7.ガルシア一族〜Garcia family〜
ーー決して薄れることのない記憶がある。
ひと繋ぎではなくて砕けたガラス片のように宙に散らばって舞っている。そしてそのほとんどに【彼女】がいる。
前世なら覚えている。かつて愛した人も、共に生きた家族や仲間も。
だけど彼女を知ってしまった今、もう昔のような生き方はできないような気さえするのだ。
彼女は全てを変えてしまった。この魂にとって彼女はそれ程までに革命的であまりにも大き過ぎる存在だった。
これから先、形を変え、色を変え、何度生まれ変わったとしても、きっとここへ帰ることを望むだろう。
ここへ帰る為の生き方をしてしまうだろう。
ーー7年前。
全身の筋肉が凝り固まる緊張の中でレグルスはこの王宮へ足を踏み入れた。すでに長きに渡って侍従長を務めていたウェズンの根回しもあってのことだった。
かつては魔族を統べていたことで知られるガルシア家の末裔。さかのぼること9年前の親衛隊長、シリウス・グラディウス・ガルシアの息子。
瞬く間に噂として広がったそれは本来ならば名誉と受け止めて誇るべきものだったであろう。
しかし迎える従事者たちの表情は険しかった。彼らは知っていたのだ。
ガルシア一族。それは今やかつての認識とはまた異なる物々しさをたたえた血塗られた存在であることを。
当のレグルスもじっとりと淀んだ視線が向けられていることに気付いていた。痛い程に。
親衛隊の入隊式典の日、同年代の若者たちに混じった16歳のレグルスはほとんどの時間をうつむいてやり過ごそうとしていた。
陶器のように血の気のない顔と、鮮やか過ぎる赤の瞳を見られたくなかった。そんなときだった。
ーーレグルスーー
それは発達した聴力の為せる技だったと言えよう。か細く遠く、くすぐるような淡い声を鋭利な耳が捉えた。レグルスは驚きに顔を上げた。息が、止まった。
遠い場所で彼女が微笑んでいる。こちらを見つめている。
控え室で初めて顔を合わせたときもこんな顔をしていたのを思い出した。まるでずっと前から知る人物を懐かしむようなその表情は彼女の身体を包む異様なものの存在すら霞ませてしまったくらいだ。
意味さえわからないまま全てを奪われた気がした。その一方で更なる違和感を感じていた。
彼女の声が呼んだのは紛れもなく自分の名だった。真っ直ぐ見ていたのもこちらだったはずだ。それなのに何故だろう。まるで何処か別の場所へ呼びかけているような…
熱を帯びた胸の奥に靄がかかった。その先を見るのは何故だか無性に怖かった。
彼女との距離は日を追う毎にゆっくりと、でも確実に縮まっていった。まさに“順調”と呼べる穏やかで心地の良い速度だった。
彼女は恥じらうように頬を染めつつも近付き頼ってくれる。こんなにも位が離れているのに、とレグルスは不思議に思った。
時に細い指先が触れてくる。掴むのではなく摘まむ程度に名残惜しげに引き止める。その度に内側の熱が脈打ち、レグルスはそんな自身に戸惑った。
二人の間で進む変化を察知している者が身近にいることにも気付かない程、ひたすら彼女ばかりが熱っぽく湿った目に映っていた。
入隊から1年が過ぎたある日、町内の巡廻から戻ったときだった。
おい、と呼び止める野太い声。異様な重い空気の中で振り返ったレグルスを5、6歳程上の数人の男が見下ろす。
鋭く、そして冷たい眼差し。ただならぬ気配を感じた。
人気のない裏庭に移動して1対5の状態で向かい合った。
「お前が殿下に言い寄っていると聞いた」
本当か?と低く太い声が言う。
レグルスは少しだけ目を見開いた。それから小さくいいえ、と返すと向かい合う一人がへっ、と鼻で笑った。
「ーー嘘だな」
嘲笑うような顔の男が言った。
「お前は殿下をお守りする親衛隊の立場でありながら、あの方をそそのかそうとしている。それも下っ端の分際で…」
「そんなつもりは…!」
困惑したレグルスが一歩前へ出て返す。そこへ別の方からの声が言う。不気味な程、落ち着いた声だった。
ーーさすがはガルシアの血筋だなーー
冷たく蔑みの色を持つその一言はレグルスの動きを完全に止めた。見開かれた瞼も動かず、その中の瞳だけが揺らいでいた。
見下ろす男が更に言った。憎しみに染まったような表情と共に。
「殿下が誰によって呪いをかけられたか、お前も知ってるよな?その上でこれか?今度は“色目”という魔力で呪いをかける気なのか…!?」
それが最後に認識した相手の言葉だった。自身の中で何かが弾ける音をレグルスは聞いた。
気が付くと辺りは怒号と土埃に見苦しく染まっていた。口内で広がる錆びた鉄のような味。一体いつから、どうしてこうなったのかは覚えていない。
「俺のことはいい、馬鹿にしたけりゃ好きなだけ言え!だけど……」
混乱の中でやっと、自分が何を言っているのか聞き取ることができた。
「てめぇにガルシアの何がわかる!!」
父さん、親父は……!
