合うシャウラの目元がわずかに動き、それからすぐに静まった。何か察したような表情に薄い苦笑が滲んだ。そこへマラカイトが続けた。
「思い出しましたか?若」
「…うん」
「俺、怒ってもいいですか?」
「う、うん…?」
すっ、と立ち上がったマラカイトを呆気に取られたシャウラが見上げる。今、何て?とでも聞きたげに目を見開いて。
見下ろす黄色の目が鋭く細まった。ぐっ、と固く結ばれた唇。肯定の返事に対するものなのか一度頷いたマラカイトが言った。強い語気だった。
「何であんな場所に一人で行ったんスか!野生動物がうろついてることくらい知ってるでしょう。優し過ぎる若のことだからどうせ抵抗もしなかったんでしょう。もっと自分を大事にして下さいよ!死ぬ気ですかッ!!」
怒涛の如く浴びせられる言葉に目を見開いたシャウラは身動き一つとれないよう。響く声に振動するかのように二つの紫が揺れている。
マラカイト…
小さな呟きがこぼれたとき、呼ばれた彼がようやく我に返って息を飲んだ。ヒビでも入ったような繊細な眼差しが見上げている。
「すみません…」
取り乱した自らを悔いるようにマラカイトが小さく言った。対してシャウラは静かに首を横に振る。気まずそうにうつむく彼に向かって、ううん、と。
「何であの場所に居たかは思い出せないんだ…ごめん」
ぽつり、ぽつり、と伝う雨垂れみたくこぼしていくシャウラ。だけど、と彼は続けて言う。マラカイトはゆっくり顔を上げる。
「あのときのことは覚えてる…小さな兎が襲われそうになってた」
「…それで後先考えずに突っ込んだ訳ですか?」
憮然とした表情のマラカイトが返す。少し黙ったシャウラがしばらく後に口を開いた。自嘲的な笑みを浮かべながら。
…助けられなかったけどな。
澄んだ瞳が暗く濁っていく。そこへ見入っていたマラカイトがやがて呆れ気味なため息を落とした。
若…
腰をかがめ、諭すような口調で彼は言った。
「お気持ちはわかりますがそれは弱肉強食です。野犬だって生きていく為に弱い動物の肉を喰らう…当たり前で自然なことなんです。若が自らを犠牲にしてまで守るようなものじゃないんですよ?」
お前…
こぼすようにシャウラが呟く。驚き目を見張っている。そして何処か寂しそうに。
「ミンタカと口調が似てきたな。」
「そうですか?…って、そんなのいいじゃないですか。俺は真剣ですよ、ちゃんと聞いて下さい。」
揺るがない叱責にシャウラはまた苦笑する。それでもマラカイトの厳しい表情は変わらない。変わらず、動じず、じっと見据えている。
「若、もう無茶はしないで下さい」
「ごめん」
「約束ですよ?」
……
返って来ない返事。それはきっとマラカイトが最も求めていたものに他ならない。ぼんやりと下ばかりを眺めているシャウラの前、彼の表情に苛立ちが宿る。
返事は?とでも言おうとしたのか、口を開きかけた彼の元に細い声が届いた。
…よく、わからないんだ。
消えそうなそれを受けたマラカイトの表情が静止した。少年みたいな頼りなげな声が続いた。
「気が付いたらいつもそうしているんだ。自分の無力さなら十分に自覚しているはずなのに、傷付きそうになっているものを見ると身体が勝手に動いてしまう。どうってことないような気がしてしまう…」
自分一人投げ出すくらい。
それで助けられるならって。
「若…」
マラカイトはしばし口をつぐんでいた。だけどまた開いた。意を決したような強い視線と共に彼は言った。
「助けられませんよ、それじゃあ」
えっ、と小さく返すその人へ更に言う。
「庇うことはできても代わりに傷付いた若を見たその人の心は救われません」
……
「自分が大切に思われていること…もっと知って下さい」
しばらく居座った沈黙の後、見上げるシャウラが口を開く。
「マラカイトは…僕が大切、なの?」
ためらいがちに発せられた問い。眉を寄せて伺い見るような表情を前にマラカイトはうっ、と言葉を詰まらせる。何か紛らわすみたいに荒々しく頭を掻き始める。
「…若のその言い回しって、わざとですか?」
「え…」
「いや、何でもないっス」
照れ臭そうに頬を染め目をそらしたマラカイトに対して、ぽかん、と見上げるシャウラの頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいるかのよう。
ーー当たり前じゃないですか。
やがて、わかっていない様子の彼に声だけが届いた。視線をそらしたままのマラカイトだった。
「若は…ルナティック・ヘブンの希望、なんですから」
その答えを受けた人の表情がどう変わっていったのか、マラカイトが見届けることはなかった。そうか、と返ってきた声にようやく振り向いた。薄く笑うシャウラの表情は何事もなかったかのように元通りなものだったがそれさえ知ることはない。
「水、飲みますか?」
「ううん、大丈夫…」
「何処が大丈夫ですか。傷は治ったって衰弱してるんだから飲んで下さい」
「…うん」
俺、持って来ます!半ば強引に締めくくったマラカイトが小走りで部屋を後にする。高い本棚だけがやたらと存在感を主張している家具のほとんどない殺風景な部屋。ベッドの上、残ったシャウラが薄く口を開く。
救われない…
もしそうなら、傷付けてしまった君を助けることはできないの?
