23.罪〜Sin〜(後編)
ーー厳かな空気を包んだ控え室。そこは王宮の奥まった場所にある。
薄ピンクのドレスに身を包んだ少女は端っこにちょこんと座り、口をつぐんでいる。朝からずっとこんな調子だ。
「どうした?スピカ。」
やがて降りた柔らかい声色。緊張しているのかい、と声の持ち主は言う。少女の円らなエメラルドが上へ向く。
「お父様…」
見下ろす優しい顔を前に少女はやっと口を開いた。助けを求めるような潤んだ目。
アストラル王・アルタイルはやれやれと言わんばかりに小さくため息をこぼした。そっと優しい手つきで娘の頭を撫で始めた。
「スピカ、今日は君が主役だ。堂々としていなさい。皆が君を祝福している。何も怖がることはないんだよ。」
そう言って目を細める。少し遅れてはい、と返事が返った。消えそうな程に細い声、それが精一杯であるかのように。
5歳の誕生日を迎えたスピカ。自分が王女だということはもう理解している。
しかし大勢の民衆の前に立って挨拶をするなど未だかつてしたことがない。幼い彼女にとってはこれまでの短い人生の中で最もな大役であると言えよう。
ふと、小さな姫は遠くへ視線を送る。その先にいるちょうど着付けを終えたばかりの女性が彼女の視線に気が付いてにっこりと微笑んだ。
アストラル王妃でありスピカの母である、ベガ。
自然な曲線を描いてふんわりとまとめ上げられた美しい艶を持つ栗色の髪。白いうなじに白魚のような手。品格溢れる佇まい。
「お母様…綺麗だなぁ…」
そうこぼしたのは父のアルタイルだった。
整髪料でもまとまりきらない硬いブロンドの短髪は獅子のよう。浅黒な肌、逞しい筋肉質な体型と突き出た顎はまさに強い男の象徴とも思える。
そんな父の緩み切った顔を目にしたスピカはふふ、と小さく笑った。
「おお、スピカ!どうした?元気になったみたいだな!」
娘の細い笑い声を耳にして嬉しそうに振り返るアルタイル。まさか締まりのない自らの表情がそうさせているなどとは思ってもいない様子だ。
向こう側のベガも可笑しそうに笑っている。自身の足元に視線を落とすスピカ。見つめるそのグリーンの目に生気を感じさせる光が宿った。大丈夫、そう自分に言い聞かせているみたいに、強く。
失礼致します!
扉の方から声がした。開いたそこから中年程の従事者が姿を現す。
「殿下、会場の準備が整いました!」
会場指揮官の報告を受けたアルタイルは娘の頭をポンポンと軽く二回程叩いてからそちらへ歩いていく。
いよいよ始まる。
そう意識したようにスピカの背筋は定規でも差したみたいに真っ直ぐと伸びていく。
こくりと頷いて笑顔を送ってくれる母、指揮官と和やかに会話する父を遠目にスピカも無理なく笑顔になっていく。
しかしそれは束の間の安堵だった。
刻一刻と“そのとき”は迫っていたのだ。忍び寄る、影のように。
ーー!?
突如、部屋の外側から伝わった響きが足元を揺らす。その場の一同が揃って顔を上げたっきり、時を止めたみたいに固まる。
な…何だ?
確認だ、急げ!
遅れてざわつき始めた室内。一人が扉を開いたその刹那、キャーッ!という甲高い声が飛び込んできた。
紛れもなく、悲鳴。
「スピカ…!」
椅子に座ったまま動きを忘れている娘の元へベガが駆け寄る。続いて血相を変えたアルタイルがスピカを素早く抱き上げ椅子から引き剥がす。三人を守るように側近の一人が部屋の角へ誘導する。
爆発だぞ!自爆だ!
くそっ…スパイが紛れ込んでいたのか?
怪我人は?
…駄目だ、もう10人はやられているぞ…!