無我夢中で拳を振り上げたとき、衝撃が正面から襲った。ミシ、とひび割れたみたいな嫌な音がした。
為す術もなく背中から地面に倒れ込む。そこを複数の太い腕が起き上がれないように押さえつける。更にじんわり量を増した不快な味をレグルスは横を向いて吐き出した。
再び向かい来る拳。顔へ落ちる影。
レグルスは奥歯を食いしばった。
固くつぶった瞼の目尻に湿り気を感じた。
ろくな反撃もできず無様に地に押さえつけられている自分が惨めで悔しくて、抑えきれないそれはついに筋を作って流れた。無気力に身体の力が抜けた。
ーーやめなさい!!ーー
ああ、こんなときにまであの声が聞こえてしまうなんて、俺はどれ程熱に浮かされていたのだろう。
一体どれくらいそうしていたのか。レグルスはゆっくりと瞼を開いた。来るはずの衝撃がいつまで経っても来ない。
視界が霞んでいる。それが徐々に晴れていく。レグルスは目を見張った。取り囲む男たちも同じ方へ顔を向けて静止していた。
聞き間違いでも幻聴でもなかったと、知った。
彼女がこちらを見て立っている。あどけなさの残る顔を涙に濡らしながら。
何故こんなことをするの、と彼女は震える声で問う。
殿下…!!
やっとのように声を上げた男たちが一斉にひざまずく。しかし彼らを見下ろす表情は変わらない。
彼女は言った。悲しく、でも強い語気だった。
「何故なのですか、説明しなさい!」
「しかし殿下、この男はガルシアの……」
潤んだ彼女の目が鋭く形を変えた。
「ガルシアが何ですか、この人は【レグルス】です!」
他の何ものでもない……
最後の言葉は宙に溶け込む煙のように揺らいで消えた。
たがが外れたような彼女が両手で顔を覆って泣き崩れた。
呆然と見上げるレグルスの前でいかつい男たちが次々と両手を着き、自らの頭を地面に打ち付けた。
救護室で手当てを終えるまでの間も彼女は傍を離れなかった。レグルスは何度も横目でその様子を見た。
泣き腫らした両の瞼。沈んだ表情から彼女もまた深く傷付いているのがわかった。放ってなどおけなかった。
ひとまずは落ち着くまで休んでもらおうと部屋まで送ることにした。
初めて前にする彼女の部屋。立ち塞がる荘厳な扉がいやに高く見える。それでは、と頭を下げて立ち去ろうとしたとき彼女がまた裾を摘まんだ。
レグルス……
驚いて振り返るレグルスにうつむいたままの彼女が小さく言った。
「話があります。一緒に」
耳を疑った。レグルスはとっさにかぶりを振った。
「そんなこと……」
「いいのです」
彼女の言葉が遮った。小さく、それでもはっきりと。
できない。できる訳がない。入隊してまだ1年程度の下っ端が王女の部屋に足を踏み入れるなど、聞いたことがない。
内なる葛藤はきっと困惑となって表情に現れていたのだろう。彼女が気付いてしまう程に。
「私が許可します」
彼女が言う。これはもう命令と同じだ。額をじっとりとしたものが濡らす。
辺りを見た。二人の執事が両側から扉を開いている。聞こえていることは間違いないだろうに表情一つ変えないことがまた不気味だった。
レグルスは彼女に聞こえないように、そっと少しずつ息を漏らした。恐る恐る踏み出した足。背後で扉が閉ざされる音を聞いた。
そこは日当たりの良い部屋だった。思いのほか質素な印象に驚いたがこんなものかも知れないとも思った。
改めて見ると無駄のない空間は清らかな彼女の印象によく合っている。それでも取り囲むもの一つ一つが上質でやはり位の高い者が生活する場なのだと実感させられる。
「殿下、何故……」
西側の窓から差し込むオレンジに染め上げられた彼女の背中に問いかけた。皆までは言えずに。
しばらく続いた沈黙の後に声がした。彼女は振り返らないままだった。
「私の悩みを聞いてほしいのです」
相談です、と彼女は言う。何でしょう、とレグルスは返す。
彼女はまた少し溜めた。緊張が更に
高まった。
「私は今、王家の人間としてあるまじき姿になりつつあります。本来ならアストラルの全ての民を平等に愛さなければならない。分け隔てなくこの世界の全てを」
なのに……
消え入りそうな声の後ゆっくりと、華奢な身体が振り返った。レグルスは息を飲んだ。
