17.弱者〜The weak〜
ーー同日の深夜。
眩い星明かりを携えた空さえ覆う鬱蒼と陰った木々の間にそれはあった。
上向きの湾曲した角、カラスのような翼、二つの特徴的な形と中央から照らす灯りがその場所に。
なぁ、ハダル…
片方の声がした。
「やっぱり考え過ぎじゃねぇのか?」
角の方が呆れたような薄ら笑いを浮かべる。対してハダルと呼ばれた翼の方は強張った顔を地面に向けている。
異なる表情の両者には共通するものがあった。額をじっとりと濡らす脂ぎった汗。それが示すものは、緊張。
「…やっぱりおかしいだろ、アイツ。」
「マラカイト、か?」
細々と小声の会話が交わされる。辺りをしきりに気にしているみたいに目を泳がせながら。
「あれ程混じり気のない妖力、俺は今まで感じたことがない。アイツやっぱり…」
「おい、やめろよ。」
角の男が言葉を遮る。茶化すような笑みを浮かべている。
「確かにアイツは並の野郎じゃないかも知れないけどよ、そりゃあ多分記憶を失くす前の経験のせいじゃねぇか?」
何かヤバイことでもやってたんだろうよ、と彼は言う。しかしやがて動きを封じられた。
違う…!!
もう片方の甲高い叫びによって。
「お前も気付いてるんだろ、バーダン。アイツは、マラカイトは…」
「や、やめろ!言うんじゃねぇ!」
焦点を小刻みに揺らす彼を前にバーダンと呼ばれた角の方の顔からも次第に余裕が失せていく。
しかしハダルはついに言ってしまった。おそらくは恐れていた、それを。
アイツは…【純血】だ。
せわしなく騒ぐ葉の音がやかましく、拡大していく二人の不安を示しているよう。
あり得ねぇだろ…
しばらくの沈黙の後、バーダンの方がこぼした。
「純血の妖精族がここに居るなんて、あるはずが…」
「そうだ、あり得ない。だからヤバイって言ってんだよ…!」
すっかり恐怖におかされたハダルの顔。平静を保とうと努めるバーダンの方ももはや限界のようだ。
何かとてつもない絡繰に気付いてしまった、そんな様子でうろたえている。
強き者だけが占める世界へ…
片方がこぼした。もはや当然のことと認識していたであろうこの組織の“正義”を。
「あの方の説く正義は、強者。そして今、何よりもそれに相応しい奴がここにいる。アイツは…【勇者マラカイト】なんじゃないか?」
「嘘だろ、オイ。いくら何でもそんな…」
はは、と乾いた笑いが上がる。固い笑みを浮かべるバーダンの肩が突如強く握られた。
逃げるぞ!
掴んだハダルが叫んだ。涙目になっていた。
「強い者だけで世界を創ろうとしているあの方…ルシフェル様の理想郷に俺らが居ると思うか?あの方が消し去ろうとしているのはきっとフィジカルだけじゃない!ここにいちゃいけねぇんだ!」
俺らは捨て駒なんだよッ!
バーダンの呆然とした顔がガクガクを揺すられて激しく前後する。そんな馬鹿な、と彼は呟く。うわ言のようなものが続く。
「ここは最強の組織、ルナティック・ヘブンだ。一員である俺らもいずれは最強の存在に…」
だから!
悲鳴のような声が被さった。
「最強なら最初から選ばれてるんじゃねぇか!!」
バサ!と木々が大きく揺れた。掴み合う二人が同時に飛び上がった。
上空へ遠くなっていく小さな影。鳥…
はぁーっ、と心底安堵したようなため息が落ちた、そのときだった。
ーー話は済んだか?ハダル、バーダン。
……!!
突如、沸き上がった響きに二人は息を詰まらせる。覚えのあるものなのか、瞬きさえ忘れて固まっている。滝のような汗が吹き出す。全身が小刻みに震えていく。
しかしそれは迫っていた。すぐ近くまで、容赦もなく。ハダルの手にしたランタンの灯りが映し出した。
ミンタカ様…!!