爆発、自爆、スパイ…
遠くから羅列される言葉の数々を幼いスピカはどれだけ理解することができたのだろう。いや、きっと半分もわかってはいない。
それでも固く強張っていく表情。父の服を掴む小さな両手に力がこもる。
漂う火薬の匂い、灰色の煙がいつしか室内に流れ込み、辺りがけぶっていく。恐ろしいことが起きている、きっとそれだけはわかってはずだ。
「お父様…お母様…」
スピカは怯える。アルタイルの腕に自身のそれを重ねたベガが大丈夫、大丈夫、と娘へ繰り返す。彼女の額もじっとりと脂汗で濡れている。
再び、地鳴りが足元を揺さぶった。同時に上がった複数の悲鳴が彼らの耳をつんざく。
それは最初のものよりも近く、ほんの瞬間遅れて届いた爆風に押された扉が砕けて宙を舞う。
やがて充満した煙の奥から一つの人影が現れた。ボロボロに焼け焦げた服はもはやどんな原型だったのかすらわからない程。年齢も確かめられないくらい煤で埋められた顔。低く漏れる呻き、その声色がかろうじて男性であることを示している。
「おい、一体何が…」
三人の前に立つ従事者の一人が問いかけようとしたとき、彼は力尽き倒れ伏した。露わになった背中に引き裂かれたような痕。流れ出た液体が腹の部分から絨毯を黒く染めていく。
ひっ、と小さく息を飲んだスピカは次の瞬間とうとう声を上げて泣き出した。
「スピカ…!」
泣きじゃくる娘に寄り添うベガ。スピカを抱くアルタイルは歯を食いしばり鋭い眼光で睨んでいる。
煙の奥に浮かぶもう一つの影を。
ーーお初にお目にかかります、アストラル王・アルタイル様。
熱気で揺らぐ影が徐々に色を帯びていく。そこからの声が続ける。
「それから王妃ベガ様。…スピカ王女。」
「誰だ貴様はっ!!」
従事者の男たちが次々と剣を抜く。戦慄とした薄い空気の中、人影はついにその形を鮮明にした。見つめるスピカが目を見開いた。
現れたのは状況に似つかわしくない程、紳士的な姿。端正で穏やかな顔、きっちりと後ろにまとめられた銀の長髪。
硝煙の中とは思い難い、皺一つない質の良いスーツに、黒のロングコート。見下ろす紫の瞳だけが凍てつくように、冷たい。すらりとした30代くらいの男。
完全に全容を映し出したスピカの瞳が更に見開かれて、揺れる。
その反応は彼女だけではなかった。その場にいる皆が同じようにし、ざわつきを始めた。
ガ…ガルシア親衛隊長!?
戸惑いとおぼしき声を一人が上げた。何故あなたが、と他の誰かが言う。
皆の目に映るのは王宮内で名の知れた彼の姿そのもの。シリウス・グラディウス・ガルシア。
凄まじい光景の中に佇むその姿は、まるでコラージュされた写真のような違和感を全てに与えたことだろう。
誰もが言葉を失っている中、スピカは小さくかぶりを振った。その意味を示すようにアルタイルが言った。
ーーいや、違う。
娘と同じように、彼もまた気付いたようだった。妖しく舐めるような視線、それを放つ色は自身の知るものではない、と。
ーー間違いではないですよ?
余裕の表情を浮かべる男の紫の目が従事者の一人に向けられる。彼は言う。低く、静かに。
「私は確かにガルシアです。ただ、シリウスでもなければ親衛隊長でもない…」
兄、ですがね。
「何っ…!?」
視線を向けられた青年の従事者が剣を構えた。その前で動きが起こった。
それは一瞬だった。
突如巻き起こった旋風、その中心の男の手に光の筋が走った。色を変え、形を変え、細長くそびえる刃となったのがわかる頃にはすでに切り裂かれていた、宙。
一本の剣が後に舞い、ストッと垂直に絨毯へ降りた。数秒とも言えないくらい前に剣を構えていた一人の青年が膝から折れ曲がってその場に伏せた。悲鳴の一つも上げることなく。
早い、あまりにも早すぎる出来事に周囲はいよいよ凍り付く緊張に埋め尽くされた。
もはや悲鳴さえ忘れてガクガクと震えるスピカ。寄り添うベガは彼女の頭ごと胸へ抱え込む。残酷な光景を見せまいとするように、強く。
娘のもので濡れた胸元、抱える彼女もまた、治まらない震えに耐えている。
この野郎ーーッ!!
とっ捕まえろ!!