逆光に陰が落ちている中でエメラルド色の双眼が潤み、光っている。そして真っ直ぐとこちらを見ている。
「あなただけが違うのです」
彼女が言った。困惑し助けを求めるような顔で。思いもしなかった言葉に理解が追いつかない。
……申し訳ありません。
レグルスはやっと口を開いた。ちゃんとに理解もできないまま無理矢理な笑顔を彼女に向けた。自分なりの解釈をそちらへ言った。
「殿下はお優しいから……危なっかしい俺のことを心配してくれているんですね」
彼女を縛る呪いが揺らめいている。この人は本当にすごいとレグルスは見入った。恨んで当然なはずの者を案ずる気持ちがあるなんて、と。
しかしそんな考えもやがて遮られることになった。彼女がうつむきかぶりを振ったのだ。何の否定なのかもわからないうちに、彼女の声がした。
すき、なの……
薄く開いた口を閉じることさえ忘れてしまった。目の前の彼女が朱に染まった顔を上げた。せきを切ったように彼女は言った。
「あなたが好き。愛しています、レグルス……!」
時間が静止したように思える中で内側の熱ばかりが増していく。真っ白な頭がやっと認識したのは涙を拭う彼女の姿だった。
「あなたの傍に居たくて、触れたくて仕方がなかった。そんな自分は汚らわしくてすごく嫌なはずなのに、どうしようもないの……」
ああ、とレグルスは胸の内で呻いた。
この人は何も知らない。あどけない容姿と同じように内面まで。
自身の中で生まれたものに戸惑い、あろうことか慣れないそれを穢れなどと思っている。例えようのない罪悪感はいずれ誰もが迎え、向き合うものだと知らない。
前世でもこんな生き方をしたのだろうか。それともまだ十分に思い出せていないのか。
教えてもらうこともなかったのなら無理もないだろう。
レグルスの足が一歩また一歩と歩み出す。自身の肩を抱き、震えている無垢な彼女に向かって。
ーー穢れなんかじゃない。
意識せずとも自然にその言葉が出た。揺れる瞳で見上げる彼女がいつの間にか胸にうずまった。
きっとまだ階段を登り始めたばかり。迷える彼女に教えてやった。
あなたに芽生えたそれは汚らわしい罪などではない。恥じることなどないのだと。
「あなただってそうして生まれて来たんでしょうが」
少し湿ったぬくもりを持つ彼女の背中を締め付けながらレグルスは言った。もはや閉じ込めることも叶わなくなった欲望に声がかすれていた。
やがて自身の背中にも同じ温かさと爪を立てられる細い痛みを覚えた。彼女が応えてくれたのだとわかった。
内も外も清らかな彼女に指一本さえ触れるのをためらっていたはずだった。それでも抱き締めた。何があっても離すまいと、力強く。
ただ飾らないありのままの本能に突き動かされていた。身も心も装飾を外した。戻ることも止まることももう出来なかった。
アストラルというこの世界のたった一人の姫。そんな尊い存在の奥深くまで知ろうとしていることに罪の意識…熱く甘く痺れる背徳感に総毛立つ。彼女が抱える罪悪感などとは比較にならない程、貪欲で醜い。
時折、目をきつくつぶって悶える彼女。痛みなのかそれとも悦びか。
少女らしい細い鳴き声とは相反する艶かしく湿った瞳が見つめ上げる。戦慄く唇から何度も何度も名を放つ。それが更に今を昂ぶらせるともきっと知らないで。
彼女が切なく鳴く度にレグルスはそっと口付けた。ガラス細工の人形を扱うみたいに、優しく。
大丈夫、傍にいると全身で与え続けた。絡み合う指はそのままに、共に疲れ果てて眠りにつくまで寄り添うことをやめなかった。
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虚ろな目と安定しない足取りで廊下を進んだ。ろくに睡眠も取れていない身体はすでに限界だ。
王宮の皆はそれぞれの場所で自分の仕事をしている頃だろう。レグルスは痛む前頭葉あたりを荒々しい手つきで撫で回す。
人気がない。そのことにすっかり油断していた。卓越した聴力もまるで役に立たなかった。
突き当たりを曲がろうとしたときにやっと気が付いた。歩いてくる三つの人影。やがてはた、と目前で止まったその姿にレグルスは思わず固まった。
あなた……
半開きの彼女の唇からわずかな声が漏れた。出会ったときとは異なる服に身を包んだ桜庭伊津美だった。