現れた姿は灯りを受けて大きな影を後方の木へ伸ばしている。がっしりと広い肩幅、下向きの立派な角まではっきりと、不気味に。
ルシフェルの側近であり魔族のミンタカ。この組織で彼を知らない者などいない。
卓越した魔力、黄色の双眼は暗闇でもわずかな光を拾ってはっきりとものが判別できると噂されている。一切の灯りも手にせずにここまで来たことは、噂が真実であることを物語っている。
「貴様らに聞きたいことがある。」
震え上がる二人へ、枯れた低い声が言った。
「近頃、組織の中で妙な噂が広がっているようでな…おそらくそれを耳にしたのだろう、今日の明け方二人の腰抜けが脱走したのだよ。」
まぁ、もちろん食い止めたのだがね。
淡々と続いていく言葉。冷たい黄色を下へ落としながら、顔色一つ変えず。
見下ろされる二人はもはや立っていることもままならないようだった。先にハダルがヘナヘナと崩れて膝を着いた。彼の肩を支えているように見えるバーダンの足元も今にも折れそうにぶれていた。
二人の表情は確信を示していた。きっと、ミンタカが口にした“食い止めた”の意味に対して。もう、知っているように。
お構いなしとばかりにミンタカは続ける。
「私はその噂の出処が貴様らではないかと踏んでいる。」
どうなんだね、と問う。ついにバーダンまでもが地に崩れる。
あ…あ…
そ…それ、は……
声にもならず狼狽する二人の顔は汗と涙でぐしょぐしょに濡れている。
黙って見下ろしていたミンタカが目を伏せた。深いため息をついた後に彼は切り出した。静かに。
「貴様らが答えないのであれば、私は私の考えを信じるとしよう。」
待って下さい!!
やっと、声が上がった。ハダルだった。
「俺たちはそんなつもりでは…!」
地に這いつくばり震える手を伸ばしていた。しかし変わらなかった。
凍り付くような表情は、変えられなかった。
ヴンッ…
鈍く不穏な音がした。ギラリと光るものが二人の目前に迫った。
ハダルの手元のランタンが転がった。のけぞった彼自身に踏み潰されてひしゃげた。そこから炎が上がった。
ひぃっ…!!
爪先を焼かれそうになったハダルが何とも情けない悲鳴を上げた。ミンタカはゆっくりとそこへ歩み寄る。手にしたものを真っ直ぐ突き出しながら。
「安心しろ。貴様らの無様な姿が人目に晒されることはない。こんな腑抜けでも一応は仲間だ。貴様らは勇敢な戦士であった、そういう事にしておいてやる。」
「お、俺たちを…殺すのですか!?」
「嫌だ!死にたくない!嫌だ…!!」
尻で後ずさりする二人に向けられる剣先。持ち主のその人がわずかな笑みをこぼした。
死ぬ…か。
呟きのような声が言った。
「そうか、貴様らにはそう思えてしまうのだな。」
「え…」
ミンタカが足を止めた。剣先がぴたりとハダルの顎で、止まった。
「教えてやろう。弱者にとって死とは救いなのだよ。魂だけとなり神の御側で天界の一部となる。これ程の安らぎが他にあるだろうか?世界を創るのは強き者の役目。貴様らは安心して我々に任せておけば良いのだ。」
「最初からこうするつもりだったんですね?それなら何故…」
何故、仲間なんかに…!