何処からか雄叫びが上がった。いつの間にか人が増えている。武器を手にした王室親衛隊の兵士たちが駆けつけていた。
耐え難い恐怖の為か怒りの為か、滅茶苦茶に叫んで向かい来る彼らを前にロングコートの男は微動だにしない。寸前まで迫ったところで突如、墨を溶かしたような薄暗い紐状のものが次々と彼らを捕らえた。
なっ…!?
驚愕の声を漏らす彼らを薄暗い茨が締め付ける。屈強であるはずの鎧がミシミシと悲鳴を上げる。
いくつもの剣が兵士たちの手から離れ落ちる。力を奪われていくみたいに。
茨を放った男は黙って見つめている。何処か恍惚としたような薄い笑みを浮かべながら。
空間に刻まれていく刃の軌跡。兵士たちの鎧に守られていない柔らかなところが切り付けられていく。血を吹き出した首がドミノ倒しのように折れていく。
やめなさい!やめたまえ…!!
スピカを妻に預けたアルタイルはかすれた声を張り上げた。あまりにも無残な光景を前に。
武器も持たぬまま自らも立ち向かおうとしている。暴れる彼の身体を側近の者たちが数人がかりでやっと抑え込んでいる。
しかし状況はやはり、無情だった。
忠誠を尽くす三人を守ろうとする彼らまでもがまた茨の餌食となってしまった。
あっ…!
小さな悲鳴が上がった。一瞬のうちに。
「スピカ…!!」
手を伸ばした黒い呪いが叫ぶベガの手から娘を絡め取った。
全身を締め付けられながら男の足元まで引きずり込まれていくスピカ。
止めようとする両親の足元からも黒い紐が不気味に駆け上っていく。自身も茨に捕えられながら、ベガは悲鳴を上げて泣き叫んだ。
硝煙と骸で埋め尽くされた部屋。朦朧としたように力を失っていく三人。虚ろな目。
…何が…望み、だ…?
絞り出したアルタイルの声がやっと、言う。目の前に向かって問う。
「あなたは…何者だ?言いたまえ…!」
まだわずかの力が感じられる声。それを受けた男は静かに微笑む。これまでの残虐な行為が何かの冗談ではないかと思えるくらいに紳士的な姿勢を崩さずに。
ーールシフェル。
彼は言う。
「明けの明星となるべく力を求めてきた者、でございます。」
「何、だと…?よくも、その、ような…」
もはや呻きと化しているアルタイルの言葉を遮るように彼は手の内で剣を消し、その場にひざまずく。深々とこうべを垂れる。
「恐れ多くも殿下、妃殿下、あなた方にはしばしお眠り頂きたく存じます。これもアストラルの永遠の未来の為…古き歴史は正していかなければなりません。」
お待ち、下さい…!
吐息のような声が叫んだ。弱く息を切らすベガが必死に手を伸ばそうとしていた。彼女は言った。
「どうか…スピカ、は…お願い、しま…」
遠く引き離されてしまった娘を虚ろな瞳で、それでも真っ直ぐと見ている。ご安心下さい、妃殿下。懇願する彼女に悪魔を名乗る男が返す。
「王女様のお命は私が責任を持ってお守り致します。」
「い…いや……」
細い悲鳴が漏れる。男の腕の中、怯えきって娘の顔を見つめながらベガはかぶりを振る。
見下ろす紫の瞳の奥に一抹の白が宿った。それは瞳孔が開くように拡大して強い光を放つ。
「スピカ…ッ!!」
「ベガ、伏せろ!!」
それが、スピカが耳にした両親の最後の声だった。
二人の身体は瞬く間に無機質な灰色に浸食されていった。
互いを庇うように寄り添って、時を止めた二人。震えていたエメラルドが理解に見開かれていく。触れずともわかる、“石”の質感そのものを、捉えて。
お父様…お母様…!!