ミラ……
ゆっくりと動いていく。下へと傾ぐ顔と上へと向かう両の手のひらが間近に迫る。
こんな力、なんて…
何か悔やむみたいにきつく結ばれた唇の奥が、カリ、と一回音を立てた。
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ーー次の日の深夜、11時過ぎ。
眠れず落ち着かずフラフラと彷徨って辿り着いた場所で腰を下ろした。芯まで凍らせようとする寒さをしのぐ為、持ってきた大判のストールを肩から被った。
廊下からのわずかな照明だけが薄く入り込む深夜の食堂には当然人一人居ない…はずだった。背後からの気配を感じるまでは。
「…どうしたの?レグルス」
振り向かないまま問いかけた。カツカツと靴音を連れて彼の気配が近付いてくる。
「よくわかったな」
「それだけ強い魔力がだだ漏れていれば気付くわよ。」
ゆっくり振り返るとちょうど彼が冷蔵庫の方へ引っ込むところだった。見慣れたいつもの服装。就寝する気などなさそうな彼はまたあのレモネードを探しているのだろうか。
アンタも飲むかー?と向こう側から声がした。私はいいわ、とセレスは返した。
やがて気だるそうな足取りでやってきたレグルスが腰を下ろした。向かい側に。時折ため息など漏らしながら瓶の中身を飲み下している彼を見た。わずかな変化に気付いた。
「何だか顔色が違うわ。風邪でも引いたの?」
そう言って手を伸ばす。熱を確かめようとやや乱れた前髪を押しのけて彼の額に触れる。びく、と小さな反応を感じた。
「冷てぇよ」
「じゃあ熱があるんじゃない?」
「アンタの手が冷えてるだけだろ」
不機嫌そうに顔をしかめているレグルス。一体何が気に入らないのか。だけど確実にわかることがある。何か無理をしているということだ。
すっ、とセレスは腰を浮かせた。驚いている様子の彼にわからせてやろうと顔を近付けた。コツン、と二つの額が重なった。
「お、おい、アンタ…」
「ほら、やっぱり熱い」
困惑したような相手の口調にはお構いなしに熱を確かめる。少し息がかかるのを感じた。これもやはり熱を帯びている。
「早く寝なさいよ、冷たいものばかり飲んでいないで」
子どもを嗜めるみたいに言って立ち上がった。もっと風邪に適した飲み物は…そんなことを考えながら調理場へ向かおうとしていた。そのときだった。
ーーセレス。
汗ばんだ手に腕を掴まれたのは。
「やっぱり、アンタは…」
見上げる目の色、深い赤の中に潜むものに気付いた。それはきっと私の中にもある。否定したってその場しのぎにしかならないと知っている。
身体ごと振り返って真っ直ぐ見下ろした。いつもより小さな子どものように見える彼へ言った。
「言わないで、レグルス。わかっているなら」
息を飲む音が返る。二つの赤色が見開かれる。何を、とは聞いてこない。やっぱりわかっているんだと確信を覚えていく。
「しっかりして。どんなに戸惑っても目をそむけないで。自分が本当はどうしたいのか見極めて、ちゃんと言うのよ」
私じゃなく、彼女に。
「セレス…」
まだ困惑しているようなレグルスが呟く。緩む彼の手元からあくまでもさりげなく腕を抜いた。
「生姜湯、作ってくるから」
自然とこぼれた笑みと言葉だけを残してまた調理場へと歩き出した。
見つけた灯りを付けて、湯を沸かす。冷蔵庫の野菜室を漁って探す、手を動かしつつも一人考えていた。
ーーこの世界のこの王宮に来てからいくつもの出会いがあった。そしていくつもの秘密を知った。
どっぷりと肩まで浸かって関わる中で新たな想いさえ芽生えた。目まぐるしい変化に本当は今だって戸惑っている。
だけどその場しのぎなんてもう許されない。いや、許さない、自分が。
それぞれが抱える秘密は自分を守る為の身勝手なものだったかも知れない。だけどそこには確かに誰かへの想いがあった。決して好き好んでしたことではなかった。
この世界で私ができること…
更なる波乱が起きる前に食い止める。彼と手を組んで戦っていく。秘密があったこともいずれ過去のものとして打ち明けられるようになれば、と思う。
決して好きな言葉ではないけれど結果オーライと言われる日を願っている。事実そのものは許されなくても皆とは互いに許し合える仲でいたい、と。
その為にはまず、彼に意志を固めてもらわなくてはならない。私自身のそれも同じこと。
時が訪れるまでは慎重に、守り抜くのよ。
ピー、と甲高い音が思考に混じった。コンロの火を止め、刻んだ生姜がスタンバイされたマグカップにやかんを傾ける。ふわっ、と湯気が立ちこめる。熱を患った彼の苦痛と不安が治まるように…とスプーンで丁寧に拡散させながら、
私も、飲もうかしら。
そんなことを思った。