やけになったようなバーダンが飛沫を散らせながら叫ぶ。
剣を突き付けられたハダルは青ざめ、完全に静止している。その顎から首へと赤の筋が細く伝っていく。
何を言っている。
ミンタカが言った。恐ろしく穏やかな声だった。
「忘れたのか?貴様らは元々、弱者でありながらこの世の役に立ちたいという志を持った素晴らしい若者だったではないか。それをくんでやらぬ程、我々も鬼ではないのだよ。とうとう己の弱さに潰されてしまったのは残念だが、確かにあった志には誇りを持っていい。」
違う…違う…
俺らはただ、強く……
どちらのものともわからない声が呻く。そこへミンタカは微笑みを落とす。
声と同じ、穏やかなものを。
「汚れたフィジカルに転生などさせない…安心して委ねなさい。」
宙で止まっていた剣が音もなく、前進した。
あ……っ……
一瞬だった。あまりの速さにバーダンが目を見開く。
喉を貫かれたハダルが数回痙攣した後、がくりと首をもたげた。剣が引き抜かれるとその身体が燃える地にめり込んだ。
繊維と肉の焼ける匂いが広がっていく。
「ハダル…う、嘘だろ…」
見慣れた姿が変わり果てていく過程にバーダンは呆然を見入った。今度は彼の方へ、剣先が向いた。それはたった今奪った命の軌跡で濡れている。
ふと、ミンタカが目を閉じた。ふぅ、と息を吐き出して再び開く頃、彼は言った。
ーー若。
目の前のものではない名を呼ぶ。彼は続ける。
「いるのでしょう?余計なことは考えないで下さいね。そこで見ていて下さい。哀れな弱者の末路…貴方様も乗り越えていかねばならないのですから。」
「シ…シャウラ…様?」
上げられた顔。複雑な色をしたバーダンのそれは何の意味を持つのか。
恐怖なのか、それとも…
合図の一つもなしに剣先が彼へと迫った。叫び声さえ上がる前に、それは起こった。
ミンタカが息を飲んだ。宙を舞う球状の紅、倒されたバーダンの身体、そして覆い被さる黒の影。
「若…!!」
血に濡れた剣はミンタカの手の中で消えた。彼はそのまま身をかがめた。
背中を切り裂かれた細い身体を抱き起こす。そこからシャウラのかすれた声が言う。
ごめん…
ミンタカの腕を拒んで上体を上げた。青白い顔がバーダンへと向いた。
「彼を助けられなかった。もっと早く、来ていれば…」
その言葉を受けたミンタカの顔が悲壮に歪んだ。彼は叫んだ。先程までの落ち着き払った態度など何処かへ行ってしまったように。
「若、何故このようなことを…!それに何故ここが?」
その問いかけに答えが返った。
聞いた…からだよ。
はっ、と息を飲むミンタカ。向かい合うようにシャウラが振り返った。
鋭い目つきになっていた。
「何故と言いたいのはこっちだよ、ミンタカ。何故、殺す必要がある?」
彼は言う。傍で燃えているハダルの亡骸に視線を落とす。
…若は、優し過ぎるのですよ。
困ったように顔を歪めたミンタカが口を開く。いいですか?と傷付いた彼へ諭す。
「この者は今、救われたのです。例えその過程が残酷に思えても、最終的には救いとなるのですよ。」
苦痛に息を切らしたシャウラがかぶりを振る。わからない、そう言いたげに。ミンタカはそれを察したようだった。
「若にも必ずわかるときが来ます。」
「また、それを言うのか…」
シャウラの奥歯がギリ、と鳴った。弱りゆく中で強く握られた拳。
やがて鋭い眼光が目の前の男を睨んだ。せきを切ったように彼は叫んだ。
だったら僕を殺せ!!
ミンタカが呆然と固まる。しかしシャウラの持つものは変わらない。
「出来るはずだよね?何の能力も持たない僕は紛れもなく弱者のはずだ。」
痛みすら忘れたように落ち着き払った表情。見上げる瞳に恐れは見えない。
硬直していたミンタカがやがて解き放たれたように息を吐いた。困惑気味の微笑が浮かんだ。
「…恐ろしいことを言うお方だ。貴方様を殺す訳がないでしょう?」
そう言って中腰の彼の横をすり抜けた。右手から生まれたあの剣を手にしながら。
シャウラは息を飲んで振り返った。
彼の視線の先にいるバーダンは、全身を地に伏せている。あまりの恐怖に気を失ってしまったのか。
「待て、ミンタカ…!」
傷付いた身体を這わせ、無我夢中ですがりつく。そこへ衝撃が降りた。
「若、ご無礼をお許し下さい。」
……っ…!
腹部に肘を受けたシャウラの身体が傾いでいく。木の葉が降りるみたいに軽く、倒れゆく彼をミンタカは腕で受け止める。
壊れものを扱うみたいに、大事そうに地に横たえた。
貴方様を、殺す?
すぐに立ち上がって歩いた。その途中で彼は呟いた。
ーー馬鹿を言わないで下さい。
若は、我々の希望なのですよ?