弱々しくも声を張り上げる。何度も何度も、呼ぶ。
もう自分の名を呼んでくれることはない。抱き締めてくれることはない、そんな実感に占められていくみたいに、円らな両の目から涙を溢れさせていく。
頼りない小さな身体から確実に奪われていく力と意識。変わり果てた両親の元へ駆け寄ることさえ叶わない。
元凶であるその人が身をかがめた。弱った小さな身体を片腕で自らの元へ引き寄せた。彼は言った。優しい、瞳で。
「貴女を悪いようには致しませんよ、姫。私に付いてくればいい。全ては上手くいくのですから。」
スピカは首を振る。すがるような目を彼へ向けながら。
「お願い…お父様とお母様を…返して……」
何もいらないから、と懇願する。優しげな表情の男、ルシフェルは困ったように笑う。
「いけませんね。」
その声はシリウスのものよりも少し、低い。優しい声色でありながらも何処か薄気味悪い。
幼いスピカはきっと感じただろう。瞬時に脳裏をよぎったであろう、【服従】の二文字が。
どんなに優しく微笑んでいても取り巻く現実が示している。
豹変したこの男が石と化した大切な二人を破壊し、自分をぐちゃぐちゃに捻り潰す…そんな光景を思い浮かべてしまったのかも知れない。この男なら間違いなくそれができる、と。
「貴女はアストラルのもう一つの希望。そのような狭い視野に囚われてはいけませんよ。」
さぁ、参りましょう。
促すように添えられた白い手を見つめた。スピカの目の色が少しずつ、変わった。
幼いなりの決意と、諦め。付いていくしかない。これ以上の犠牲を出さない為に、大切な二人を壊させない為に…そんな意味を感じさせる何処か強くも寂しいものが染めていく。
しかしその瞳は再び本来の色を取り戻すことになった。
……!!
すぐ傍の男の変動によって。
「今のうちにお逃げ下さい、姫…!」
一人の声が叫んだ。スピカは目を見張った。
絡み付く茨が怯えたみたいに縮まっていく。隣の男の顔が苦痛に歪んでいる。乱れた息とこぼれる呻き。そして、背中に突き立てられた銀の刃。
剣の持ち主である兵士は床を這って背後から近付いたと見える。戦った際に兜が吹き飛ばされたらしく、生身の顔が露わになっている。
まだ若い、20代くらいの青年。
あまりにも多い、王室従事者。首からの出血で蒼白し汗まみれになったその兵士の顔をきっとスピカは知らなかった。
だけど彼はそうではない。致命傷を負ってなお、まるで娘を見るかのような慈愛に満ちた表情が物語っている。
「愚かなことを…!」
振り返ろうとしたルシフェルの背中に刺さった剣を兵士の彼はありったけの力で握り締め、更に奥深くへと沈めた。ぐう、という呻き声が上がった。
「逃げるのです、姫!なりふり構わず。殿下と妃殿下は必ずお目覚めになります!貴女様は生き延びなければなりません…だから…!」
耐え難いはずの苦痛の中で彼女に向けられた薄い、笑顔。
スピカは立ち上がった。たがが外れたみたいに泣き叫びながら腕を振り払って駆け出そうとした。そのとき小さく悲鳴を上げた。
伸びたルシフェルの手が彼女の足首を捕らえていた。食い込んだ彼の爪が瑞々しい肌に筋状の傷を描いて血を滲ませた。
それでもスピカは振り払った。小さな身体からは想像もできない、きっと彼女自身も驚く程、精一杯。
まだ解けない茨の呪いを身体に纏ったまま一目散に出口を目指した。
焼け焦げて原型の崩れた廊下。敵の一員と見られる男女が煙の中から現れて二人がかりで彼女を押さえ込もうと手を伸ばす。かけっこの得意だったスピカは二人の足元をちょろちょろとすばしっこく駆け回り、ついに瓦礫の奥へと紛れた。
ーースピカ、もしものときはここを抜けて、森へ…ーー
彼女は探した。目指す行き先、いつか母が教えてくれた隠された通路を。
あのとき聞いた“もしも”が本当に訪れるなど思ってもいなかったことだろう。
祈りを込めるように時折固く瞼をつぶりながら無我夢中で走った。短い髪を振り乱しドレスを捲り上げ、兵士の青年が言った通り、なりふり構わず。
お母様…
その途中、スピカは切れた息に混じって呟いた。
どうか…!
