21.唯一〜Only〜
ーー空気が変わる瞬間。
湿った海風はじっとりと纏わり付いて冷たさを増す。それはきっとフルフェイスのヘルメットとボディスーツに身を包んだ彼女にも感じ取ることができたのではないか。風を切り走っているならなおのこと。
海を一望できる高台の駐車場。速度を緩めた真っ赤なバイクがそこへ滑り込んだ。降り立った彼女がヘルメットを外した。
風に吹き付けられた長い黒髪が宙に散らばって泳ぐ。漆黒の瞳が眼下へと向く。荒れた海を黒く映し出す。
おもむろにシートを開いてそこへ両手を差し入れる。傷付かないよう、大切に持ってきたものを取り出してまた閉じた。
バン!と荒々しい音が鳴り響く。ガサツと称される彼女らしいと言える音。
遠い水平線を一瞥したメイサは足早に歩き出し、高台を下った。その颯爽とした姿に近くを通るほとんどの者が目を奪われていく。
大半が男、おそらくは見事なプロポーションに魅入っているのだろう。
しかし彼女はそんな彼らには一瞥もくれないまま砂浜へと歩いていく。並ぶ水上オートバイの一つに素早く身を滑らせると、名残惜しげな男たちを置いて発進させた。
一連の流れは実に早く、そしてスマートだ。沖へ走り去ってなお、動きを止めて見ている者の多さにも頷ける程。しかし今の彼女にはきっと目に映ることさえ、ない。
黒の毛束を尻尾のようになびかせて進んで行く。目指す“場所”が徐々にその姿を拡大させていく。
人気のない、小さな島。緑さえ失った焼け野原に漂う焦げた匂い。そこへメイサの機体が止まる。
降り立った彼女はまた歩き出した。迷いのない足取りで、真っ直ぐと。
やがて現れたものが彼女の足を止めた。建物の土台だけが群れを成している。集落と見られる場所の跡地だった。
ーー見つけたよ。
足元を見下ろす彼女が呟いた。薄い笑みを浮かべながら。
「ハイビスケット、だっけ?アンタが好きだった花、あれやっぱフィジカルにしかないって。だから似たやつをもらってきた。」
これでいいでしょ、すごい似てるから。
そう言いながら抱えていた包みを開く。目覚めるような真っ赤な花がそこに現れる。
メイサは見つめた。いつもより輝きの薄い漆黒の瞳で、焦げた土台を。
誰もいない地、そこでいくつかの言葉をこぼしていく。
アンタは何も言ってこなかったけど、姉弟になったのはこれが二度目だって、知ってる?
アンタさ、一度目は他人に命を奪われて…私、やり直したいって強く願ったの。
だからまた姉弟として生まれてこれたんじゃないかな。
なのにさ、今度は…
「自爆とか、ないわ…マジで。」
かすれる細い笑い混じりの声が風に溶けていく。これからたむけるはずだったであろう花束が、力の抜けた指からすり抜ける。
ぱさ、と乾いた音が鳴る。
膝から崩れた彼女は自らの肩を抱いた。それが精一杯であるかのように背中を丸め、震えながら。
そこでまた、力なくこぼしていく。
わかってるよ。過去はもう変えられないし、触れられない。
前世だろうが今世だろうが同じこと。無いものは、無い、それだけ。
もう、本当に、これが最後…
声を詰まらせてやっと言葉にしている彼女に強い潮風に乗った砂粒が無情に打ち付ける。
赤い花弁が一枚、風に奪われた。はっ、と息を飲んでメイサは振り返った。
「永遠…」
手を伸ばす彼女をよそに水面に乗った花弁は揺らぎながら流されていった。
遠く遠く、手の届かない場所へ。
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温かい紅茶と程よい量のスコーンでお腹も満たされた。だけどまだ向かう場所がある。
セレスは黙って付いていく。あと二人会ってほしい人がいる、レグルスがそう言ったのだ。
彼は先程、執事の一人から受け取った鍵を握っている。一見するととても鍵には見えない、針のようなヘアピンのような頼りない形状のものを。
元の道順を辿って礼拝堂を通り過ぎたところにそれはあった。一度目にしていたはずだが特に気にも留めなかったのはきっとレグルスとの喧嘩に夢中になっていたからだろう。
隠し扉というのだろうか、等身大の大きな絵画そのものが扉となっていたことをセレスはこのとき初めて知った。