「レグルスさん!」
間髪入れずに嬉しそうな表情を咲かせたクー・シーががば、と胸元に飛び込む。主人の帰りを待ちわびていた仔犬のように顔をすり寄せてくる。
レグルスはよしよし、と呟きながら硬い質感の彼の頭を撫でてやる。想像していた以上の反応に胸の奥がくすぐったく、そして安堵に温まっていく。
「お帰りなさい、レグルスさん」
幼く優しい声色に視線を落とした。
足元で見上げるミラは相変わらずの品の良い笑みを浮かべている。ただいま、と返すと円らなアクアマリンが更に細まる。
陰りなど感じられない二つの幼い顔。つい先程まで気にしていたことが、いや気にしていた自分が馬鹿みたいに思えて笑った。
じっと向けられている桜庭伊津美の視線はこの際とことん鈍感に気にしないようにしようと思っていた。
彼女が求めているものならすでに明白だ。ここで下手に視線を合わせなどすればまず期待が膨らみ、そしてまた失望にしぼむ過程を目の当たりにしてしまうだろうと思ってのことだった。
実際、手土産と呼べるものは何一つないのだ。触れない方がいい。それが妥当であるような気がした。
「あれ……?」
不意にクー・シーの顔がレグルスのそれに間近に迫った。朱色の目が見開かれていく。
まさかのことが起こったのはそのすぐ後だった。
「レグルスさん!?怪我してるじゃん!」
クー・シーが響き渡る声を上げた。えっ、と小さな反応が足元からも返ってきた。一瞬にして血の気が引いた。
「そうなんですか、レグルスさん!」
心配そうな顔をしたミラが駆け寄ってくる。
「何か髪型が違うと思ったら……」
痛みを共有するみたいに眉を寄せ、見つめ上げるミラが呟く。その後ろに立つ彼女の姿が目に飛び込んだ。ゆっくりと口が開かれるのがわかった。
それって……
言いかけられたばかりのそれを遮るようにレグルスは顔を背けてしまった。思わずのことだった。
誰も言葉を発さない、その時間が何分、何時間であるかのように感じられた。気の利いたことも浮かばないままにレグルスは豪快な笑い声を上げた。
「ばーか!大袈裟なんだよ。これくらいのことで俺がへばるとでも思ってんのか?」
やっと口を突いて出たのはあまりにも苦し紛れな言葉だった。いたたまれなさをかき消すようにポンポンと小さな二つの頭を軽く叩く。
ものも言わず立ちすくんでいる彼女の方は見れなかった。
やがて彼女、桜庭伊津美が先に歩き出した。クー・シーとミラも慌てたように後へ続く。
時折遠慮がちにチラチラと振り返ってくる二人に笑いかけた。構うな、行け、と目で示した。
ーー参ったな。
声には出さずに呟く。ふと足を止める。額の傷に触れた。
上手く隠したつもりでいたのに、とレグルスは苦々しく思い返した。
あのマラカイトという男と戦ったとき。
彼はいかにも新参者らしかった。洗練されていない荒削りな戦い方からすぐに察することができた。
そして不覚にも圧倒されてしまった。あの黄色の双眼の奥に計り知れない潜在的なものを見た。
妖精族は色鮮やかだ。
草原を思わせるビリジアングリーンの髪、キャンディーのような黄色い瞳、頬と目尻に刻まれた紅のライン。
彼はまさに“らしい”と言える。
しかしそれだけではなかった。
現代ではまず感じることができないであろう波長。あまりにも色濃い妖力。それはレグルスに一瞬の迷いと隙を与えるのに十分なものだったのだ。
幽体まで響く裂傷を負ったことに気付いた。同時にある言葉が脳裏をよぎった。
純血。
現代では口にする機会すらほとんどない。それこそ古よりの伝説を語るときくらいにしか使われないそれが何故か真っ先に浮かんだ。
ああ、本当に情けねぇ。
レグルスは苦笑する。
幸い負った傷は長い前髪で隠せる位置にあった。このままなかったことにしたかった。しかし思いがけず露呈してしまった。
よりによって一番知られたくない人の前で。
もっと気を付けていれば、人気のないことに油断して額をかき乱したりしなければと悔やんでももう遅い。
レグルスは今更のように銀の前髪を引っ張った。いくらこうしてみたってこれから向かう先にいる彼女はきっと気付いてしまうのだろうが。
「あれ、レグルスじゃん。帰ってたのか?」