もう答えてはくれない、その人へ。
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王宮の前へ、一台の車が止まった。そこから飛び出すように降りたレグルスは真っ先にすごい!と声を上げた。
初めて目にする規格外とも言える広大さと人の多さ。続いて降り立った父の方へ振り返った。赤の双眼をルビーみたく輝やかせて。
「いつもこんなに人がいるの?」
無邪気な問いかけにシリウスはまさか、と言って笑う。彼は言う。
「今日は特別な日だから町からも人が大勢集まっているんだよ。」
ゆったりとした大股な足取りでそっと息子の隣に立つ、その横顔は誇らしげだ。レグルスも真似するみたいに前にそびえる未知のものを見据えた。
門を抜けるとそこは自分たちと同じようにお洒落をした町人たちでごった返していて、さながら祭りのようだった。正面の礼拝堂に続く道を鎧に身を包んだ兵士たちが挟んで立っている。陽を受けて明るい銀色に輝く彼らの姿にレグルスはすっかり目を奪われていた。
式典が執り行われる礼拝堂の中には、王室従事者とその親族、来賓として招待された王室と関係の深い者だけが入れるという話だった。
今日に限り扉は終始開け放たれ、外の広場の町人にも見えるようにしているという。
そして最後に、王と王妃が主役であるスピカ王女を連れて全ての人に見えるようにと上階から現れる、という流れらしい。
指定された席に案内されるとレグルスの気持ちは更に高揚した。厳かな雰囲気の漂う礼拝堂の中で、わぁ、先頭だぁ!と大音量を張る。
興奮を抑えられない少年の姿に案内係の女性がくす、と笑った。当のレグルスはまるで気付かないまま、落ち着きなく辺りを見渡していた。
前例の席には貫禄の滲むいかにも“選ばれた”顔ぶればかり。父のシリウスは当然のように彼らと軽い談笑を交わしている。
レグルスは鼻を鳴らし椅子の上で小さく跳ねる。父は偉い、という実感は優越感へと移行し、今度は周りの目を気にし始めてまたキョロキョロと振り返っては戻る。
「もうレグルスったら、少しは落ち着きなさい。」
「わかってるよ。」
相変わらずの母のたしなめに返事こそするものの、まだ寸足らずな両足は楽しげに宙を踊っている。まだ係の者が行き交うだけのステージを見上げた。
胸の高鳴る情報を車内で聞いた。しっかりと覚えていた。上階からのお披露目の前に、王女はここへ現れると。
見通しの良い席、それも最前列で真っ先に彼女の姿が見れる。
自分に気付いてくれるだろうか?身だしなみはおかしくないだろうか?どんな顔をしていれば格好良く見えるだろうか?考えるだけでそわそわする。
にんまりと笑うレグルスはすっかり自身の妄想の世界に身を沈めていた。目の前が霞む程に夢中になっていた。
すぐ側で起こった反応に、一足遅れてしまった。
はるか後方から起こったざわめきにシリウスが振り返った。彼はそのまま立ち上がった。ただならぬ気配、緊迫した夫の顔をアルヘナが不安気に見上げた。
レグルス…!!
小さく息の飲む音の後、伸びた腕に肩を掴まれた。レグルスはやっと顔を上げた。
強張った両親の顔が、上に。父に続いて母までもが背中に手を添えてくる。視線は後方へ向いたまま。
「…父さん?母さん?」
不思議に思って見ると前例の人々は皆、立ち上がって同じ方を向いていることに気付いた。実体は見えない、だけど会場の中で確かに広がっていく動揺を感じた。言い知れぬ不安をこの時になって覚えた。
突如、陰が覆った。驚いて隣を見た。
蝙蝠の翼を広げた父、シリウス。自身の同じ赤の目が鋭く熱く燃えている。
父さん?
再び呼びかけようとしていた。そのときだった。
キャァァアア!!
背後からの切り裂くような女性の悲鳴に跳び上がった。レグルスはとっさに振り返った。もちろん周りもそうしていた。
出処はステージ裏のようだった。地響きのような複数の音が迫り来る。総毛立つような緊張がいよいよ高まっていく。
ーー手を上げろ!!ーー
ステージに現れた黒ずくめの男たちが高らかに叫んだ。彼らの手にしているもの、氷柱を逆さにしたように天に伸びるいくつもの銀を目にしてレグルスは息を飲んだ。
首筋に刃を当てがわれ後ろ手にされた係員が次々とステージ上に連行されていく。何が起きているのか、きっと誰にもわからない。幼いレグルスにももちろん。
あるのはただ恐怖だけ。全身が痺れるような空気の中に一つの低いトーンが、響いた。
…姫君を見かけた者は、いないかね?
