18.希望〜Hope〜
こんな時間になっちまったか。
トレーニングルームの掛け時計を見上げて彼は呟く。こんな時間と呼ぶに相応しい、時刻は12時を迎えようとしている。
手早くバーベルを解体して片付ける。いつものタンクトップとハーフパンツの姿、首からタオルを下げている。
照明を落としてドアを開けるとちょうど誰かが横切るところだった。気配に気付いて振り向いたその人と彼との視線がぶつかった。
マラカイト……!
廊下の若い男が声を上げた。突然呼ばれたマラカイトが目を丸くする。
「お、おう。誰だっけ?お前?」
困惑した彼の言葉が示している。覚えがない、話したこともない相手であることを。
はっ、と我に返ったような男が強張った顔を無理矢理動かした。不自然な笑顔。しかし泳ぐ焦点はまるで目を合わせることを拒んでいるかのよう。
「い、いや、何でもない。お疲れ」
「……お疲れさん」
そそくさと足早に去っていく。その後ろ姿を見送りながらマラカイトは何だぁ?と呟く。
訝しげな表情を浮かべながらも彼は戸を締めて廊下を歩き出した。
悶々とした表情。彼は薄々気付いているのかも知れない。
近頃、自分に対する周りの視線が色を変えたことに。
いくらも歩いていないうちに彼は足を止めた。速度速く、向かい側から来る姿に目を凝らした。
……!!
彼はすぐに息を飲んだ。それと同時に走り出した。
歩いてくるのは幹部・ミンタカ。その彼の腕の中で誰かがぐったりと身を預けている。
肩にかけられたジャケットの全面から包帯の巻かれた白い素肌が覗いている。胴の方へ垂れた顔を銀の髪が覆っている。
「若ッ!!」
駆け付けたマラカイトはミンタカには目もくれず、迷わず腕の中を覗き込む。長めな髪の間からわずかに見える白い顔が更に血の気を失くしている。伴うように彼のそれも蒼白していく。
「一体、何が……」
「マラカイトか。悪いが先を急ぐ。道を開けてくれたまえ。」
枯れた声を受けてマラカイトはやっと顔を上げた。早足で過ぎ去ろうとするミンタカに歩調を合わせて付いていく。
「ミンタカ様!若に何があったんですか?」
問われた彼がちら、とそちらを見下ろした。すぐに前へ向き直って言った。
「……野犬に襲われたのだよ。止血はしてあるがかなり衰弱しておられる。急速にルシフェル様の力をお借りせねば……」
「そんな……」
マラカイトの身体が置いて行かれる。歩調が力なく緩まっていく。
ついに足が止まった。そこで彼は叫んだ。力一杯。
「ミンタカ様!!」
「何だね!?」
苛立ちの示す荒々しい声が返る。遠く離れたミンタカが眉間に皺を刻んでいる。
しかしマラカイトは変わらなかった。真っ直ぐな瞳、揺るがない大音量で彼は言った。
「俺に出来ることがあったら何でも言って下さい!若は優しいから抵抗しなかったんでしょう?どうか助けて下さい、死なせないで下さい!」
お願いします!!そう叫んで頭を下げる。深々と、床へ届きそうな程。
ミンタカは目を見張っていた。やがて渋みのあるその顔に優しげな笑みが浮かんだ。
「死なせる訳がなかろう、このお方だけは」
さっと踵を返したミンタカは再び先を急いだ。歩きながら腕の中の軽い重量の人を見つめた。
マラカイト……
呟くような静けさで彼は言った。細めた目元に皺を作りながら。
「可愛げのある青年ではないですか。貴方様の腕となるに相応しい」
ねぇ、若。
返事をしない彼に微笑みを降らせた。
トントン、とノックの音が響く。
ルシフェル様……!
ミンタカの声が呼んだ。室内の彼が振り返った。
「お休みのところ申し訳ございません。緊急なので開けてよろしいでしょうか?」
聞き慣れた声にルシフェルはいいよ、と返す。それと同時に端へ寄った。
手にしていた小さなものをそっと本棚の隙間へ。
ドアの方へ歩き出そうとしたとき、ちょうどそこが開け放たれた。勢いよく駆け込んだミンタカと目前で鉢合わせた。
その腕の中へ視線を落としたルシフェルの表情が止まった。
何が起きたのかわからない様子。抱えるミンタカの言葉がそれを解き明かす。
「ルシフェル様、若がお怪我を……!