レグルスは鋭い目を更に細めて額縁を撫で始めた。鍵の形状から察するに鍵穴も相当小さいのだろうと予想がつく。まるでピッキングをしている泥棒のようだ、などと思いつつ、神経を消耗しそうなその作業を固唾を飲んで見守る。
どれくらい経った頃だろうか、ようやくカチャ、と小さな音が鳴った。額を湿らせたレグルスがふーっと長いため息を漏らした。
セレスも同じように息を吐き出した。実行している彼には申し訳ないが、見守る方も結構疲れるものだと思ってしまう。
そしてやっと開かれた絵画、もとい扉。窓は見当たらないがわずかな間接照明の灯りのおかげで中がそれ程広くないことが見て取れた。
質素な創りの室内、だけど綺麗に磨かれたその場所に埃っぽさはまるで感じられない。
レグルスと二人、奥へ進んだところで立ち止まった。一瞬で意識の全てを奪われた。
わぁ…。
目の前の光景にセレスは思わずこぼした。
そこにあったのは男女が寄り添う姿の石像。がっしりとした体格の男性にすらりと華奢な女性。歳は20代半ばから後半、といったところだろうか。
グレーの単色であっても品格の伝わる衣装が高貴な者であると示しているよう。そして同時に目に付いた不可思議な点。
気付いたセレスは眉を潜め、目を凝らす。
しがみ付く女性を男性の方が守ろうとしているように見える。浮き上がった服の裾と乱れた髪はやたらと躍動的だと思って見上げた。
ぞく、と一瞬のうちに背筋が凍った。思わず後ずさりした。二つ程、気付いてしまった。
両者共に、驚きと怯えに満ちた表情をこちらに向けていること、それから二人の身体に巻き付いている、茨。
特に後者には見覚えがあった。まだ記憶に新しい、そう“彼女”の…
ーーアストラル王・アルタイル様と、王妃・ベガ様だーー
レグルスの声が、言った。セレスは瞬時に息を飲んだ。
ここへ来たばかりの頃、初めに聞いたメイサの言葉が蘇った。
ーーアストラルを治めているのは21歳の姫君…ーー
改めて見つめた。そういうことだったの、と思いながら。
若き王女スピカがたった一人でアストラルを治めければならなかった理由…
まさか、亡くなっていたなんて。
「よく…できているのね。」
でも…とセレスは呟く。疑問に思うことがあった。
一体何故、こんな姿の石像を作ったのだろう、と。躍動感をつけることで王の勇姿を遺したのだろうか、そう考えていた。
だけど違った。到底推測の及ばない、思っても見なかった答えを隣の彼が言った。
「…16年前、お二人は石にされたんだ。」
ーールシフェルの手によって。
えっ!と思わず声を上げた。
「ほ、本物なの?」
見開いた目を隣へ向けると静かに頷くレグルスの姿。陰った表情。思いつめたような彼が言う。
「あの日はスピカの誕生式典だった。まだ7歳だった俺もあの場に居たんだ。親父が当時の親衛隊長としてこの王宮に仕えていたから…」
赤の瞳が上へ向く。石となった二人へ向けられているはずのそれは次第に色を変えていく。
ここではない遥か遠くを見ているように、悲しく。
彼の声が、続いた。
「式典が始まる前、王と王妃と幼いスピカが控え室に居たとき、それは起こった。」
そっと目を閉じるレグルス。いつの間にか固く握られていた彼の骨ばった拳。それが震えているのに気が付いた。
彼は言った。あまりにも重い、事実を。
…俺も、親父を失った。
「そんな…」
ただそれしか口にできなかった。なのに彼の横顔は静かだ。
感じるのはただ、揺らぎの見えない強い、意志。
「最後に見たのは俺の前に立ち塞がって必死に兄…ルシフェルを説得しようとする親父の後ろ姿。俺は無我夢中で立ち向かおうとしたけれど、奴の攻撃でノビちまった。目が覚めたときには全て終わってたんだ。ガキの俺にはどうしようもなかった。」
食いしばったレグルスの口元からきゅっ、と音が鳴る。歯ぎしりだとわかった。
こんなの…
セレスは口元を手で覆ってうつむいた。指先が震える。目の奥がじんわりと熱く、痛む。
だけど彼はもっと辛く、痛い。こんなのきっと思い出すだけで。
あれからお二人はずっとこの状態だ…
それでも彼は続ける。もういいよと言いたいけれどそうもいかないとわかっている。
私は知らなければならない。共に戦っていくのなら情報は必要なはず、と抑えられない涙を流しながら耳を傾ける。
