8.距離〜Distance〜
規則的な3回のノックの音にはぁい、と答えた。ドアを開くとふわりと漂う香りが鼻先をくすぐる。花のものと思われるそれはジャスミンに似ていた。
視線を落とす伊津美の視界に薄桃色の波が入り込んだ。
「良かった、伊津美さん起きてたぁ」
ぱぁっと満開の笑顔を咲かせる少女。柔らかな頬の色は昨日のものとは違う、血色の良い桜色だ。
その愛くるしさに伊津美の頬も同じ色調に染まっていく。安堵で目尻が緩まるのがわかった。
「行こっか、朝ごはん。」
そう言ってまだ冷たい手を差し出した。嬉しそうに笑うミラは高く腕を伸ばしてそれを握り返す。子どもらしくしっとりとした温かな手だった。
おはよう、伊津美さん!
ミラの後ろからもう一つ声がした。そちらに視線を移す前に同じ声色があーーっ!と大きく叫んだ。
何事かと目を見張っていると彼が勢いよく飛んできてあっという間に懐へ潜り込んだ。
「いいなぁ、僕も僕もーっ!」
裾にしがみついたクー・シーが物欲しげな顔で見上げる。伊津美はごくりと喉を鳴らした。
両手に花。本来のニュアンスとは違うがそんな言葉が脳裏に浮かんでしまった。だらしなくにやけそうになる表情筋をやっと立て直しながら、芝生の生い茂ったようなゴワゴワとした感触の手を握り返した。
楽しそうに繋いだ手をブンブン振りながら飛ぶクー・シー。肩が抜けそうなその勢いに伊津美は苦笑する。反対側ではミラがふふ、とおしとやかな笑みをこぼしながら見上げている。
平和。今度はそんな言葉が浮かんでしまう。自身の持つ“慣れ”の能力にはつくづく呆れてしまうと伊津美は思った。
新しい部屋。充実した本棚。
いつの間にかとってつけたみたいに宇宙関連の本が増量されていた。メイサが気を利かせたのだろう。
クローゼットにはここに来て初めて身につけた服とよく似た類のシンプルなディティールばかりが揃っていた。これも彼女の計らいだろう。
そんな部屋の右隣はミラの部屋、左隣はメイサの部屋だそうだ。ここはいわゆる女子練であり、クー・シーの部屋は反対側の練になるという。
幼い彼はこれから毎朝ミラを迎えに来るそうだ。伊津美もそれに賛成した。理由は決まっている。
一日でも早くミラの心の傷が癒えるように…そうみんなもわかっていることだろう。
メイサは気が向いたら、と答えた。マイペースだがいつも裏で事を運びたがる彼女らしい返答だと思った。
伊津美がミラを支える気になった、秘密を守る決意を固めた、それだけで彼女は満足なのだろう。
「メイサー!朝ごはん行こうよーっ!」
物音一つ返って来ない彼女の部屋のドアをクー・シーが叩いている。彼はついに痺れを切らしてそれを開け放つ。
「メイサってば…あれ、寝てる。」
クー・シーがぽつりとこぼす。伊津美も興味本位で中を覗き込む。
ミノムシみたいな布団の塊がうーん、と気だるくぼやきながら寝返りを打った。隙間からはくしゃくしゃに乱れた黒髪がはみ出している。起き上がる意欲はどうやらないようだ。
ひとしきり頭を使った後は何も考えなくなるタイプ、美咲と同じ電池式ね。伊津美は一人納得の頷きをした。
もぉ、先に行くからね!と言い捨てるクー・シーは少し不満気だ。彼は協調性を重んじる性格らしい。集団の中では間違いなくムードメーカーに位置するだろう。
仕方ないわ。
ミラの優しげな声が言う。
「昨日はずっと私の看病をしてくれていたんだもの。」
「そっか…そうだよね!」
気遣いに満ちた彼女の言葉を耳にしたクー・シーの顔に笑顔が戻った。彼は明るい調子で言った。
「それにしてもミラちゃん、思ったより元気そうで良かったよ。今日はね、久しぶりの朝ごはんでも食べやすいようにミラちゃん専用のメニューをオーダーしてあるんだよ!」
そう言って得意気に胸を張る。向かい合うミラは小さな手で口元を覆い、目を細める。
「ありがとう、クー・シー。嬉しいわ。」
「おっ、おう!任せろよ!」
急に男らしい口調になったクー・シーを見た伊津美も思わず吹き出しそうになる。
誰かさんの真似かしら。頬はしっかり赤くなっているのに。
いじらしいその振る舞いからいろいろと想像をしてしまった。
考察を続けるうちにみんなの特色がだんだんわかってきた。未だにわからないのはそう、“彼”くらいだった。
ーー冬にしては暖かい。室内でもわかる。今日は春を思わせる陽気なのだろう、と。
だけど油断できないのが晩冬だ。忘れた頃に凄まじい吹雪さえ起こす、動きの掴めない不安定な時期。
のどかな笑い声が遠のいていく。伊津美は一人うつむいた。思い出さずにはいられないことがあった。
この状況を見る限り、悪いことが起こる気配なんて微塵も感じられない。だけどこうしている今も確かに起こっているはずなのだ。
争いも、不穏な動きも何処かで…いや、すでに近付いてきているのかも知れない。だからこそ昨夜、それは現れたのではないか。
伊津美さん?