私が手にかけたバーダンとハダルをかばおうとして……傷は背中です」
……!
ひゅっ、という音がした。
一見表情の変わらないように見えるルシフェルの瞳の瞳孔だけが小さく縮んでいく。
「若に怪我を負わせてしまったのは他でもない私です……如何様にもご処分下さい」
息を切らしたミンタカが覚悟を決めたように目を伏せる。それを前にしてなお、ルシフェルの表情は変わらない。
「……そこのベッドに寝かせておいてくれ。もう席を外していいよ」
「はっ!」
言われるがまま、ミンタカはシャウラの身体をベッドの上へうつ伏せに寝かせた。すぐに治癒にとりかかれるよう、自らがかけたジャケットをそっと外した。
露わになる滑らかな肌。細い胴に巻かれた包帯に抑えきれない血液が滲んでいる。
見下ろすミンタカがぐっ、と唇を噛み締めた。その姿勢のまま彼は言った。
「若、ルシフェル様……誠に申し訳ございません。」
弱々しい息を漏らすシャウラの横向きの顔を食い入るように見ている。沈黙を守っていたルシフェルがやっと口を開いた。
「安心しろ、シャウラは元通りに治癒するから。お前を処分するつもりもない」
世話をかけたね、ミンタカ。
穏やかな声だった。
ルシフェル様……そう呟きながらミンタカが顔を上げた。そして止まった。
意識の全てを奪われたみたいに目の前の光景に見入っていた。恍惚とした表情、呼吸さえ忘れて。
彼をそうさせたのはきっと怖いくらいに幻想的な光景だった。
窓の月明かりに照らされて青白く際立つ頭髪。光を集めた宝石のような目。何処か寂しげな、微笑。
「また後程参ります、ルシフェル様」
やがて彼は深々と一礼をして部屋を後にした。残されたのはよく似た二人だけ。
ルシフェルが音もなくベッドへと歩み出した。立ち止まって見下ろした。
……う……っ。
「シャウラ?」
痛みが響いたのだろう、ベッドの上のシャウラが一瞬苦痛に顔をしかめた。
ルシフェルの顔からわずかに余裕の色が抜け落ちた。冷え切った息子の手を彼は握った。
「馬鹿なことを……自分では治癒できないというのに」
それからルシフェルは背中の包帯を解いた。ぱっくりと口を開けた痛々しい傷が現れる。
右手は握ったまま、空いた左手でそこへ触れた。青白い光が拡大し始めた。
それは顔の片側を覆った前髪を透かし、奥にある色を照らし出した。
紫。だけどそれは青みの光を受けた為のもの。
左側のアメジスト色とは異なる深さ、本来は、赤。
ゆっくりと規則的な息遣いが聞こえた。シャウラの横顔から苦痛が遠ざかり、安らぎが満ちていく。
彼はいつの間にか眠りに落ちた。ルシフェルはほっ、と小さく息をこぼした。
傷が完全に塞がったのを見届けたルシフェルは無防備な息子の背中を布団で柔らかく覆った。そしておもむろにベッドの淵へと腰を下ろした。
彼自身のものより鮮やかで艶のある髪を撫でた。何か思い返し、重ね合わせるみたいに。
「お前にもいつかわかる。それは嘘じゃないんだ、シャウラ」
父親の彼は呟く。ぽつ、ぽつ、と雫のようにこぼしていく。
ーー誰よりも賢くて、強い……
お前のことを忘れた日など一日だってなかった。
そんなお前だからこそ、俺は未来を託そうと決めていたんだ。
ずっと、ずっと、遠い場所で、
ーー遠い、昔からーー
「早く目を覚ませ、そのときお前は無敵となる。恐ることなど何もない。今度こそ、な」
すっかり一人の親の顔になっていることに自ら気付いたのだろうか。
息子を見つめたままのルシフェルがくすぐったそうに、笑った。