「こんな狭いところで申し訳ない限りだけど、万が一に備えて隠し扉でカムフラージュされたこの部屋に安置させて頂いている。少なくとも破壊されれば二度と目覚めることはないだろうからな。ルシフェルの呪いさえ解ければ元に戻るはず…だからいつ目覚めてもいいように灯りは常に灯しているんだ。」
呪い……
その言葉が脳内で反響する。セレスは自らの中で重ねた。
目にしたばかりのあの光景を。
ねぇ、レグルス…
鼻をすすりながら切り出した。おそらくは間違いないであろう推測を、言った。
「スピカ様も、何かされたの?」
「え…」
目を見開いたレグルスが振り向く。驚いている。これは意外なことだったのか。だけど確かに見えたのだ。そして今も、はっきりと。
「彼女も、縛られているわよね?」
ーーこの、茨に。
少し間を置いて彼の問いかけが来た。
「セレス…アンタにも見えるのか?」
驚いた。彼の言葉に。
誰にでも見えるものではなかったのか、と。
それでも廊下で偶然会ったときから自分にははっきりと見えていたのだ。
彼女の身体を這いずるように巻き付いた薄暗い半透明の茨。王族は強い霊力を持っているとメイサから聞いていたが、少なくともそんな類ではないとわかる程、薄気味悪いものを肌で感じていた。
「まぁ、並み外れた妖力を持つアンタに見えないはずもないか。」
「今のところ、そんな自覚は全然ないんだけど…」
そうか、と呟いたレグルスは少し困ったように笑った。何かをかき消すみたいに乱暴な手つきで後頭部を掻いた。彼は続けた。
「あれは限られた者にしか見えない。呪いの出処であるガルシア一族、当事者であるスピカ、あとはアンタくらいか。」
「あの茨は、何?まさかいずれ彼女も…」
恐る恐る聞いてみる。あんな呪いをかけられてなお健気に微笑んでいた、スピカ。彼女に同じことなどあってはならないと。
ーーわからない。
レグルスは首を横に振る。ただ、と彼の沈んだ声が続ける。
「一つ言えるのは、いつ何時何をされるか知れないということだ。」
あの呪いで彼女の命は握られている。もしナイフで喉を突け、と命じられたらスピカはそうしてしまう。
逆らうことはできない、と彼は言う。
そして唯一の救いは、その呪いで意志までは支配できないということだ、と。
それで…
セレスは呟いた。思い出したことがあった。
「だから彼女は洗脳されないのね。カイトにあの茨は見えなかったもの…」
ああ、とレグルスが頷く。彼は言う。
「あれはまた別の呪いだ。奴の側近、ミンタカの仕業である可能性が高い。スピカは16年前の事件から今に至るまで、ただの一度もルシフェルには会っていないからな。」
「王宮が一丸となって彼女を守ってきた…ということね?」
ああ…
彼の声が弱く、消えかかる。あの違和感が再び訪れた。
暗く陰った目の色。それはついさっき三人で話したときに見たものと同じ…
レグルス…
どうも気になってならない。タイミングなど考えていても見つからない気がして問いかけようとした。そのとき…
「メイサが休暇を取っているのは…知ってるか?」
「えっ…」
う、うん。
意表を突かれておもわず口ごもる。すぐに嫌な汗の滲みを感じた。
脳裏に蘇る昨夜の彼女の言葉と、表情。まだ何も聞いていないのに何故だか虫が這うみたいに胸の奥がざわつく。
その予感は当たった。気のせいであってほしい、そんな思いも虚しく。
「アイツも、大切なものを奪われたんだ。」
「えっ…」
ドクン、という脈打ちと鈍い痛みが突き上げた。レグルスの放つ言葉、残酷な真実に息が詰まった。
「メイサの弟はルナティック・ヘブンの一員だ。二人とも養護施設で育ったと聞いている。アイツにとってはたった一人の家族だった。その弟が一週間程前に…」
自爆して、死んだそうだ。
「嘘…」
記憶が迫る。奥深くまでえぐられる。その痛みにセレスは言葉を失くした。呼吸すら、忘れた。
ーーたった一人の家族を失う気持ち、アンタにわかる?ーー
それは何度も繰り返し、反響を続ける。ふらつく足元を持ちこたえさせるだけで、精一杯。
だから…
ここにはいない彼女に問いかける。
だからあんなにミラのことを気にかけていたの?