呼ぶ声にやっと気付いた。伊津美は我に返ってそちらを見た。
揃って心配そうな顔をしたクー・シーとミラが見上げている。どうしたの?と問いかけてくる。
ううん、と伊津美は首を横に振った。
「何でもないわ。」
笑顔で何とかそう答えた。そっと目を閉じて疑惑が遠ざかることを願った。
幸せを感じた次の瞬間、それが壊れるところを想像してしまう。
大人と、限りなく大人に近付いた者の悪い癖なのか。それとも経験のある者だからこそなのか。もし後者であるならば…
ちらりと視線を落とした。
伊津美の言葉を素直に信じて、もう何も気にしていない様子のクー・シー。対してまだ気にかけている様で視線を送ってくるミラ。
伊津美が大丈夫、と目で念を押すと、ミラの顔に笑顔が戻る。やっぱり彼女がわかっているようだ。
もし後者であるならば。
伊津美はまた胸の内で繰り返す。それはもう確信に近いものだった。
ミラには見抜かれているのだろう。彼女は一人前の【女】である上に、命より大切なものがその手からすり抜けてしまったのだから。
他人事などとはとても思えなかった。全く同じではなくとも大切なものと引き離された、その痛みを抱える者として。
触れられる感覚があった。伊津美はそちらを見下ろす。
緩んだ指先を目一杯伸ばしたミラの手が掴んでいる。こちらを見上げて微笑んでいる。
伊津美は眉を下げて笑った。むしろ自分の方が寄り添われているのだと気付くと、どうしても苦々しさが混じってしまった。
両側の暖かい手をしっかりと握って歩いていた。もう何度か踏みしめて覚えている道のりだった。
突き当たりの角を曲ろうとしたとき、はた、と陰が立ち塞がった。見上げるとその輪郭、色が鮮明になっていく。
伊津美は息を飲んだ。自然と唇が開いた。
「あなた…」
細い身体つき、青白い肌、下向きの透けるような銀の毛束…
ーーシャウラ?ーー
戦慄いた唇はその名を放つ寸前で動きを止めた。止まってくれて良かったとすぐに思った。
隣には【秘密】を知らないクー・シーがいる。そして今、目の前にも。
レグルスさん…!!
あっという間に飛び出したクー・シーがその名の人の胸に飛び込む。このときをよほど待ち焦がれていたのか、嬉しそうに頬をすり寄せている。
よしよしと呟きながら彼の頭を撫でるレグルス。その視線が二回程ちらちらと向けられた。困惑したような、遠慮するかのような落ち着かないものだった。
反して伊津美のそれは至って静かなものだった。口をつぐみ、落ち着かないその人をじっと凝視しながら思った。
本当に似ている。いや、違うと言えば確かに違うのだけど…と。
ミラに感情移入するあまり、軸となる人物が一度目にしただけの話したことすらないシャウラに移っていることに今更のように気が付く。むしろ三度目の対面で尚且つ言葉を交わしたことのあるレグルスの方が今でははるか遠い他人のように感じられる。
この人が助けてくれたのだ、事実としてわかってはいてもやはり何処か実感が沸かない。
「帰って来てたんだぁ?いつ…」
じゃれついていたクー・シーがふと動きを止めた。ある一点に集中しているのが後ろからでもわかった。彼はそこへぐいっと顔を寄せた。
レグルスさん!?怪我してるじゃん!
その一言にドク、と奥が音を立てた。
そうなんですか、と驚いた様子のミラが手を離れてそちらへ向かう。伊津美も無意識のうちに一歩踏み出していた。
ほんの少し近付いた。強張った彼の顔を見つめた。そしてすぐに意味を理解した。
髪の隙間からわずかに傷が見える。乾いた質感、肌の色に馴染み始めているそれは治りかけだとわかる。少なくとも真新しいものではない。
そう、数日前と考えれば納得のいく…
「それって…」
思わず呟いていた。一瞬見開かれた赤の双眼は声が届いたことを示していたはずだ。しかし彼の口からは一言たりと返ってこない。
ふい、とそらされた顔。伏せられた目元に陰が落ちる。
知られたくなかった、そんな風に表情を曇らせている。伊津美は呆然として見入った。何故、と声にはならずに呟いた。
何故、黙るの?それは…その傷は、あのときの、でしょう?
あの場にいた彼は借りた肉体を纏っていたはずだ。そして傷付いたのはその借り物であったはず…だからこそ追求することもなかったと言うのに。
傷が幽体に響く?そんな話は知らない。聞いていない。
ーーばーか!!ーー
うつむく伊津美の元へやけに明るい声が届いた。顔を上げてわかった。彼のものだった。
大袈裟なんだよ、と彼は笑っている。それでも当てがわれた白い指先はしきりに銀の前髪を弄んでいる。
すぐにわかった。気付かれたことに動揺しつつも、小さな二人そして自分をも安心させようと努めていることが。
伊津美はそんな彼を上目で見つめ上げた。胸の内で生まれたのは罪悪感、そして一抹の不満であると気付きながら。
彼はまだ、こちらを見ない。
ーー言いなさいよ、直接。
不満は形となった。でも声には出せない。
私、と伊津美は切り出した。足はすでに前へ進み出していた。
「先に行くわ。」
苦し紛れの笑顔で言って見せたものの、えっ、と慌てたような反応がクー・シーから返ってくる。
その表情を見ないまま伊津美は三人の横をすり抜けた。憮然とした顔を悟られる前にと、素早く。
レグルスからは何の反応も返っては来なかった。二つの気配だけが続くように追いかけてくるのがわかった。