…!!
ひゅっ、と音を立てた息はシリウスのものだった。顔色が明らかに変わっている。
彼は探した。全てが似通った中、わずかに異なるものの一つ。その出処を。
そして瞳が止まった。捕らわれた係員と正体不明の侵入者たちで密集したステージ上、その奥から現れた姿を、捉えて。
一卵性双生児らしい瓜二つの容姿。肩の下まで伸ばした銀髪に、蝙蝠魔族の象徴である闇色の翼。異なるもう一つの要素である、紫の双眼。
「リゲル…!!何故…!」
シリウスは叫んだ。容易には受け止められない現実にすっかり血の気の失せた唇が戦慄く。
ざわめく会場の人々もそちらとこちらとを交互にせわしなく見ている。彼らの顔もまた動揺に染まっている。
「ガルシア親衛隊長…これは、一体…?」
隣の年配の紳士の問いかけにシリウスは声を詰まらせる。その目はしきりに泳いだ。もう片方隣には彼を案ずる妻の眼差しと、涙目で震える息子の姿。
彼はやっと口を開いた。その瞬間をレグルスは見た。
「ーー兄に代わってお詫び申し上げたい。必ず説得致しますので、どうかそのまま動かれませんよう。」
低い静かな声色だった。それに伴う優しい眼差しが今度は妻へと向いた。
「アルヘナ…」
彼は言った。深い赤に光る膜を張りながら。
レグルスを、頼む。
上からの息を詰まらせる音、声にならない悲鳴をレグルスは聞いた。慌てたように見上げた。
壊れそうな程、激しく揺れている母の青い瞳。今にも溢れ出しそうな涙を飲み込むようにして彼女は力強く頷いた。
何のことかわかってもいないのに血の気が引いた。まるで何かを察し、覚悟を決めたみたいなその姿に。
父さん…
背を向けた父をレグルスは呼んだ。恐る恐る問いかけた。
「叔父さん、どうしちゃったの?何であっちにいるの…?」
ステージ側を向いた父は、答えない。後ろからしっかりと抱き締める母の腕に力がこもる。一歩、前に踏み出そうとするも引きとめられてしまう。
父はやはり、振り返らない。
「父さん…!!」
遠のいていく背中にレグルスは叫んだ。恐怖のあまり、喉が裂けそうな程に精一杯の声で。
だいぶ遠くなった頃、やっとシリウスが振り返った。遠目からでもわかるその顔にレグルスは息を止めた。
ピリピリと伝わる魔力とは相反するような穏やかな、笑み。名残惜しそうなそれはほんの数秒だった。
父はまた前を向いた。シリウス…ステージ上の人が言った。
「私とお前とでは根本がまるで違う。だから今回ばかりは打ち明ける訳にはいかなかったのだよ。でも…」
あまりに変わらな過ぎる叔父・リゲルの表情。同じように変わらない声が続けた。今ならまだ間に合う、と。
「お前の持つ【破壊】と私の持つ【再生】…私たちなら創れる。新たな世界を。」
シリウス、
私の元に…来てくれないか?