同じように兄を奪われた彼女を…
ーー昨夜。
あの騒動の後、別れ際にメイサが言った。
ーー何かあったらレグルスに相談しな。これで本当の仲間なんだからさ。ーー
竹を割ったみたいな軽快な笑い声がその後に続いた。だけど何処か違和感があった。
声に伴っていない、表情。妙に寂しげであったと今ならはっきりと確信が持てる。今なら…
私…
セレスは顔を伏せた。小さく呟いた。自嘲的に。
「何も知らなかったのね…メイサのことも、あなたやスピカ様のことも…」
「まだ来たばかりのアンタが知らないのは当然だろう。」
だから泣くな、とレグルスは言う。困ったような顔で何処か不器用に。
昨夜と今日だけで何度か感じた。彼はまるで兄のようだと。そしてきっとみんなにとってもそんな存在なのだろう、と。
誰かと重ね合わせている訳でもない。事実、兄弟も姉妹もいない。だけど何だかわかるような気がした。
支え合って来たのだろう。自らも痛みを抱えてなお…そう思うだけで両の瞼が重くなる。ここまで感情的に、涙もろくさえ変貌した自分にも驚いてしまう。
ったく…
レグルスの苦笑混じりの声がした。
「セレスがこんなに泣き虫だとは思わなかったよ。」
「私だって…思わなかったわよ…」
しゃくり上げながら答えた。どうにかできるなら教えてほしい、そう思いながら。
「まだ、聞けるか?セレス。」
「…うん。」
そうか、と彼が言った。昨夜みたくまた頭を掻き回された。少し顔をしかめた。
「みんな、そうなんだ。」
彼が言った。それだけですぐ、わかった。
彼が指し示す【みんな】。その姿が次々と、鮮明に浮かんでくる。
「メイサは弟を、クー・シーは家族と仲間を…」
ミラのことは…もう聞いているか?
最後の問いにセレスは顔を上げた。
ーーうん。
そこから我を取り戻した。
ついに彼とこの話をするときが…そう思って身が引き締まる。もうここからは感情に任せてはいられない、と。
セレスは答えた。
できるだけ自然に、でもはっきりと。
「シャウラ…でしょう?あなたの従兄弟でもある…」
ああ、とレグルスが呟いた。やっぱり聞いてたか、と言う彼はさほど驚いてもいない様子。
ほとんど全てを話しているというメイサの打ち明けに救われたと思った。
その“ほとんど”が何処までなのかは、これから演出しなければならないが。
ミラの兄でありレグルスの従兄弟である、彼。対面すらしたことのないその人については気がかりなことがある。
ーーシャウラ。
この場にいない、話したことすらない彼へ胸の内で呼びかける。
今、ここにはいくつもの【秘密】が存在する。それはきっと絶妙なバランスを保ち、まさにギリギリの危うさで成り立っている。
そしていつしか自分自身もその一部となった。
まるでそんな【秘密】を具現化したような存在…
鍵を握っているのはきっとあなたよ、と。
セレスは口を開いた。迂闊なことは言えないと、慎重に、注意を凝らしながら…
レグルス、
まず一番最初に知りたいこと。それを彼へぶつけた。
「あなたは彼をどう思っているの?やっぱり、敵だと思うの?」
問われたレグルスの顔が歪んだ。動揺を示すような形に。
緊迫した空気が占めた。窓さえない密室の中を、息苦しく。
俺は…
彼の薄い唇が動いた。一足遅れたように聞こえた言葉に、セレスは目を見張った。
望んでいたともそうでないとも言えない、ただ意外だった言葉。
ーーシャウラは、今ルナティック・ヘブンに存在する唯一の希望だと、俺は思っているーー
戸惑いがちに始まった彼の声が、それでもはっきりと、言ったのだ。