呼ぶ声に顔を上げた。ナース服こそ身に付けているものの漆黒の髪はまだ束ねられていない。眠そうに目をこすりながら歩いてくる。メイサだった。
「何だよ、浮かない顔してさ」
さすがの感の鋭さだと認めざるを得ない。何か気付いたような彼女が怪訝な顔で覗いてくる。
レグルスは少し迷った後、小さく口を開いた。隠しても無駄だと思った。
「桜庭伊津美に会った」
目の前のメイサに言う。
「いくらか元気になったみたいだな」
漆黒の目が見開かれていく。猫のようにくっきりと。どうやら驚いているようだ。
レグルスは不思議に思った。まさか自分の無意識の表情が彼女をそんな顔にさせているなど気付きもせず。
「まぁ私らがいつもちょっかい出してるからな……」
頭を掻きながら何処かへ視線を流すメイサの頬は何故だかほんのり色を帯びている。風邪でも引いたのだろうか。
しかしそれはほんの一時的なものだった。すぐにあの悪戯めいた笑みが向き直った。彼女は言った。
「何さ、アンタ寂しいのか?」
レグルスははぁ?と思わず声を上げた。
「んな訳ねぇだろ、馬鹿」
呆れ顏で言い放ってやった。
強がっちゃってとでも言いたげにメイサはなおも上目遣いと含み笑いを続けている。憎たらしい。
ただ……
目の前の彼女を不満げに一瞥した後、レグルスはまた言った。
「限界を感じるっていうか……」
そこまで言いかけて口をつぐんだ。やはり言葉ではまとまらなかった。おのずと眉間に深い皺が寄った。
桜庭伊津美、彼女に接するときには決まってある感情がつきまとう。何故だかはわからないが無理矢理当てはめるとしたらそう、罪悪感だろうか。
鉢合わせたあのときより更に一瞬前に目にした光景を思い出した。
ミラとクー・シーを両脇に連れて手を繋いでいた。慈しむ聖母のような優しい顏は決してこちらに向けられることはない。そんな確信がレグルスにはあった。
喉から手が出る程欲しいものではないはずなのに何故なのか鈍い痛みを覚えてしまうのだ。
「何だよ、限界って。アンタらしくもない」
やがてメイサの呆れたような声が届いた。よっぽと疲れてるんだな、と彼女は言う。そうかも知れないと思った。
再び歩き出そうとしたレグルスの背中に彼女があることを言った。それはウェズンと同じ提案だった。
「早く姫に癒やしてもらえよ」
メイサがにっと白い歯を見せて笑う。何だか煮え切らず悔しいがもうそれしかないような気もしていた。
17になったばかりのあのとき以来何度も辿った道のりなのに妙に懐かしく感じる。まるで長い歳月を越えて再会を果たすその前のように。
荘厳な佇まいの扉も今では自然に執事が開いてくれる。扉を閉めた後にその場を離れることも彼らの間では暗黙の了解となっているようだ。
ソファに座っていた彼女が跳ね上がるように立ち上がった。離れていてもわかる。花開くみたいに満たされていく様子が。
「レグルス……!」
心底嬉しそうな甘い声が呼ぶ。駆け寄り飛び込んできた彼女をレグルスは受け止めた。
「スピカ……」
鼻先をくすぐる柔らかな匂いが愛おしい。ふわふわとした栗色の髪に顔をうずめながらレグルスは思った。情けないくらいに実感した。
彼女の前で俺は極めて無力である、と。
ーー空気の質が変わった。夜が訪れているのを肌で感じた。蓄積された疲労とは恐ろしい。朝から食事のひとつも取らず眠り続けていたというのか。
それでも満たされている。今もなお寄り添い続けてくれているこの気配が叶えてくれたのだろう。
薄暗い藍色に染まった部屋。
微睡みの中で一つだけ覚えがあった。
はだけてしまったであろう額、あの傷跡に柔らかなものが触れた感触を。
彼女は何も言わなかった。未だ縛り付ける呪いの解き方どころか負けを示す無様な跡だけを持ち帰ったことさえ許すように。
もう言わなければならない。時に騙された振りまでしてくれる優しい彼女をこれ以上あざむくなど…
そんなことを何度も考えては先延ばしにした。残念ながら今夜もその余力は残っていない。
カウントダウンはもう始まっている。せめて今だけでも、とレグルスは身を委ねた。
離れていくのが怖い、触れた素肌から伝わる彼女のぬくもりを感じながら開きかけた瞼を再び閉じた。