静まり返った中で響く低いトーン。落ち着いているように見える紫の中にやっと、見えた気がした。レグルスは全身で感じた。
変わらない意志、想像をはるかに超える、野望。
そしてそれにも引けを取らない波長が父の背中から放たれていることを。
予兆は始まった。二つの異なる声と色が、交わり始めた。
「それはこっちの台詞だ、リゲル。まだ間に合う。戻ることができる…!」
「…やはり相容れないか。私とて覚悟はできている。お前が変わらぬと言うのなら…!」
ステージへの階段を駆け上がるシリウス。リゲル!叫びのような声が上がる。
「俺は必ずお前を取り戻す!命をかけても…!」
「お前の持つ【破壊】、今ここで私に預けなさい!形ばかりの優しさに浮かされてしまったお前にそれは生かしきれまい…!」
キィン、と高鳴る音を立てて一瞬のうちに現れた双方の剣がぶつかり合う。動きを止めては睨み合い、また振りかぶる。激しく滾る魔力が渦を巻く。熱風と冷風とが滅茶苦茶に交じり合って押し寄せる。
「父さん!父さぁぁん!!」
手足を前へ繰り出し暴れるレグルスをアルヘナが羽交い締めで抑え込む。自身も壊れそうに頭を振り乱しながら。
涙ながらに父を呼ぶ、レグルスにももうわかっていた。何故こんなことになったのかはわからなくとも、父さんが危ない、ただそれだけは。
目の前で追い詰められていくシリウス。凍傷だか火傷だかわからない傷だらけの身体、苦痛に歪んでいく顔。
やがて彼の額から一筋の赤い線が通った。目にしたレグルスの中で何かが、弾けた。
レグルス…!!
背後で母の叫びがした。だけど振り返ろうとはしなかった。
訳のわからない雄叫びを上げ無我夢中で走った。ステージへ向かって。
「来るな、レグルス…!!」
青ざめたシリウスの叫び声。その隣から音もなくかざされたリゲルの手の平から青白い閃光が放たれた。
それは息つく間もなく、こちらへ向かった。
凄まじい冷気を受けた。景色が遠のく。いや、自分が吹き飛ばされたのだと気付いた。そして視界を闇が覆った。
父さん……
父さん……
微睡みの中、完全に落ちるそのときまで繰り返していた。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
息もしない石となった二人が佇んでいる。いつからだっただろうか、その足元に腰を下ろしていた。
魔族と妖精族、かつてはいがみ合った二人が、並んで。
セレスは黙っている。膝を抱え深海みたいに薄暗い青をうつむかせながら。反対にレグルスは上を仰いだ。間接照明の灯りを拾った赤を更に鮮やかに、そして溢れるものがこぼれ落ちないように、と。
「だから泣くなって、セレス。」
上を向いたまま呟く。
「泣いてるのはあなたでしょ、レグルス。」
隣からの鼻声が返す。いいわよ、見てないから、と彼女は言う。
何て不器用な気遣いだろうと思ってしまう。自分も言えたタチではないが、と。
ふぅ、と息をこぼした。こんな疲れる身の上話は初めてだった。そして今へばっているようでは話にならないとも思った。
これからもっと痛く、容赦のない濁流の中へと身を投じなければならない。もうその覚悟を決めてしまったのだからと。
隣の彼女を見た。おそらく、いや間違いなく赤く腫れているであろう瞼を長い髪で隠していやがる。才女を気取っているが案外馬鹿なのか、と思ってしまう。
ここから先は…
レグルスは口を開いた。自らもまた顔を下ろせないまま。
「スピカから聞いたものだけではない。」
一度目の再会のとき、アイツから引きずり出した、真実。
わずかに彼女の頭が動いたのを感じた。ちらりと覗いた瞼、やっぱり腫れているではないかと視線だけを落とす。
それでもここを動こうとはしない。彼女もまたわかっているのだと感じる。
俺たちは仲間になった。共に同じ敵と戦っていく。いつかこの世界を去って行くのは知っているし、そうでなければならないとも思う。彼女の居るべき場所、そして寄り添い生きる者も本来は違うのだ、と。
だけど今は今。長さなど関係ない。それぞれの目的を成し遂げる為に痛みを伴ってでも知らなければならない、わかり合わなければならない。
少々…いや、だいぶ不器用でありながらもやたら頭の発達した彼女はきっと知っているのだろう。そうする意味が彼女にもあるのだろう。お互いの為になるということも、また。
今ではそこへ豊かな感情がプラスされている、それだけは胸の痛むところだが。
「その饅頭みたいな瞼なら後で冷やしてやる。」
言うと、む、と見上げるセレス。その顔は憮然としている。本格的に饅頭と化している。笑ってしまう。
レグルスはお構いなしとばかりに見下ろした。自身の目の痺れが静まった頃を見計らっていた。我ながらずるいとは思いつつも。
もう少し、付き合ってくれるか?
不器用同士、よく似ていると実感してしまう。今では生意気な妹にさえ見える、彼女に告げた。




